62 懐かしい夢から目覚めてみれば その2


「っ」


 洩れた吐息は、安堵か嘆息か、自分でも判断がつかない。


 あどけなく眠り続ける明珠の上から身を起こし、眠りを妨げないようひそやかに寝台から下りて戸口へ向かう。


「何用だ?」


 扉を開けながら問うた声は、我ながら不機嫌で低い。が、同時に心の片隅で、誘惑に流され、道を踏み外さずに済んだことを安堵している自分もいる。


 廊下に立っていたのは安理だった。昼食が載った盆を、片手で器用に支えている。


「何用って……。お昼なんで、昼食をお持ちしたんスけど?」


「もう、そんな時間だったか……」

 思わず呟く。


 熟睡した気はしていたが、そんなに眠っていたとは。

 無意識に洩らした呟きに、安理が過敏に反応する。


「えーっ!? もうそんな時間かだなんて、いったいナニをなさってたんスかぁ~? 妙に静かでしたし、まさか、今朝の今でナニなさってたワケじゃないでしょ――、うひゃあっ!」


 安理が繰り出された蹴りをすんでのところで避ける。

 かしゃん! と盆の上で食器同士が当たるかん高い音が響いた。


「龍翔様ひどっ! なんでそんなにイラついてらっしゃるんスか~!」


 安理が唇をとがらせて抗議する。

 が、龍翔は答えるどころではなかった。


「んぅ……?」


 もぞり、と衝立の向こうの寝台で、明珠が目を覚ましたらしい衣擦れの音がする。


「明順、もう少し――」

「あれ? 龍翔様……?」


 龍翔がみなまで言うより早く、ぼんやりと呟いた明珠が、がばりと起きる気配がする。かと思うと。


「すっ、すみませんっ! 私だけ寝こけてしまって……っ!」


 衝立の向こうから、明珠が大慌てで飛び出してくる。


「へ?」

 と、安理が珍しく間の抜けた声を上げた。


「寝こけた、って……。しかも、明順チャンが出てきたのは、龍翔サマの寝台からっスよね? まさか……っ!?」


 見ずとも、安理の顔がにやぁ、と緩んだのがわかる。


「龍翔様、もしかしてホントに……」

「そんなわけがなかろう!? さっさと昼食を置いて出て行け!」


「あっ、安理さん、お昼ご飯を持ってきてくださったんですか! ありがとうございます!」


 明珠がぱたぱたと駆け寄ってくる。


「あっれ~?」

 と安理が首をかしげた。


「それにしちゃ、明順チャン、ふつーに動いてるっスね。髪が少し乱れてるくらいっスし。ほんと、いったい何してたんスか?」


「そ、その……。お昼寝を……」


 安理が持つ盆を両手で受け取りながら、明珠が恥ずかしそうに答える。


「え? 昼寝?」

 安理が目を丸くする。


「二人で? 龍翔サマの寝台で?」


「そっ、その、眠るつもりはなかったんですよ!? 膝枕をしていたら、龍翔様が眠られて、それでつい、私も……」


 明珠が恥ずかしそうに頬を染め、あわあわと弁解する。


「へえぇぇぇ~。膝枕をねぇ……」

 安理がやけに含みを持たせて呟く。


「何だ? 何が言いたいのだ?」


 顔をしかめて促すと、安理がにやにやと笑いながら、流し目を送ってきた。


「まっさか、龍翔サマが誰かの膝枕で無防備に眠られる日がくるなんて……っ! と思うと、感慨深いなぁ~、と♪」


 安理の言いたいことは、龍翔もわからなくもない。


 いつ、命を狙われるとも知れぬ状況で過ごしてきた龍翔は、張宇達がそばにいない状況で熟睡することは滅多にない。不慮の事態に備えられるように、常に頭のどこかが警戒している。


 それがまさか、夕べは寝不足だったとはいえ、明珠に膝枕をしてもらっただけで、寝落ちてしまうとは。自分でも信じられない。


 と、不意に安理が大仰な仕草で吐息する。


「ってゆーか、で手が出せないって……。オレ、心の底から龍翔サマに同情するっス……」


「お前の同情などいらん。されても腹立たしいだけだ」


 すげなく返すと、安理がぶぷーっ、と噴き出した。


「そーゆー妙に頑固なところも龍翔サマっスよねっ♪ けど、もしどーしてもおツラくなったら言ってくださいっス! オレ秘蔵の春――」


「やはり、お前は口を縫いつけたほうがよさそうだな?」


 冷ややかに睨みつけると、安理が「あ、ヤベ!」とおどけた様子で首をすくめる。


「んじゃまっ、お邪魔虫はとっとと退散するっス~♪ お二人でごゆ~っくりお過ごしくださいっス♪」


 一礼した安理が、さっと身を翻す。

 本当に逃げ足だけは一流だと吐息し、龍翔は扉を閉めて明珠を振り返った。


「明順。待たせたな。さあ、昼食にしよう」

 明珠の手からさっと盆を取り、卓へと歩む。


「ああっ。龍翔様、用意でしたら私が……っ」


 ぱたぱたと明珠が後ろからついてくる。


「わたしも一緒に食べるのだ。二人で支度したほうが早いだろう? それに、用意と言っても皿を並べるだけではないか」


「そ、それはそうなんですけれど……。でも、私は龍翔様の従者なのですから、ちゃんと仕事をさせていただかなくては困りますっ」


 明珠が愛らしい面輪を険しくして龍翔を見上げる。


「仕事をさせてくれないと困るとは、何ともお前らしい言い分だな」


 真面目な明珠らしい言葉に、龍翔は思わず笑みをこぼした。

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