62 懐かしい夢から目覚めてみれば その1


 覚醒した龍翔が最初に感じたのは、柔らかなあたたかさとかぐわしい蜜の香りだった。

 ゆっくりと開けた視界に飛び込んできたのは、明珠のお仕着せの帯と着物だ。


「っ!?」


 一瞬で眠気は吹き飛んだものの、状況が分からず、混乱する。


 そうだ。明珠が膝枕をしてくれると言い出し、その提案に乗り――。

 寝台へ連れてきて横になったのはいいが、すぐに後悔したのだ。


 布地越しに感じるふとももの柔らかさが、思わずその下の肢体を想像させて、よこしまな欲望が頭をもたげてしまいそうで……。


 なので、心を無にしようと、目を閉じたのだが。


 明珠が頭を撫でてくれる心地よさに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。


 膝枕をして頭を撫でてもらうなど、母が生きていた頃以来だ。

 そのせいか、珍しく母の夢を見た。


 まだ龍翔が幼い頃の夢。内容は覚えていないが、母が慈愛に満ちた笑顔で。龍翔を優しく抱きしめてくれていた。今よりもずっと若い梅宇や梓秋ししゅう梓冬しとう、乳母を務めてくれていた張宇の母もいたように思う。


 そして、明珠の母、麗珠の姿も。


 長じてからは、母の姿を夢に見ることなど、とんとなくなっていた。懐かしさに、胸の奥がきゅっと絞めつけられるような気持になる。


 母が皇帝を愛していたかどうかはわからない。《龍》の気が毒であることを知っていたかどうかも。


 けれども、母はいつだって、龍翔を心の底から愛し、敵ばかりの後宮で、全力をかけて守ろうとしてくれていた。


 成人し、政敵の強大さをひしひしと感じるようになった今、母の苦労がどれほどのものだったのか、よくわかる。


 が、ぼんやりと過去の思い出に浸っている場合ではない。


「……明珠?」


 そっと名を呼んでみたが、答えは返ってこない。


 おそらく明珠も寝ているのだろう。でなければ、明珠が龍翔のすぐそばで背に手を回して横になったままでいられるとは思えない。が、今の体勢では顔を見て確認することすら不可能だ。


 明珠の下敷きになっていた腕を引き抜き、寝台に身を起して覗き込むと、案の定、明珠はすよすよと健やかな寝息を立てて眠っていた。左手はしっかりと服の上から龍玉を握りしめたままだ。


「明珠?」

 もう一度、名を呼んでも、返ってくるのはひそやかな寝息だけだ。


 夕べは、夜更けにうなされて起きてしまったせいで、睡眠が足りていないのだろう。起きないのなら、このまま寝かせてやった方がよいのかもしれない。


 考えながら、龍翔はまじまじと眠る明珠を見つめる。


 自分の寝台で明珠が眠っているというのが、どうにも信じられない心地がする。


 一瞬、これは幻ではないかという埒もない想像に囚われて、掛布の上に寝乱れて散る髪をひと房手に取る。


 幻ではない証拠に、龍翔の手の中で黒髪がさらさらと滑り、心に喜びが満ちる。

 宝物を扱うように、そっと柔らかな黒髪にくちづける。


「明珠」


 飴玉あめだまを転がすように愛しい少女の名を呟くだけで、甘やかな喜びが湧き上がる。


 身をかがめ、乱れた前髪から覗く額にくちづけを落としても、明珠はまだ目覚めない。代わりに、蜜の香気が龍翔の鼻を優しくくすぐる。


 その香りに誘われるように、次いでなめらかな頬にくちづける。


 眠る明珠に無断でくちづけるなど、いけないとわかっているのに、自分を止められない。


 頬に、額に、鼻の頭に、優しくくちづけの雨を降らせてゆく。


 唇だけは、かろうじて自制した。明珠が知らぬうちに、《龍》の気で傷つけるわけにはいかない。


 代わりとばかりに、無防備にさらけ出された細い首筋を唇でゆっくりと辿ると、くすぐったかったのか、明珠が「んん……」と声を上げた。


 はっとして、あわてて身を起こすが、明珠はもぞ、と身動みじろぎしただけで、ふたたびすやすやと寝息を立て始める。


 安堵すると同時に、龍翔は思わず苦笑した。


「そのように狼の前で無防備に眠っていては……。そのうち、喰われてしまうぞ?」


 明珠の首筋に、くちづけを落とす。


 叶うならば、思い切りくちづけて、いつかの夜のようになめらかな白い肌に己の印を刻みつけてしまいたい。


 昏く甘い願いが龍翔の欲望をかき立てる。


 白い肌に映える紅い花びらを刻み、一時なりとも独占欲を満足させれば……。身体の奥に巣食う渇望が、わずかなりとも慰撫されるかもしれない。


「明珠……」

 愛しい少女の名を呼ばう声が、熱情を宿して甘くかすれる。


 心まで酔わせる美酒を味わうように、甘く薫る頬にくちづけ、柔らかな耳朶じだを唇でむ。

 

 細い首筋を唇で辿り、願うまま、花びらを落とそうとして。


 扉を叩く音が、龍翔を正気に戻らせた。

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