63 教えてくれるまで、放さぬぞ? その1


「明珠。眠ってしまったせいだろう。少し、髪が乱れているぞ」

「え?」


 昼食後、食器を片づけ終わったところで龍翔に指摘され、明珠はあわてて頭に手をやった。龍翔の言う通り、少し髪が乱れている。


「す、すみません。お目汚しを……」


「ん? お目汚しなどというほどではないぞ? だが、こちらへ来い。わたしが結び直してやろう」


「ええっ!? 龍翔様にそんなお手間をおかけするわけには……っ」

 明珠は恐縮して断るが、龍翔は笑ってかぶりを振る。


「手間というほどのものではない。おいで」


 昼寝をしてしまったのは龍翔も同じだが、龍翔は明珠が食器を片づけている間に、さっさと自分で縛り直してしまったらしい。いつも通りの見惚れるほど凛々しい姿だ。


 くしを手にした龍翔が長椅子へ明珠を手招く。


「では……。お言葉に甘えます」


 招かれるまま長椅子に座り、背を向けると、龍翔が髪を束ねていた絹紐をほどいた。すぐに、優しい手つきで髪をき始める。さらさらと髪の間を櫛の歯が通ってゆく感覚が心地よい。


「そういえば、少し前にも龍翔様にこうして髪を梳いていただいたことがありましたね」


 黒曜急に初めて上がった日、湯殿でのぼせてしまい、廊下にへたりこんだ明珠を助けてくれたのは龍翔だった。


「あの時はご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした」


「何を言う? あの程度、迷惑でもなんでもない」

 背後の龍翔が苦笑する気配がする。


「ところで、午後からはどのように過ごしたい? わたしのせいで、お前の時間を奪ってしまったからな。お前の望むとおりに過ごそう。どうする? 張宇に言って、とっておきの菓子でも持ってこさせようか?」


「ええっ!? そんな、いいですよ! 龍翔様こそ、いつもお忙しくていらっしゃるんですから、休めるときにゆっくりなさってください!」


 龍翔の言葉にかぶりを振ろうとして、つん、と髪が引っ張られる。髪を梳いてもらっているのだったと、明珠はあわてて前に向き直った。


「だが、それではわたしの気が済まん。むろん、わたしもお前のそばでゆっくり過ごさせてもらう気だが……。何か、望みはないか?」


 龍翔の言葉に、うーんと考え込む。

 ふと思いついたのは。


「あ、あの。それでしたら、ひとつお願いがあるんですけれど……」


 おずおずと龍翔を振り返る。


「ん? 何だ?」

 振り返った途端、手を止めた龍翔と視線が合う。


 嬉しげな笑みに、ぱくんと心臓が跳ねた。途端、自分がとんでもないお願いをしようとしているのではないかと、急に心配になる。


「や、やっぱりいいです! 何でもありませんっ!」


 紅くなった顔を隠そうと勢いよく前に向き直ると、不意に龍翔の腕が伸びてきた。


「ひゃっ!?」

 ぐいっと引き寄せられ、体勢を崩して龍翔の胸元に後ろから倒れ込んでしまう。


「なぜ、教えてくれぬ? わたしには言えぬことなのか?」


 少しねたような龍翔の面輪。

 だが、明珠はそれどころではなかった。明珠を覗き込む顔が近すぎて、鼓動が一気に早くなる。


「お、お放しくださいっ!」


 明珠の懇願とは逆に、龍翔がぎゅっと腕に力をこめる。


「答えになっておらぬぞ?」


 どこかからかうような龍翔の口調。

 が、明珠は答えるどころではない。心臓が喉から飛び出しそうなくらい跳ねている。龍翔の衣に焚き染められた香の香りに溺れてしまいそうだ。


「で、ですが、龍翔様にご迷惑をかけるわけには……っ」


「何を言う?」

 あわあわと何とか言葉を絞り出すと、龍翔の声が低くなった。


「お前に願い事をされて喜びこそすれ、迷惑だなどと、思うはずがないだろう?」

「で、ですが……、ひゃっ」


 ふ、と耳に息を吹きかけられ、すっとんきょうな声が飛び出す。


「教えてくれるまで、放さぬぞ?」


 耳に心地よく響く声で至近で囁かされ、一瞬で思考が沸騰する。

 反射的に逃げようとしたが、あっさりと龍翔の両腕に動きを封じられる。


「お、お放しくださいっ」

「お前が願い事を教えてくれたらな」


 くすくすと楽しげに喉を鳴らす龍翔の面輪は見えないが、きっと、いたずらっ子のような表情を浮かべているに違いない。


「言います! 言いますから!」


 こうして話しているだけでも、ふとした拍子に心臓が口から飛び出すんじゃないかと思う。

 叫ぶように告げると、ようやく龍翔の腕が緩んだ。


「その、お願いというのはですね……」


 真っ赤になっているだろう顔を見られたくなくて、龍翔に背を向けたまま、もごもご話す。


「以前、私がのぼせてしまった時に、龍翔様が《氷雪蟲》で冷やしてくださったでしょう? その、《氷雪蟲》のび出し方を教えていただけないかと思いまして……」


「《氷雪蟲》の?」

 虚を突かれたような龍翔の声に、明珠はあわてて振り向く。


「あ、あのっ、だめだったらいいんですっ! そもそも、私なんかが扱える蟲かどうかわかりませんし! でも、扱えたらすごく便利だろうなぁって……」


 明珠の言葉に、龍翔が得心したように頷く。


「確かに、南の晟藍国に近づいていることもあり、最近かなり暑くなっておるからな。《氷雪蟲》を扱えれば、涼をとるのによかろう」


 そう告げる龍翔は、暑さなど感じていないと言わんばかりの涼しい顔だ。明珠のほうは、緊張と羞恥で変な汗が出ているというのに。


「《氷雪蟲》の喚び出し方を教えるくらい、大したことではない。お前さえよければ、すぐに教えよう」


「ありがとうございます!」


 ぺこりと頭を下げた拍子に、ほどいたままの髪が肩を滑る。


「まずは、髪を束ねなくてはな」

 苦笑した龍翔に促され、明珠は素直に前に向き直った。

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