61 こうすれば、わたしも一緒に読めるだろう? その1
遼淵への手紙をくくりつけた《渡風蟲》を細く開けた窓から放ち、きっちりと窓を閉め直してから、龍翔は室内を振り返った。
部屋の中央に置かれた卓では、明珠が一心不乱に巻物を読んでいる。龍翔が立ち上がったのにも気づいていない様子だ。
墨をすりながら、横目に観察していたが、巻物を読んでいる明珠は、真剣な顔で読んでいるかと思えば、急に心配そうに眉を寄せたり、かと思うと安堵したようにほっと吐息したりと、表情がくるくると変わって、見ていてまったく飽きない。
思わず何度も手を止め、まじまじと観察してしまったので、短い手紙を書くだけなのに、やけに時間がかかってしまった。
これほど巻物に夢中になっているのなら、もっと早くに色々な巻物を用意しておいてやればよかったと後悔する。
以前、書庫に張宇と向かわせた時には、玲泉が現れたせいで、結局、明珠のための巻物を探す余裕はなかった。
物語がよいところなのか、明珠は今は、とろけるような幸せそうな笑みを浮かべている。
その姿に愛しさを覚えると同時に、笑顔を向けられているのが自分ではなく、巻物であるということに不満を覚えてしまう。
晟藍国へ着けば、婚礼の準備だの、晟藍国の内情や賊の正体を探る調査で忙しくなるだろう。明珠とのんびり過ごせる時間はほとんど取れなくなるに違いない。
そう考えると、龍翔の心の中で、わがままな気持ちがむくむくと湧いてくる。
我ながら子どもっぽいと呆れながら、それでも心が誘うままに、龍翔は窓辺から離れると卓に歩み寄った。
先ほどまでは対面に座っていたのだが、明珠の隣の椅子を引いて腰かけると、さすがに明珠がはっと気づいて巻物から顔を上げる。
「す、すみませんっ、龍翔様。何か――」
「それほど面白いのか?」
謝罪を遮るように問うと、大きな頷きが返ってきた。
「はいっ! とっても面白いです! 続きはどうなるんだろうって、すっごく気になって、夢中で読んでしまっていて……。すみません、龍翔様はお仕事をなさっているのに、私だけこんな――」
「そうか。お前がそれほど面白いと言うのなら、わたしも読んでみたくなるな」
言うなり、龍翔は明珠を抱え、自分の膝の上に載せる。
後ろから抱きしめられた明珠が、「ひゃあぁぁぁっ!」とすっとんきょうな悲鳴を上げた。
「なっ、何なさるんですか――っ!?」
「うん? こうすれば、わたしも一緒に巻物を読めるだろう?」
明珠の腰に腕を回して引き寄せ、肩越しに卓の上の巻物を覗き込む。少し読みづらいが、読めないこともない。
「だ、だからってこんな……っ! お読みになりたいのでしたら、お譲りしますから……っ!」
明珠が足をばたつかせて、膝の上から逃げようとする。が、放す気はない。
「お前がせっかく読んでいるものを奪う気はないぞ?」
「で、でも、この体勢は……っ!」
なんとか逃げようと明珠が
羞恥に惑う明珠は、頬だけでなく、耳や首筋まで、色づいた花のように薄紅色に染まっている。
一つに束ねた黒髪からのぞく細いうなじにくちづけを落としたい衝動を、龍翔は巻物に視線を向けて逸らせた。
と、不意に明珠が巻物をひっくり返す。
「というか、龍翔様はこのお話を知ってらっしゃるのですか!?」
「いや、初めて読むが……」
いつにない厳しい声に、戸惑いながら答えると、明珠が身をよじって振り向いた。つぶらな瞳が珍しく吊り上がっている。
「では、こんな途中から読んではいけませんっ!」
「そうなのか?」
問い返すと、明珠がこくこくこくっ、と何度も大きく頷いた。
「もちろんです! こんな面白いお話ですのに、途中から読むなんて……っ! そんなもったいないこと、しちゃ駄目ですっ!」
よほど、この物語が気に入ったのだろう。明珠の声は真剣そのものだ。
龍翔にとっては、一緒に巻物を読むのは、明珠のそばにいる口実に過ぎないのだが、真面目で純真な明珠が龍翔の意図に気づくはずもない。
「ちょっとお待ちください。今、一巻目を取って来ますから」
自分から読みたいと言った手前、引き止めることもできず、仕方なく腕をほどく。そそくさと立ち上がった明珠が、安理が置いていった巻物を一本一本確認していく。が。
「あれ……? 一巻目がないです……」
しょぼんと明珠が肩を落とす。
「ならば、仕方がないな」
うなだれる明珠の腕を掴み、ぐいっと引き寄せる。
「ひゃっ!?」
よろめいた身体を
「ないのなら、どんな話なのか、お前に説明してもらおう」
「えぇぇっ!? 私がですか!?」
うろたえた声を上げる明珠に、こくりと頷く。
「ああ、お前は一度読んでいるのだろう?」
「よ、読みましたけれど……。でも、そもそもどうして抱き上げる必要があるんですか!? 下ろしてくださいっ!」
抱き上げている理由など、むろん明珠をそばに置いておきたいがゆえに決まっている。それと、もう一つ。
「こうして、お前がそばにいてくれれば、少しでも《気》の消費が抑えられるかと思ってな」
告げた瞬間、明珠がはっとした顔で、あわてて服の上から龍玉を握りしめる。
「す、すみませんっ! 《気》が足りませんでしたか!?」
「いや、まだ大丈夫だ。先ほど、《渡風蟲》を喚んだが、まだ《気》は十分にある。夕刻まではもつだろう。だが……」
くちづけ程度なら、《龍》の気が相手に行くことはないだろうと言っていた初華の言葉を思い出す。しかし……。
「こうして、お前にふれていれば、少しでもくちづけの回数が減らせないかと思ってな……」
「龍翔様……っ」
明珠が感極まった声を上げる。
「ありがとうございますっ、私などのことをお考え下さって……! あの、でも……」
薄紅色に染まった面輪が、恥ずかしげに伏せられる。
「こ、これは恥ずかしすぎます……っ」
「……駄目か?」
「だ、だめってわけじゃないですけどっ、でも、どきどきしすぎて……っ。あの、手をつなぐとかじゃだめなんですか……?」
明珠が恥ずかしさに潤んだ瞳で、上目遣いに問うてくる。そのさまが愛らしくて思わずぎゅっと抱きしめると、「ひゃあぁぁっ」とうろたえた声が飛び出した。
「こうして、ふれている面が多いほうが、《気》がよく流れてくるように思われる」
「で、でもでもこれは……っ。心臓がどきどきしすぎて壊れてしまいます……っ」
龍玉を握っていないほうの手で龍翔の胸板を押し返しながら、明珠が抗弁する。
「ふむ……。それは困ったな」
「でしょう!? ですからお放し――」
「では、気を紛らわせるために、話でもするか」
「ふぇ?」
「先ほど、お前が読んでいた巻物は、前から知っていたのか?」
「え? いえ……。昨日、初華姫様がご用意くださった巻物の中で、一番興味を
真面目な明珠が素直に答える。
「そうか。どの辺りに興味が惹かれたのだ?」
明珠の好みがわかれば、今後、巻物を贈るときの参考になろう。
尋ねると、なぜか明珠がぱぁっ、と顔を輝かせた。
「あの巻物の題名、『恋と官試は苦難の細道』っていうんです! 官試のことが出てくるなら、いつか、順雪が官試を受ける時に、何か役に立つことが書かれているかもしれないと思って……っ!」
嬉しそうに話す明珠に、ほっこりと胸の奥が温かくなる。
「そうか、順雪のためか。お前は本当に弟思いだな」
よしよしと頭を撫でると、明珠がくすぐったそうな顔をする。
「いえ、龍翔様の初華姫様に対するお優しさには敵わないと思います」
ふるりとかぶりを振った明珠が、つぶらな瞳に尊敬の光を浮かべて、龍翔を見上げる。揺れた前髪がさらりと頬をかすめ、思いがけないまなざしの近さに、思わず心臓が轟いた。
反射的に面輪を寄せて柔らかな唇にくちづけたくなり、かろうじて自制する。
同時に、明珠も今の自分の体勢を思い出したらしい。愛らしい面輪がさぁっと色づく。
「あ、あの……っ」
顔を背け、逃げようとする明珠を抱き寄せ、頬に手を添えてこちらを向かせる。
手のひらにふれるなめらかな肌は、龍翔の理性を融かしてしまいそうなほど、熱い。
蜜の吐息が、龍翔を誘う。このまま、明珠の唇を思うさま味わいたい欲求を、龍翔は小さく息を吐いて抑え込んだ。
くちづけをしては、何のためにこうしているか、わからない。
「あの、やっぱりこの体勢は……。ああっ、でも離れると《気》が……」
うぅん、と明珠が困り切った様子で呟く。と。
「そうだ!」
何やら思いついたらしい明珠が、弾んだ声を上げた。
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