60 たった一輪の大切な花 その4
「どうした? 物語はお前の好みではなかったか?」
「えっ、いえ! そんなことはありませんっ!」
「物語の巻物なんて贅沢なものを読めるなんて、とっても嬉しいです! けど……」
へにょ、と明珠の眉が情けなさそうに下がる。
「昨日、私が巻物に夢中になっていたせいで、周康さんの船酔いにも、賊にも気づけなくて……っ! そのせいで、周康さんが……っ」
たどたどしく告げた明珠の声が湿り気を帯びる。気がついた時には、龍翔は明珠を抱き寄せていた。
「違う! 周康が怪我をしたのは、お前のせいではない!」
明珠の背に回した腕に、ぎゅっと力をこめる。
周康が怪我を負ったのは自分が至らなかったせいだと、悪夢に
己の無力さを情けなく思いながら、龍翔はあやすように明珠の華奢な背をそっと撫でる。
少しでも、明珠の心に言葉が届くようにと祈りながら。
「夕べも話しただろう? お前が周康の怪我を気に病むのはよくわかる。それをやめよと言うつもりもない。もしわたしがお前と同じ立場だったら、わたしも同じように己の無力さに歯噛みし、悔やむだろう」
「え……?」
腕の中の明珠が、意外そうな声を上げる。
「龍翔様でも、ですか……?」
心底不思議そうに問う声に、思わず苦笑がこぼれる。
「もちろんだ。できるだけ、最善手を取りたいと努めているが……。わたしも人間だ。失敗し、間違えることも多い。……こと、お前に関する事柄はな」
「そんな……っ」
低く苦い龍翔の呟きに、明珠が目を見開いてふるふるとかぶりを振る。
「龍翔様が間違えられているところなんて……。そんなの、見たことがありませんっ!」
信頼に満ちた言葉とまなざしに、苦笑を洩らす。
「お前の信頼は嬉しいが、わたしとて誤ってしまう時はある。もし、お前から見て、わたしが間違っていると思う時は、遠慮せずに教えてほしい」
「龍翔様……」
じっ、と龍翔を見上げていた明珠が、表情を引き締めてこくりと頷く。
「わかりました。龍翔様が大きな間違いをなさるとは思えませんけれど……。お言葉は、ちゃんと心にとどめておきます!」
「ああ、頼む」
よしよしと頭を撫でると、明珠がくすぐったそうな顔をする。その心に届くようにと祈りながら、龍翔は穏やかな声で言を次いだ。
「ゆえに、お前が周康の怪我の責任を感じて、己を責める必要はない。きっと、周康も今のお前の姿を見れば、逆に己の不甲斐なさを情けなく思うだろう」
「あ……っ」
明珠がはっとしたように声を洩らす。
「周康を心配してやるのはよいが、度を過ぎてお前自身が不調になっては、周康が庇った甲斐がなくなろう。警戒しすぎて疲れてしまっては、元も子もない。こんな時だからこそ、心楽しい物語を読んで、憂さを晴らすことも大事だぞ? それとも……」
龍翔は首を傾げ、悪戯っぽく微笑みかける。
「わたしがそばにいるだけでは、お前の不安はなくならぬか?」
「そんなこと……っ! 龍翔様がおそばにいてくださったら、不安に思うことなとありませんっ!」
明珠があわてふためいてかぶりを振る。龍翔は笑いながら、明珠の頭を撫でていた手を背中に回した。
「そうか、それはよかった。お前がわたしのそばで安心してくれるというのなら、お前の不安がなくなるまで、こうしていよう」
「ふぇっ!?」
龍翔の言葉に、それまでもうっすらと紅かった明珠の頬が、燃えるように色づく。
「だっ、大丈夫ですっ! もう不安なんて……っ。で、ですから、お放しくださいっ!」
「本当か? 先ほどまで、泣き出しそうになっていたではないか。わたしのことならば、今日は急ぎの用もないゆえ、気にせずともよい。お前が望むだけこうしていてやるぞ?」
「わ――っ、大丈夫ですっ! ほんとにもう、大丈夫ですから――っ!」
悪戯心と、腕の中のまろやかな温かさを離したくない気持ちが湧き上がり、抱き寄せた腕に力をこめると、明珠が大声を上げながらわたわたと身動ぎした。一刻も早く逃げようと、ぐいぐいと胸元を押してくる。
明珠にとっては渾身の力なのだろうが、龍翔にとっては儚い抵抗にすぎない。少し力をこめるだけで、たやすく封じられるだろう。だが。
明珠に本気で嫌がられたくなくて、仕方なく腕をほどく。
途端、明珠が罠から逃げ出した子うさぎのように、後ずさって距離を取る。小動物のような様子に、思わず口元を緩めながら、龍翔は提案した。
「では、大丈夫になったのなら、気になる巻物を読んでみるか? わたしもお前のそばにいよう。一通、書かねばならぬ手紙があるのでな」
「では、
龍翔が止めるより早く、明珠がさっと動き出す。
遼淵に、《龍》の気のことで知っていることはないかと尋ねる手紙を書くだけなので、丁寧に墨からする必要はないのだが……。龍翔のために用意してくれる明珠を止める必要もあるまいと、準備を任せることにする。代わりに龍翔は《渡風蟲》で送るための、丈夫で薄い紙を出しておく。
「明順。墨をするのは自分でするのでよい。せっかく初華が貸してくれたのだ。お前は、好きな巻物を読んでいるといい」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきますね」
硯を出してきた明珠がぺこりと一礼し、いそいそと卓の上の巻物に手を伸ばす。
「あっ、二巻目がある……っ!」
弾んだ声で呟いた明珠が、一本の巻物を手に取り、椅子に座る。
嬉しそうに巻物をほどいてゆく姿に、口元が笑みを形作るのを感じながら、龍翔は墨を手に取った。
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