60 たった一輪の大切な花 その3


 萄芭を船室に呼んだのは、玲泉除けもあるが、侍女頭として多少、医術の心得がある萄芭に、明珠の身体を診てもらうためだった。むろん、その間、張宇には隣室で待機するように言いつけた。


 明珠本人は、自分はいたって元気だと主張しているが、本人も気づいていない不調が隠れている可能性も否定できない。


 ……なんせ、以前、媚薬を飲まされたのを「風邪を引いたんです」と言った前科がある明珠だ。


 龍翔の問いに、萄芭は生真面目な表情で告げる。


「わたくしは本職の医者ではございませんので、絶対というわけではございませんが……」


 萄芭の言葉に、思わずごくりと唾を飲む。


「わたくしが見る限り、明順はいたって健康でございます。悪いところはどこも見つかりませんでした」


「そう、か……」

 思わず、ほう、と安堵の吐息がこぼれ出る。


「ただ、年の割には、少しせすぎているように思えますが……」

「ん? 明順自身は最近、少し太ったと言っておったぞ?」


 明珠が痩せすぎではないかというのは、龍翔も心配していた点だ。華奢な身体は、思いきり抱き締めては折れるのではないかと、時折、心配になってしまう。


 明珠が痩せているのは、実家での生活が原因だろう。弟思いの明珠のことだ。苦しい生活の中、自分のことは二の次にして、弟がお腹いっぱいになるようにと心を砕いてきたに違いない。


「そうなのでございますか? 龍翔様がおっしゃる通りなのでしたら、痩せているのはもともとの体質なのでございましょう。……豊かなところは豊かでしたし。ご心配には及ばぬかと」


「そうか。世話をかけてすまなかったな。お前以外には頼めぬゆえ、本当に助かった」


 龍翔は心から礼を言う。

 医術の心得なら季白もあるが、たとえ季白と言えど、明珠の肌を他の男の目に晒すような真似はできない。


「龍翔様のお役に立てて、ようございました」


 萄芭が甥を見るような慈愛に満ちた笑顔を浮かべる。


 初華が幼い頃から仕えている萄芭は、もちろん龍翔の幼い頃も知っているが、こんな笑顔を向けられたのは久方ぶりだ。


「では、わたくしはいったん失礼させていただきます」


「ああ。初華にも礼を言っておいてくれ」

 萄芭に頷き、次いで張宇を振り返る。


「張宇、お前もここはよいから、季白と安理に告げて、少し休むとよい。賊が出て以来、ろくに休めていないのではないか?」


「お心遣いありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきます」


 張宇と萄芭が一礼して部屋から出ていく。船室に残されたのは、龍翔と明珠の二人きりだ。


 龍翔が戻ってきてもなお、不安そうな面持ちのまま窓際に立つ明珠に歩み寄ると、龍翔は優しく頭を撫でた。


「留守番をさせてすまなかったな。よく《縛蟲》で知らせてくれた。よい機転だったな」


「い、いえ……。張宇さんが、どうにかして龍翔様をお呼びできないかとおっしゃったから、思いつけたんです。術を使っているのを玲泉様に見られないようにと、背に庇ってくださって……。あの」


 明珠がつぶらな瞳に不安をたたえて、龍翔を見上げる。


「わたしのせいで、初華姫様との大切なお話をお邪魔してしまったのではありませんか……?」


「何を言う」

 龍翔は穏やかに微笑むと、もう一度明珠の頭を撫でる。


「わたしのいないところで、お前が玲泉に厄介をかけられていたと後で知れば、自分で自分が許せなくなる。知らせてくれて、助かった」


「それでしたらいいのですけれど……。でも、珍しく扉を乱暴に閉めてらっしゃったので……」


 気づかれていたか、と思わず手荒く扉を閉めてしまったことを悔やむ。


「違う。あれは、迷惑だと玲泉に知らせるために、わざと音を立てて閉めたのだ。怒っているわけではない」


 できるだけ穏やかな声で告げると、


「そうなんですね。よかった……」


 と、明珠がようやく安心したように表情を緩める。


 ほっ、と息をついたあどけない表情が愛らしくて、思わず抱き寄せたい衝動に駆られる。


 自分でも、愚かな願いだとわかっている。それでも、明珠のあたたかさを己の腕の中で確かめたい。


 思わず、手を伸ばしかけて。


「失礼してもいーっスか~?」


 とんとん、と扉を叩く音とともに聞こえてきた安理の声に、龍翔ははっとして手を止めた。


「どうした? 何かあったか?」


「いえ~。初華姫サマからのお届け物を持って上がっただけっス~♪」

「届け物?」


 安理が持ってきた物は、入ってきた途端、すぐに知れた。両腕に何本もの巻物を抱えている。


 なぜか、明珠がびくりと緊張をあらわにする。


「は、初華姫様とおっしゃってましたけれど……。もしかして、追加の季白さん特製の教本ですか……?」


 びくびくと尋ねた明珠に、安理がぷっと吹き出す。


「違うって~。ホントに初華姫サマからの差し入れだよ~♪ ほら、玲泉サマの件があるから、晟藍国に着いてからも、明順チャンは部屋で留守番になることが多いだろうからさ。でもそれじゃ退屈だろうから、オススメの物語を読んで無聊を慰めてもらおうってゆー、初華姫サマのお心遣いだよ♪ 季白サンのつっまんない見習い官吏用教本じゃないから安心しなって♪」


 軽やかに笑った安理が、「あ」と思いだしたように言を継ぐ。


「ただ、初華姫サマが、明順チャンと感想をおしゃべりしたいわっておっしゃってたから、興味のある巻物はどんどん読んでね♪」


 崩れないように器用に巻物を卓に積み上げながら、安理がにこやかに笑いかける。


「で、でもこんなに……?」


「あ、別に全部読まなくったっていいよ~? 今日は明順チャンの好みがわからなかったから、いろいろ持ってきただけだし。明順チャンが気になるのを読んでくれたらいいってさ~♪」


「は、はい……」

 明珠が微妙に緊張した面持ちで頷く。


 龍翔は内心で初華の仕事の速さに舌を巻いていた。


 十中八九、今回の巻物は季白に依頼された明珠の「教育」のために持ってきたものだろう。物語を通じて、明珠に少しずつ男女のことを理解させるのが初華の狙いに違いない。


 男女の機微にはとことんうとい明珠には、このくらいから始めるのが適切だろう。季白のように、いきなりきわどい春画を見せるなど、言語道断だ。


 短い間になるだろうが、初華が教師役で本当によかったと思う。


「んじゃまっ、ちゃんと届けたっスから。明日には晟藍国の領内に入るそーですし、今日くらいはお二人でごゆっくり~♪」


 きしし、と思わせぶりな笑みをこぼして、安理が船室から出ていく。

 ぱたりと扉が閉まり。


「どうだ、明順。さっそく読んでみるか?」


 水を向けても、なぜか明珠は強張った顔のままだった。

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