58 昏く、沈む『毒』 その1


 しん、と食卓が凍りついたように静まり返る。

 氷の彫像と化したかのように、誰も何も言わない。


 真っ白に漂白された龍翔の頭の中では、玲泉が放った言葉が絡みつく鎖のように渦巻いていた。


「た……」


 戯言たわごとを申すな、と玲泉を怒鳴りつけたいのに、喉に石が詰まったかのように声が出ない。息さえ、できなくなったかのように、頭がくらくらとする。


 玲泉の言葉を真っ向から否定したい。だが、龍翔の経験が、玲泉の言葉は真実だと告げている。


 龍翔の母は、龍翔が五歳の時に病で亡くなった。


 記憶にある母は、いつも儚げで病気がちで……。


 だが、いくら美貌や教養に優れていようと、不健康な者が『皇帝の子を産む』ことだけが目的の後宮に入れるわけがない。ましてや、龍翔の母は、貴族とはいえ、何の後ろ盾も持たぬ家格の低い家の出だったのだから。


 少し考えればわかることだ。


 だが、今まで龍翔は母が病弱である理由など、考えたことがなかった。龍翔が生まれた時から病がちだった母の姿は、幼い龍翔にとっては当たり前のことで。


 しかし、玲泉の言葉が確かなら、母は生来、病弱だったのではなく――。


 ひゅっ、と喉から空気が抜ける。突然、深い沼に突き落とされたかのように、息が苦しい。


 自分を宿し、産んだことが母が健康を損なった原因だったと知らされた衝撃はもちろんある。


 だが、それはいくら悔やもうとも覆せぬ過去のことだ。

 何より、母は龍翔が生まれてきたことに対する非難も愚痴も、一言も口にしなかった。むしろ、病弱な体のどこからこんなにもあふれてくるのかと思うほどの愛情を、いつだって惜しみなくそそいでくれた。


 幼くして死別したが、龍翔は母の愛情を疑ったことなど、一度たりとも、ない。


 それよりも。


 玲泉は、《龍》の気を受けることが相手の身体に負担になるのだと言っていた。ならば。


 全身が震えそうになって、ぐっ、と奥歯を噛みしめる。呻き声を洩らすまいと口元を覆った手のひらは、血の気が引いて、氷のように冷たい。


 玲泉の前でみっともない姿を晒したくないと思うのは、なかば意地だ。


 龍翔の心中を知ってか知らずか、安理が、


「ええっとぉ~。とりあえずっスね~」

 と卓の面々を見回して声を上げる。


「朝食も食べ終わったっスし。晟藍国に着いてみないとわかんないコトも多いっスし、とりあえず今はお開きってことでどうっスかね~?」


 安理の言葉にいち早く反応したのは季白だ。


「ええ、そうましょう。張宇、初華姫様をお部屋へお送りするのは任せました。玲泉様はわたくしがお供いたしましょう」


「そ、そうね。張宇、お願いできるかしら?」

「も、もちろんでございます」


 そそくさと立ち上がった初華に続き、張宇もぎこちなく立ち上がる。


 初華も季白達も、龍翔に気遣わしげな視線を送ってくるが、答えるどころではない。


「さあ、玲泉様もまいりましょう」

 季白が有無を言わさぬ口調で玲泉を促す。


「……仕方がないね」


 優雅に立ち上がった玲泉が、初華達に続いて扉へ歩み。

 出る寸前で、不意に龍翔を振り返る。


「殿下が、大切に慈しんでいらっしゃると、早めに知れてようございました。知らずに傷つけてしまえば、互いに、のちのちまで悔やむことになりかねませんから。ああ、もちろん」


 玲泉が親切めかしてあでやかに微笑む。


「花をそこなうのを避けるべく、下賜くださるとおっしゃるのでしたら、わたしはいつでも喜んでお引き受けいたしますよ。殿下にも負けぬほど大切に慈しみましょう」


「玲泉様! まいりましょう!」


 玲泉が季白に半ば押し出されるようにして船室を出ていく。

 ぱたりと扉が閉まった瞬間。


「明珠っ!」

「ひゃっ!?」


 突然振り返り、両肩を掴んだ龍翔に、明珠が驚いて声を上げる。が、かまってなどいられない。


「体調はどうだっ!? 前と比べて不調が多くなったとか、そういうことは……っ!?」


「ふぇっ!? わ、私ですか……っ!?」

 目を丸くした明珠が、きょと、と小首をかしげる。


「私はいたって元気ですけれど……?」


 暢気のんきに答える明珠に安堵すると同時に、もどかしさにいたたまれなくなる。


「本当かっ!? 本当にどこか不調を感じたりは……っ!?」


「本当に大丈夫です! というか……。急にどうなさったんですか?」


 不思議そうに問う明珠は、玲泉が告げた言葉の意味をまったく理解していないと、嫌でもわかる。


 確かに、子が授かるような行為など、まったくしていない。明珠の肌になんて、ふれてさえ、いない。けれど。


 考えるだけで陶然となるほどのくちづけの甘さを思い出す。


 《気》のやり取りをして、明珠の《気》だけが龍翔に来ている可能性は、限りなく低い。ということは。


「玲泉の言い回しはお前にはわかりにくかっただろうが……」


 胸の奥が痛みにうずくのを自覚しながら、苦い声で告げる。


「《龍》の気を常人が受けるのは、身体の負担になるのだ……。『毒』だと言ってもいい。どうだ? 《気》のやりとりをするようになってから、身体の不調を感じたりはしていないか?」


 問う声が我知らず震える。


 知らなかったとはいえ、大切な少女に少しずつ毒を盛っていたなど……。己で己をくびり殺してやりたくなる。


「え……?」


 龍翔の言葉を聞いても、まだぽかんとしていた明珠の面輪が、「《気》のやりとり」が何を指すのか理解した途端、真っ赤に染まる。


「ええぇっ!? そうなんですか!?」


「すまぬ! 謝って済む問題ではないとわかっている! お前になんと言って詫びればよいのか……っ!? 本当にすまぬっ!」


 体を二つに折るように、深く深く頭を下げる。

 どれほど明珠に罵倒されようと、仕方がない。すべて、甘んじて受けるつもりだ。


 ――これから、告げることでさえ。


 身体が底なし沼に引きずり込まれるようだ。視界がくらく、狭くなる。

くずおれそうになる身体を叱咤し、龍翔は震える声を絞り出す。


「お前を危険な目にさらすばかりで……。いい加減、嫌になったのではないか? 暇を取りたいというのなら、引き止めはせぬ。もちろん、借金のことなど気にせずともよい。お前が望むだけの謝礼を渡そう」


 明珠を手放したくないと、心が悲痛な声で叫んでいる。

 だが、どの口がそばにいてくれと言えるのか。


 ――もしかしたら、己が明珠の命を奪うやもしれぬというのに。


 そう考えるだけで、全身が恐怖に凍りつく。

 嫌でも脳裏によみがえるのは、亡くなった母の姿だ。ひたひたと宵闇が押し寄せるように、少しずつ痩せ細り、ついには帰らぬ人となった母。


 明珠を、決して同じ目に遭わせるわけにはいかぬ。


 止めようとしても止められぬ震えをこらえるように、白く骨が浮き出るほど、固く拳を握りしめる。


 明珠をそばから放したくない。だが、龍翔のせいで明珠をうしなうほうが、もっとずっと恐ろしい。


 明珠の幸せのためならば――、


「ちょっ、ちょっと待ってくださいっ!」

 昏く沈んでゆく思考は、あわてふためいた明珠の声に遮られる。


「そ、そうおっしゃられましても……っ! 私は不調を感じたりしたことなんてありませんっ! むしろ、毎日おいしいご飯をいただけて、ちょっと太ったくらいで……っ! で、ですから、心当たりなんて……っ」


「だが、《龍》の気は間違いなく『毒』なのだ……っ!」


 だから明珠、と告げた声はみっともなく震え、己のものとは思えぬほどに弱々しい。


「お前がわたしの元を辞したくなっても当然だ。誰もお前を咎めることなどできぬ」


 情けないとわかっているのに、顔を上げて明珠を見ることができない。明珠が息を飲んだのが気配でわかった。


「そ、そんな……っ!? で、でも禁呪はどうなるんですか!?」


「それ、は……」

 龍翔とて、頭ではわかっている。


 禁呪のために明珠を手放すことなどできないと。だが。


「わたしのために、お前に、日々『毒』を飲んでくれなどと、言えるわけがないだろうっ!?」


 だんっ、と激情のままに拳を卓に振り下ろす。明珠が怯えたように身を震わせるのが、うつむいて見えずとも気配で知れた。


「くちづけでの《気》のやりとりが、どれほどの負担となるかはわからぬ! だが――、っ!?」


 不意に、蜜の香気が鼻先に揺蕩たゆたう。


 同時に、あたたかく柔らかなものが唇をかすめ。

 次の瞬間、酔うほどに甘い蜜の香気が、龍翔に流れ込んでくる。


 驚愕に目を見開いて顔を上げた龍翔の目がとらえたのは、目の前に立って両手で服の上から龍玉を握りしめ、今にも泣き出しそうな顔をした明珠だった。

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