58 昏く、沈む『毒』 その2


「明――」

「どうしてですかっ!」


 かすれた龍翔の声を遮るように、明珠が痛みに満ちた声を上げる。


「どうして私が龍翔様のおそばを辞すと思われるんですっ!? 私はこの通り元気です! 身体が悪いところなんてひとつもありません! 夕べ、言ったじゃないですかっ! 龍翔様にずっとお仕えさせてくださいって! なの、に……っ!」


 こらえきれなくなったのか、明珠の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。


 考えるより早く、龍翔は立ち上がると明珠の腕を取って引き寄せていた。

 たおやかな身体が、なんの抵抗もなく龍翔の腕の中にもたれかかってくる。


「どうして……っ。どうして私の言葉も聞かずに、そんな哀しいことをおっしゃるんです……っ!? 私は、龍翔様からおいとまする気なんて、まったくありませんのに……っ」


 うっくぐっすとしゃっくりを上げて泣きながら、明珠が龍翔の腕の中で言い募る。


「すまぬ……。すまぬ、明珠」


 よしよしと明珠の背をあやすように撫でながら、龍翔は謝ることしかできない。


 自分でも、何に対して謝っているのかよくわからない。

 ただただ、愛しい少女の涙を止めたくて、龍翔は明珠の背を撫でながら、謝罪の言葉を紡ぐ。


「ちが……っ。龍翔様を責める気なんてないんです。ただ……。龍翔様がお言葉が哀しくて……」


 明珠が痛みをこらえるように、きゅっと唇を噛みしめる。うつむきがちのまま、ゆっくりと唇をほどき。


「その……。龍翔様がおっしゃったことは、本当なのですか……?」


 叶うなら、嘘をついてでも否定したい。

 そんな誘惑にさいなまれながら、龍翔はきっぱりと頷いた。


「わたしの母がそうだった」

「え……?」


「母はわたしを産んでからずっと病がちで……。高名な医師にかかっても、高価な薬湯を飲んでも駄目だった。……今ならわかる。母の身体は、《龍》の気に耐えられなかったのだ……。わたしの母だけではない。初華の母も身体の調子を崩し、病で没している。第三皇子の母も、第二皇女の母も、ともに病がちだと聞いておる。《龍》の気は……。ふつうの者にとっては、『毒』に等しいのだろう」


「で、ですが……っ」

 腕の中の明珠が身じろぎし、顔を上げる。


 涙にぬれた面輪を見た途端、刃で貫かれたように、ずくりと胸が痛くなる。


 決して、泣かせたくなどないというのに。このところ、明珠を泣かせてばかりいる気がして、ほとほと己が情けなくなる。


 蜜に誘われる蝶のように明珠の濡れた頬に唇を寄せると、明珠が「ひゃっ」と可愛らしい声を上げた。


 くちづけと違い、涙からならば、龍翔の《気》が明珠を傷つけることはあるまい。

 そう思うと、止まらなくなる。なめらかな頬に唇を這わせ、思うさま、甘露を味わい……。


 燃えるように熱い明珠の肌に、己の唇も融ける心地がする。


 一滴たりとも逃したくなくて、思わず頬を舐めると、「ひゃあぁぁぁっ!?」とすっとんきょうな声が飛び出した。


「なっ、何をなさるんですか――っ!?」


 龍玉を握っていないほうの手でぐいぐいと胸を押し返され、仕方なく顔を離す。が、腕はほどかない。


 ごしごしと袖で顔をぬぐった明珠が、


「びっくりしすぎて、お伝えしないといけないことまで、頭から吹っ飛ぶかと思いました!」


 と、真っ赤な顔で龍翔を上目遣いに睨む。その様があまりに愛らしくて……。玲泉の言葉さえなければ、今すぐ、くちづけていただろう。


「すまぬ……。それで、伝えたいこととは?」

 素直に詫びて、穏やかに明珠を促す。


 だが、内心では心臓がとどろいている。

 もし明珠が伝えたいことが、「やっぱりお暇をいただきます」だったりしたら……。


 それが明珠のためだとわかっているのに、この手を放せるかどうか、まったく自信がない。


 明珠のためを思うなら、龍翔から引き離すべきだと理性が叫ぶ一方で……。たとえ、明珠を泣かせてでも、このまま腕の中におさめていたいと願う自分がいる。


 龍翔の胸に渦巻く激情になど気づいていない様子で、おずおずと明珠が口を開く。


「その……。龍翔様は、《龍》の気は『毒』のようなものだとおっしゃいましたけれど……」


 へにょ、と明珠の眉が哀しげに下がる。


「私には、とてもそうだとは思えません……。だって……。この《龍玉》に籠められているのが《龍》の気なのでしょう?」


 明珠が服の上から、守り袋に入った龍玉を両手で大切そうに握りしめる。


「母さんの形見の龍玉は、龍翔様にお仕えする前からずっと持っていますけれど……。私は、悪い《気》なんて、一度も感じたことがありません。体調だって、ほとんど崩したことがないですし。身体が丈夫なのは、私の唯一のとりえなんですから!」


 明珠の言葉に、龍翔は頭を殴られたような心地になる。


 玲泉の言葉にとっさに浮かんだのは、くちづけの際、龍翔から明珠へと伝わってしまう《龍》の気のことだったが……。


 そもそも、くちづけの理由は「解呪の特性を持つ明珠を通じて《龍玉》に籠められた《龍》の気を龍翔に渡すため」だ。

 明珠は、龍玉を握りしめた時点で、《龍》の気を取り込んでいることになる。


 龍翔の内心など知らぬ様子で、明珠が照れたように愛らしくはにかむ。


「母さんが亡くなってからは、順雪と、この守り袋が私の心の支えで……。つらいことがあるたびに、守り袋を握りしめていたんです。龍玉を握りしめると、なんだか不思議な力が湧いてくる気がして……。だから、私には、どうしても《龍》の気が悪いものだとは思えません!」


 真摯に話す明珠の声が、心に沁み込む。だが、まだ納得できない。


「本当、か……?」


「どうして私が龍翔様に嘘をつく必要があるんですか!?」

 明珠が愛らしい面輪を険しくする。


 確かに、《龍玉》については、まだまだわからぬことが多い。

 もともと誰の持ち物で、どういった経緯で明珠の母・麗珠の手に渡ったのかという経緯も含めて、わからぬことだらけと言ってもいい。


 だが、正体がわからずとも、何年も龍玉を持っていた明珠が、悪いものを感じないというのなら、これほど喜ばしいことはない。


「そう、か……」

 安堵のあまり、思わず大きなため息がこぼれ出る。


「はいっ! ですから安心してください!」


 笑顔で頷く明珠に、だが龍翔は素直に頷けない。


 たぶん、明珠の頭の中には龍玉のことしか、ない。


「その、明珠……。一応、言っておくが……。《龍》の気は、龍玉以外からもお前に入っているのだぞ?」


「……へ?」


 案の定、龍翔の言葉に、明珠がきょとんとした顔になった。

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