56 自分だけが知る反応を、もっと引き出してみたくなる その1


(あ……)

 禁呪が強まる感覚で龍翔は眠りから覚めた。


 奈落の底へ引きずり込まれるかのように虚脱感は、何度経験しても慣れない。

 己の一部がぎ取られていくような喪失感。


 船旅が始まってからは、《気》を切らさぬよう気をつけていたため、少年の姿に戻るのは久しぶりだ。

 昨日の夕方に泣いている明珠から得た《気》で朝までもつかと思ったが……。わずかに足りなかったらしい。


 船室の窓からは清冽な朝の光が差し込んでいる。

 夕べ、寝台に入ったときは眠れるかと不安だったが、いつの間にか寝入ってしまったらしい。


 昔、不安と恐怖で眠れぬ夜に、無理にでも寝ようとしていた頃の名残だろうか。何にせよ、寝不足のせいで玲泉に隙を見せるわけにはいかぬので助かった。


 寝台に身を起こすと、少年になった小さな肩から、夜着がずるりと滑り落ちる。


 張宇達はもう、隣室へ戻っているだろうか。少年の姿を万が一にでも人に見られるわけにはいかないが、明珠はまだ目覚めていないようだ。


 さて、どうしたものかと思っていると。


「ううん……」


 衝立の向こうで明珠が起きたらしい気配がした。が、寝乱れた夜着の明珠に、くちづけなどできるわけがない。


「明珠? 起きたのなら、わたしは隣室へ行っているゆえ、先に――」

 「着替えるといい」と最後まで言うより早く。


「龍翔様っ!? すみません、私……っ!」


 夜着のままの明珠が、衝立のこちら側に泡を食って飛び込んできた。龍翔が止める間すらない。


「すみませんっ! 私がうっかり眠ってしまったせいで《気》が……っ!」


 蒼白な顔の明珠が寝台の龍翔に駆け寄ってくる。

 飛び起きて、そのまま走ってきたのだろう。寝乱れた夜着の襟元に、龍翔は思わず顔を背けた。


 と、明珠の足音がぱたりと止まる。


「お、怒ってらっしゃいますよね……?」

「そうではない!」


 不安のあまり、今にも泣きそうに潤んだ声に反射的に振り向き、しまったと思う。

 失敗したのは、思わず顔を背けてしまったことか、それとも寝乱れた姿を見てしまったことか。


 それとなく視線をそらしながら、龍翔はできるだけ穏やかな声を出す。


「お前が謝ることは何一つない。わたしが《気》の残り具合を見誤ったのだ。決して、お前のせいではない」


「で、ですが……」

 明珠の声が不安に揺れる。


「どうした? 気になることでもあるのか?」


 納得していない様子にそっとうながすと、明珠がためらいがちに口を開いた。


「龍翔様はいつも目を見て話してくださるのに……。夕べもご迷惑をおかけしてしまいましたし、その、本当は私の顔など見たくないほど怒ってらっしゃるのかと……」


 話しているうちに不安が増してきたのか、明珠の声がますます震える。

 他の者なら誘っているのかと勘繰かんぐるところだが、明珠のことだ、他意など一片たりともないのだろう。


 龍翔は小さく吐息して寝台から下りた。ひきずる裾をからげ、寝台の前で立ち止まっている明珠の正面へ歩み。


「……寝乱れた夜着の娘を、まじまじ見るわけにはいくまい?」


「ふぇ……?」


 ぽかんと間抜けた声を上げた明珠が、次の瞬間、真っ赤な顔で胸元をかき合わせる。

 なだらかな線を描く鎖骨や、合わせの間から覗きかけていた胸元が隠れ、残念に思うより先に、ほっとする。


 少年姿だと、明珠より頭半分背が低いせいで……なんというか、視線が近くていけない。


「あ、あのあの……っ」


 顔はおろか、耳の先や首まで熟れたすもものように染めた明珠が、あうあうと言葉にならない声を洩らす。


「わたしを心配してくれるのは嬉しいが……。年頃の娘なのだから、特に、夜着の時はもう少し気をつけよ」


「は、はい……」


 恥ずかしさのあまり、消えいるように身を縮め、視線を落とした明珠を、すくい上げるように見る。


「誤解のないよう言っておくが、責めているのではないぞ? 少年姿のわたしを案じてくれたのだろう?」


 少年の龍翔の声を聴いた途端、駆けつけてくれた明珠の気持ちが嬉しくて、自然と口元がほころぶ。


「そうですけれど、でも……」

 後ずさろうとする明珠を離したくなくて、反射的に肩を掴み、引き止める。


「《龍玉》を」


 命じると、明珠が素直に目を閉じ、服の上から龍玉を握りしめた。


 少年の小さな手でうつむいたままの明珠の頬にふれる。

 手のひらに燃えるような熱を感じるだけで愛しさがこみあげ、かかとを浮かせて己より頭半分背の高い明珠へくちづける。


 唇がふれた瞬間、龍翔に流れ込むのは、酔うほどに甘い蜜の香気。


 今までも甘いと思っていたのに、明珠への恋心を自覚しただけでこれほど甘く変じるのかと驚愕する。


 甘くて愛おしくて――このまま、飲み干してしまいたくなる。

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