55 悪夢をほどく指先 その3
黒曜石の瞳に魅入られて、明珠は声すら出せない。龍翔に見つめられているだけで、身体が
「明珠……」
熱を
「ん……」
肌を撫でる呼気のくすぐったさに思わず声を洩らすと、龍翔の瞳が揺れた。
秀麗な面輪がふれんばかりに近くなり。
一瞬、唇に吐息がふれたかと思うと、龍翔の唇が額に押しつけられていた。
燃えるように、熱い唇。
夕方、椅子にぶつけた跡を癒蟲で治してもらった時にも額にくちづけられたが……。
なぜだろう、その時のくちづけとは微妙に違う気がする。
かぼそい糸一本で理性をつなぎとめているかのような、激情を無理やり押さえつけているような、そんな気配。
押しつけられた唇から、龍翔のもどかしそうな様子が伝わって、明珠はどうすればよいのかわからなくなる。
何か、龍翔の不興を買うようなことをしてしまっただろうか。心当たりがありすぎて、不安のあまり泣きたくなる。
どれほど長くくちづけしていただろう。
は、と荒い息を吐いて龍翔の唇が離れる。うっすらと目元を紅く染めた面輪は、息を飲むほど
明珠が知る龍翔とは別人のような表情に、不安を覚えると同時に、魅入られたように目が離せない。
何かを求めるように薄く唇を開いたまま、龍翔が身を起こす。ちりちりと肌を炙るような視線が明珠を撫で。
視線が合った途端、龍翔が何かをこらえるように唇を引き結んだ。
次いで、柔らかな笑みが形良い唇を彩る。
「今日は疲れただろう? 落ち着いたのなら、今夜はもう眠るといい。眠るまで、わたしがそばについていよう」
いつもと同じ龍翔の優しい表情に安堵すると同時に、告げられた内容に慌てる。
「だ、だめですよ! 龍翔様もお疲れですのに……っ! わたしでしたら、一人で眠れますから……っ」
起き上がろうとすると、肩を押さえて止められた。寝台に座り直した龍翔が、そっと掛け布団をかけてくれる。
「わたしなら、大丈夫だ。お前が先に眠ってくれたほうが、わたしも安心して眠れる。それとも……。まだ怖くて眠れぬか?」
「いえ……」
ゆるりと首を横に振り、龍翔を見上げる。
「龍翔様がいてくださったら、怖いことなどひとつもありません」
信頼を込めて告げると、龍翔の目がゆるく弧を描いた。形良い眉が困ったように寄せられる。
「一番の危険が、お前のすぐそばにいるやも知れぬぞ?」
低い呟きは薄闇にほどけるように散り、よく聞こえない。肩を押さえていた手が、優しく明珠の頭を撫でる。
「さあ、今宵はもう、ゆっくり休め。お前が寝入ったら、わたしもすぐ自分の寝台に戻って休むゆえ」
「はい……」
穏やかながらも芯のある声に、きっと明珠が遠慮しても言を翻さぬのだろうと察し、素直に頷く。とはいえ。
「あ、あの……。お布団をもう少し上げてもいいですか? 変な寝顔を見られるのは、恥ずかしいです……」
もぞもぞと掛け布団を顔の上まで引っ張り上げようとすると、龍翔が首を傾げた。
「何を言う? お前の寝顔は何度も見たことがあるが、いつでも愛らしいぞ?」
「なっ、何をおっしゃっるんですか!? そんなわけありませんっ」
がばりと頭の上まで布団を引き上げると、くすくすと龍翔の笑い声が降ってきた。
明珠は布団がずり落ちないよう、ぎゅっと両手で握りしめる。布団を頭までかぶると
くすくすと笑いながらも、頭を撫でる手は止まらない。愛おしむような優しい指先が、そっと明珠の髪を
心のこわばりをほどいていくかのような心地よさに、いつしか明珠は眠りへと落ちていった。
◇ ◇ ◇
眠る明珠のかたわらに腰かけ、どれほど髪を撫でていただろう。
「んぅ……」
かすかな声を上げて身じろぎした明珠に龍翔は手を止めた。
布団が暑かったのだろうか。もぞもぞと動いた明珠が頭の先まですっぽりかぶっていた布団をのけたかと思うと、両腕でぎゅっと抱き込む。
すよすよと眠る表情は安らかで、悪夢に
安心しきった寝顔を見ていると、明珠の顔を曇らせるような事態にならずにすんでよかったと、心の底から安堵する。
もし唇にくちづけていたら自制できていたかどうか、自分でも自信がない。
無意識に嘆息がこぼれ出る。
お互い夜着だというのに、寝台の隣に座ってくれとは、明珠はいったい何を考えているのか。いや、単に主人を立たせたままにしておけないと考えただけで、他意などないのだろうが、それにしても。
「無防備すぎるだろう……」
あの調子では、寝台から落ちかけた拍子に夜着の胸元が乱れていたのにも気づいていないに違いない。
合わせの隙間から覗く鎖骨と、豊かな胸元へと続くなだらかな線は、薄闇の中でも、この上ない目の毒だった。夜着の時はさらしを巻いていないのだから、頼むからもう少し気をつけてほしい。
抱き寄せた拍子にふれる柔らかさも。愛らしく見上げる上目遣いや、恥ずかしげに洩らす蜜の吐息も。明珠のすべてが龍翔を魅了し、惑わせるのだから。
曇りない信頼を寄せてくれるのはこの上なく嬉しいが、同時に、困り果ててしまう。
「わたしとて、男なのだぞ……?」
龍翔が胸の内に秘めている欲望を知れば、怯えられてしまうだろうか。嫌われてしまうだろうか。
そう考えるだけで、心が凍えるほどの
それでも――純粋な信頼のまなざしを向けてくれる明珠の顔を曇らせたくない。
龍翔の気も知らず、明珠は安心しきった様子で寝息を立てている。
と、いい夢でも見ているのか、不意にふにゃ、と口元が緩む。
見ているこちらの心まで
「まったく……。お前にはかなわんな」
この笑顔を守るためなら、龍翔の悩みなど、ほんの些細なものに思える。
蜜の吐息をあえかにこぼす唇にくちづけたいと願う気持ちを心の奥に押し込め、龍翔は明珠を起こさぬよう、そっと寝台から立ち上がった。
果たしてこの後、自分はすぐに眠れるのだろうかと、一抹の不安を覚えながら。
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