55 悪夢をほどく指先 その2


「あ、あの、さっき龍翔様のお姿を見た時……。なんだか、すごく安心したんです。龍翔様がおそばにいてくださったら、怖いものなんてやってこないって素直に信じられて、ほっとして……」


 明珠は尊敬する主を見上げる。

 痛みをこらえるような表情をしている龍翔と視線を合わせ、にこりと微笑んだ。


「私、龍翔様にお仕えできて幸せです。龍翔様ほどお優しくて、尊敬できる主人はいらっしゃいませんもん。そりゃあ、賊のことが怖くないと言えば、嘘になりますけど……。でも、私で龍翔様のお役に立てることがあるのなら、どうかおそばでお仕えさせていただきたいんです」


「っ!」


 告げた瞬間、龍翔の腕にさらに力がこもる。


「わぷっ」

 ぎゅむ、と龍翔の胸板に顔が押しつけられ、変な声が出る。


 頬にふれる絹の夜着はなめらかで心地よいほどだが、薄手の生地はその下に隠された引き締まった体躯の存在をはっきりと伝えてきて、心臓が騒ぎ出す。


「あ、あの……」

「わたしの」


 逃れようとした明珠の動きを、感極まった龍翔の声が封じる。


「このような目に遭ってなお、わたしのそばにいてくれるというのか?」


 不安に満ちた――降ってわいた幸運を信じたいと願いつつ、信じきれないと言いたげに揺れる声。


 ろくに動かせない頭を苦労して動かし、明珠はこくりと頷いた。


「もちろんです! 龍翔様にクビを言い渡されない限り、お仕えさせていただきますっ!」


「お前を手放すことなど、あるものか」


 龍翔が証明しようとするかのように、腕に力を込める。


 苦しくはない。本当は思いきり抱き締めたいのを我慢しているかのような、包み込むような抱擁。

 龍翔の右手が、ほどいたままの明珠の髪をかき分け、片方の耳をあらわにする。


「ずっと、わたしのそばにいてくれるか?」


 耳に心地よく響く声が、真摯しんしな願いを紡ぐ。

 真っ直ぐで、けれどもどこか甘く響く声に引き込まれるように、明珠はこくりと頷いた。


「はい。ずっとお仕えさせてください」

 真剣そのもので答えたのに、なぜか龍翔が、ふ、と苦笑する。


「……今は、その言葉だけで満足するべきだな」


 龍翔の言葉が意味することはわからないが、今は問いただすどころではない。


「あのっ、おそばでお仕えするとは言いましたが、これは近すぎると思うんですけれどっ」


 恥ずかしさで顔が真っ赤になっているのが見なくてもわかる。何とか逃れたいが、身動きすることすらままならない。


 夜着に香はめられていないが、移り香だろうか、かすかにいつもと同じ香りがする。

 初華のものとも、玲泉のものとも違う、嗅ぎ慣れた龍翔の香り。


 まとう人そのままの高貴で凛とした香りは、けれど安心すると同時に、くらくらと思考が融けそうな心地がする。


「先ほど、わたしの姿を見て安心したと言ったではないか。わたしの腕の中は、安心できぬか?」


 龍翔がからかうように腕に力を込める。

 ぎゅっ、と身体がさらに密着し、明珠はあわてた。


 龍翔の鎖骨の固さも、引き締まった胸板の広さも、はっきりとわかる。むき出しの耳朶じだを龍翔の呼気が撫でるたび、くすぐったさに背中にさざなみが走る。

 恥ずかしさで身体中が沸騰しそうだ。


「これでは、安心するより先に、私の心臓が壊れてしまいます!」


 明珠の抗議に、龍翔が楽しげに喉を鳴らす。


「わたしはこうしていると心が安らぐぞ? ……今宵は、いつもと違って香油をつけているのだな」


「こ、これは……」

 指摘され、かぁっ、と頬がさらに熱くなる。


「季白さんが、初華姫様の侍女さんに頼んで分けてもらったそうで……。安理さんが、渡してくださったんです。今日は大変なことがあったから、いい香りに包まれて眠れば、心の疲れも取れやすいよ、って……」


 明珠は龍翔の腕の中で身を縮める。


「す、すみませんっ、変ですよね。わかっているんです、私なんかがこんな素敵な香油……」


「何を言う?」

 龍翔が目を丸くして明珠の言葉を遮る。


「お前によく似合う香りだ。花のように可憐で愛らしいお前にふさわしい」


 抱き寄せられたまま、すんすんと鼻を鳴らされ、羞恥に身体が熱くなる。


「ひゃあっ!? 何なさるんですか!?」


「ん? 良い香りは心を癒してくれるのだろう? まあ、お前は香油などつけずとも、いつもよい香りだが」


「ひゃああああっ!?」


 首元に顔をうずめられ、悲鳴が飛び出す。熱い吐息が首筋を撫で、そわりと身体が震えた。


「お前はあたたかくてよい香りで……。いつもわたしを惑わせるな。……このまま、誘惑に流されたくなる」


 龍翔が何やら低く囁くが、答えるどころではない。龍翔の声に宿る熱が明珠にも移ったかのように、頭がぼうっとしてくる。


「あ、あの、お放しください……っ」

 恥ずかしさで泣きたいような気持ちになる。


「龍翔様、お願いですから……」


 絹の夜着に包まれた胸板をぐいぐい押し返すと、ようやく龍翔の腕が緩んだ。

 かと思うと。


 とさり、と龍翔が明珠を寝台に押し倒す。


 布団が背に当たる感触に、一瞬息を飲んだ明珠の視界をふさいだのは、寝台に手をついて身を乗り出し、大写しになった龍翔の面輪だった。

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