52 かぎなれぬ花の香りが心を揺らす


「張宇、待たせたな。お前も湯を使え。雨に濡れて身体が冷えただろう。ゆっくりつかるといい」


 湯浴みを終えた龍翔は、季白達の船室に入ると、控えていた張宇に声をかけた。


「お心遣いありがとうございます」


 張宇がかしこまって頭を下げる。その足元に置かれているのは、大きなたらいだ。明順はすでに湯を使い終えたらしい。


「龍翔様を船室から追い出してお湯を使わせていただくなんて、とんでもありませんっ!」


 と明珠が珍しく強硬に主張したため、いつも龍翔が湯浴みにいっている間に明珠も湯を使うことになっている。その間、隣室に控えるのは、常に張宇の役目だ。


「何事もなかったか?」

 龍翔の問いに張宇が大きく頷く。

「はい、ご安心ください」


「そうか。ではお前も湯を使ってこい。今夜からは、初華を頼むぞ」

「はっ、お任せくださいませ」


 さっ、と片膝をつき、拱手の礼をとった張宇が部屋を出ていく。鍛えられた頼もしい長身を見送ってから。


「明順。入ってもよいか?」


 ほとほと、と扉を叩く。

 が、いつもはすぐに返ってくる声がない。


「明順?」


 湯を使う時と着替えの時だけは、他の者を入れるわけにはいかぬため、明珠が部屋に一人きりになる。


 張宇が賊の気配に気づかぬはずがないだろうが――。


「明順! 入らせてもらうぞ!」


 問う間も惜しく、扉を開け放つ。

 明珠の姿は見えない。


 足早に衝立ついたての向こうに回り込み。


 掛布もかぶらず、座った姿勢のまま上半身だけ寝台に横たえてすよすよと眠る明珠の姿を認めた途端、龍翔は詰めていた息を吐き出した。


 どうやら、龍翔を待つ間に眠ってしまったらしい。


 そういえば、前にも同じようなことがあったなと思い出す。蚕家の離邸から乾晶へ出立した日のことだ。


 あの日は、蚕家で禁呪使いに襲われた翌日だった。


 清陣に斬られ、気を失った明珠の血に汚れた頬を濡らした布でぬぐった時の恐怖は、今も龍翔の心に刻みこまれている。


 たとえ、明珠が嫌だと言おうとも、決してそばから離すことはできぬと、苦く決意した気持ちは変わらない。


 だが。

 明珠を手放すことができぬのは、禁呪のためだけではないことを、今の龍翔は知っている。


 無意識になめらかな頬に手を伸ばし、ふれる寸前で我に返って指を握り込む。


 すよすよと眠る明珠を起こしては忍びない。さりとて、変な体勢のまま眠らせるのも可哀想だ。

 少しの逡巡の後、龍翔は明珠の足元に屈むとそっと靴を脱がせた。


 前は非力な少年だったが、本来の姿に戻った龍翔なら、明珠を抱き上げて布団に入れてやることなど、造作もない。


 起こさぬよう、優しく明珠を抱き上げる。よほど深く寝入っているのか、明珠は起きる気配もない。


 抱きあげた拍子に、かぎなれぬ香りが龍翔の鼻をくすぐった。


 一瞬、初華の香の残り香かと思ったが、違う。明珠自身が放つ蜜の香気とも異なる、ほのかな花の甘い匂い。


 着物ですら、お仕着せの男装で喜ぶ明珠は、香油のたぐいなどつけていなかったはずだが、と考え、すぐに誰の仕業が思い至る。


 間違いなく、季白か安理だ。

 どこから調達したのかはしらないが、少しでも明珠を飾り立てようと足掻あがいた結果だろう。


 薄物の夜着を着させられなかっただけ、ましだと思うべきか。明珠のことだ、もし進められても、「こんなの着れません!」と、ぶんぶん首を横に振って断っただろうが。


「香など、不要だというのに……」


 そんなもので飾り立てずとも、明珠はもう十分に愛らしく、魅力的だ。


 気を引き締めて理性を奮い立たせねば、季白と安理の罠に囚われてしまいたい誘惑に、うっかり揺れてしまいそうなほどに。


 たおやかな重みを伝えてくる身体を、優しく寝台の上に下ろす。ふわりと蜜と花の香りが匂いたち、龍翔の理性を揺り動かす。


 下ろした拍子に寝台の外に投げ出された右手を、布団の中へ入れようと持ち上げる。

 あたたかく柔らかな細い指。働き者の明珠らしい少し荒れた指先が、龍翔には宝物のように愛おしい。


 そっと指先にくちづけると、香油を塗った残り香だろう、花の匂いが強く薫る。


 大切に慈しみたい愛おしい花。

 いつか、この手が龍翔の手を取ってくれる日が来てくれればよいと、心の底から願う。


「明珠……」


 今は人前で呼ぶことすら叶わぬ名を呟くだけで、心が甘い感情に満たされる。


 細い指先に、なめらかな手の甲に、優しく唇を這わせる。

 甘い蜜と花の香りが、龍翔の理性を融かし、心の奥底に秘めた願いを浮かび上がらせる。


 本当にくちづけたいのは、手などではない。


 蜜の香気をこぼす唇にくちづけ、甘やかな声も吐息も、すべて飲み干し――、


「……いかんな、これは」

 低く呟き、龍翔は明珠の手から唇を離す。


 このまま明珠にふれていては、本当に誘惑に理性が揺らいでしまいそうだ。


 そっと、明珠の手を布団の中へ入れてやる。

 たったそれだけなのに、心が未練がましいきしみを上げる。もっと、ふれていたいと。


 けれども。

 龍翔が見たいのは明珠の笑顔であって、決して泣き顔ではないのだから。


「……おやすみ、明珠」


 揺れる心を断ち切るように低く囁くと、龍翔は足音を忍ばせて衝立の向こうへと戻った。

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