51 不穏の影 その3
「あまり長く龍華国を離れていては、いつまた、お兄様を陥れようとする悪事が宮中で画策されるか……。わたくしのためにお兄様に不利益を
嘆く初華に、龍翔は安心させるように力強く告げる。
「気持ちはありがたいが、心配はいらぬ。私を失脚させたいと願う輩は、わたしが王都にいようと離れていようと、企みをやめぬだろう。だが、わたしもいいようにしてやられるつもりはない。季白達もいるのだ。そう簡単に窮地に陥ったりはせぬ」
龍翔は微笑みながら優しい声音で初華に告げる。
「逆に、わたしは差し添え人に選ばれたことを好機ととらえておる。藍圭陛下が国王として立派に成長なさることは、ゆくゆくはわたしの力にもなろう。尽力するのは、突き詰めればわたし自身のためなのだ。だから初華、お前が気に病むことはない」
龍翔の語りかけに、初華は硬い表情のまま、ゆるりと首を横に振る。
「決してお兄様のお力を侮っているわけではございません。わたくしも、皇女として嫁ぐからには、晟藍国と龍華国を結ぶ架け橋となるべく――」
「ひとつ言っておくが」
思いつめた表情で話す初華の言葉を、龍翔は柔らかく遮る。
「ひとつだけ、覚えておいてほしい。わたしは、国のためにお前を嫁に出すのではないぞ? 大切な妹であるお前に幸せになってほしいからこそ、差し添え人を引き受け、お前を送り届けようとしているのだ。それを忘れてくれるな。――もし、お前が嫁ぎたくないと言えば、今からでも船を引き返させよう」
「お兄様……っ」
初華の心が少しでも軽くなるよう、悪戯っぽく笑って告げた龍翔の言葉に、初華の面輪が今にも泣き出しそうにくしゃりと歪む。
龍翔も初華も、国の決定に簡単に
けれども。
龍翔が初華へ告げた言葉は、嘘偽りのない本心だ。
もし、初華が、自分が晟藍国へ嫁ぐことで兄の助けになるという責任感から旅を続けているのならば、そんな
大切な妹の幸せを、龍翔のために犠牲にするなど、言語道断だ。
初華が幸せになるためならば、皇帝の命すら反故にしてもかまわない。
どうせ、皇帝も高官達も、初華が晟藍国に嫁ぐことによって得られる富にしか興味がないのだ。そんなもののために、初華が犠牲になる必要がどこにあろう。
大切な妹の幸せひとつ守れず、国を導こうとは片腹痛い。
「龍翔様のおっしゃる通りでございます」
心をほぐすような穏やかな笑みを浮かべて口を開いたのは張宇だ。
「わたしも妹を持つ兄として、龍翔様のお気持ちはよくわかります。龍翔様が大切にお思いになられている初華姫様のためでしたら、この張宇、できる限りのことをいたしましょう。賊など、初華姫様に決して近づけさせませぬ」
「あーっ! 張宇サン、抜け駆けはズルイっスよ! オレだって、賊が現れたら返り討ちにしてやるっス! 初華姫サマは、だ~いじな同志っスからね♪」
「同志? なんだそれは? 初華に変なことを吹き込んだら許さんぞ?」
龍翔は安理を睨みつけたが、安理は「きしし」と悪戯っぽい笑みを浮かべるだけで答えない。
諦めきったような吐息をこぼし、恭しく初華に一礼したのは季白だ。
「龍翔様のお望みを叶えるのが、我ら臣下の務めでございますれば、初華姫様がどのようなご決断を下されようと、お気になさる必要は全くございません。ええもう、龍翔様の無茶振りに比べたら、『花降り婚』を取りやめたいという程度、可愛いものでございます……っ!」
途中から、なぜか季白が歯噛みせんばかりにどんどん渋面になる。
「お兄様……。張宇達も、ありがとう」
ようやく表情を緩めた初華が、あでやかな笑顔を見せる。声は潤んでいるものの、表情は迷いがふっきれたかのように晴れやかだ。
「皆様のおかげで、心が軽くなりました。藍圭様に嫁ぐと決めたのはわたくし自身ですのに……。だめですわね、不安になってしまって」
苦くこぼした初華が、視線を上げ、凛とした表情で龍翔達を見回す。
「『花降り婚』を取りやめたりなど、しません。このまま晟藍国へ向かいます」
きっぱりと告げた初華に、龍翔は大きく頷く。
「承知した。そもそも、今日、安理が仕入れてきた情報は、まだ裏づけも取れておらぬ不確かなものだ。事実と異なる噂も混じっているやも知れぬ。晟藍国へ入れば、もっと確かな情報も得られよう。お前の身も、侍女達も、わたし達が守るゆえ、あまり思い詰めぬようにな」
諭すように告げると、「お兄様のおっしゃる通りですわね」と初華が素直に頷く。
「不測の事態に備えるのは大事ですけれども、不安に囚われていては、正しく物事を捕えられませんものね。せっかくの船旅ですもの。晟藍国に着くまで、楽しまなくてはもったいないですわ」
いつもの明るい笑顔が戻った初華に安堵する。
「とはいえ、今宵はもう遅い。体調を崩しては元も子もない。警護には張宇達をつかせるゆえ、安心して休め。今日は疲れただろう?」
「龍翔サマがおっしゃる通りっスよ~っ。初華姫サマ、そろそろお部屋へ戻られませんか? 睡眠不足は美容の大敵っスよ。まあ、初華姫サマのお美しさはその程度では曇らないでしょうケド。 龍翔サマ! 初華姫サマは、オレ達三人がばーっちりお守りするんで、ご安心くださいっス!」
初華が答えるより早く、やたらとうきうきした様子で安理が口を開く。はっとした表情になったのは季白だ。
「ええ! 初華姫様の警護は我らにお任せを! すぐにお休みできるよう、湯浴みの準備をさせましょう! 張宇! 支度の確認を!」
「あ、ああ……」
季白の勢いに飲まれたようにぎこちなく頷いた張宇が立ち上がる。
「張宇、支度ができていなければ、わたしは一日くらい入らずともかまわぬぞ。今日は荷の積み下ろしがあった上に、賊まで出て大騒ぎだったのだ。船員たちも疲れておろう」
「いいえ! 湯浴みには心をほぐす効果もございますので! このような時にこそ、初華姫様には御心健やかにお過ごしいただかねば! それに」
季白の視線が明珠に向けられる。明珠の背筋が緊張にぴんと伸びた。
「いつまでも、明順に血のついた着物を着せておくわけにはまいりませぬ」
「えっ!?」
明珠があわてた様子でお仕着せを確認する。
賊に斬られた周康のものだろう。紺色なのでぱっと目にはわからないが、着物のところどころに赤黒い血飛沫が点々とついている。
みるみる顔を青ざめさせる明珠の頭を、安心させるように優しく撫でる。
「着替える時間すら与えてやれずすまなかった。すぐに湯を用意させよう。着物についても、汚してしまったと気にする必要はないぞ?」
「は、はい……」
明珠がぎこちなく頷く。
「龍翔サマ。賊の狙いが初華姫サマである可能性が濃厚になったんで、今夜はオレ達、三人とも初華姫サマの警護につこうと思うんで~♪ 明順チャンのコトは、龍翔サマにお任せするっスねっ♪」
にまにまと腹立たしさを覚えるほどのにやけ顔で安理が提案してくる。即座に同意したのは季白だ。
「そうですね。龍翔様の御身も至上のものでございますが、今宵は初華姫様に心穏やかにお過ごしいただくのが大切かと存じます。わたくし三人で初華姫様の警護につきますので――」
不意に、ぎんっ! と鞘走りの音が走る抜身の剣のような鋭さで、季白が明珠をねめつける。
「よいですかっ!? 龍翔様の寛大なる御心に感謝し、しっかり務めるのですよっ!?」
「はいっ! 龍翔様のお優しさにはいつも心から感謝していますっ!」
季白の気迫に、はじかれたように明珠がぴんっ、と背を伸ばすが……。
どう考えても、季白の意図を明珠が理解しているとは思えない。
というか。季白と安理が、明らかによからぬ期待を抱いている気がする。
安理はどう見ても面白がっているし、季白は禁呪に変化があることを期待しているからか、鬼気迫るほど険しい表情だ。
二人とも、いったい龍翔をなんだと思っているのか。
問い詰めてやりたい気持ちでいっぱいだが、初華の前で禁呪のことを口にするわけにもいかない。
さて、どうすれば従者達の誤解を解けるかと悩んでいると。
「失礼します。玲泉様がすでに湯浴みをされたそうで。湯殿はいつでも使えるよう整っているとのことです」
船内に備えつけられた湯殿の支度の確認に出ていた張宇が戻ってくる。
「そうか。では、初華。先に使うとよい」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきます」
初華が優雅に立ち上がる。
「あ、明順の分の湯の用意もできているからな。すぐにたらいを持ってこよう」
「わあっ。張宇さん、ありがとうございます!」
「張宇、ちょっと待ってください。それと初華姫、折り入ってお願いが……」
「あ、張宇サーン♪ 今夜はオレ達三人で初華姫サマの警護っスからね~♪」
季白達も立ち上がり、にわかに部屋がにぎやかになる。
弾んだ声を上げる明珠に、冷めた湯を使わせては可哀想だと、龍翔は今は安理と季白を問いただすのを、諦めた。
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