53 この腕の中におさめて眠れば、どれほど満たされることだろう


「よくやったね、唯連いれん


 湯浴みを終え、夜着に着替えてくつろいでいた玲泉は、よく冷えた茶を持ってきた気のく従者をねぎらった。

 玲泉に褒められ、唯連の少女のように愛らしい顔がぱあっと輝く。


「もったいないお言葉でございます。この唯連、玲泉様の御為ならば、龍翔殿下の従者を足止めすることなど、苦労でもなんでもございません」


 恭しくこうべを下げる唯連に、玲泉は飲み干した茶の器を返す。

 受け取った唯連の目が期待に輝いているのを見て、玲泉は無造作に手を伸ばすと、その頭を撫でてやった。


 ほう、と唯連が感極まった吐息をつき、熱っぽい視線を向けてくるのを、あえて無視する。


「ああ、もう用はないよ。下がっていい」


 あっさり手を振ると、唯連が目の前で餌を取り上げられた子犬のような表情になる。

 が、唯連の希望を叶えてやる気はさらさらない。そもそも、主人が従者の意を汲む必要など、どこにあるというのだろう。


 名家である蛟家に生まれた玲泉にとって、他者に奉仕されるのは当たり前のことで、今までそれを疑ったことなどない。


 どこの出身ともわからぬ従者に義理立てする必要など、どこにもないのだが。


「……みさおを立てると言ってしまったからねぇ」


 部屋から出ていく唯連を見もせず椅子から立ち上がり、部屋の奥にある大きな寝台にごろりと身を横たえた玲泉は、一人ごちる。


 これまで、あまり接点のなかった第二皇子。

 思わず見惚れるほどの秀麗な面輪は、玲泉の好みではあるが……。


 今まで、気にはなっていたものの、手を出そうと思ったことはなかった。


 蛟家の玲泉が龍翔に近づけば、第一皇子派、第三皇子派、どちらからもいらぬ疑いをかけられるのは目に見えている。たかが遊びに、そこまでの危険を冒す気はさらさらない。


 どうせ、ひとときの遊びなのだ。


 楽しく、面白おかしく、ひとときの悦楽に浸れれば、それでよい。

 決して実のなることはない泡沫うたかたなのだから。


 今までずっと、そう思って遊び人の名をほしいままにしていたというのに。


「明順、か……」


 初めて飲む酒を味わうかのように、男装した少女の名を、口の中で転がす。

 十中八九、偽名だろう。龍翔は、彼女の本名すら教えてくれなかった。


 初めて明順を見かけた時に声をかけたのは、単なる好奇心だった。


 龍翔の従者である安理が、初顔の従者とにこやかに歩いていたのだ。しかも、それが愛らしい少年とあれば、声をかけぬ理由がない。


 あの時か、もしくは書庫で会った時に、明順が少女だと気づけていたらと思うと、残念で仕方がない。

 確かに、少年にしては華奢きゃしゃで柔らかだとは思ったのだ。だが、まさか少女だなどとは夢にも思わなかった。


 もし気づいていたら、その場でどんな手段を使っても明順をさらい、己のものにしていたものを。


 というか、未だに龍翔が明順をものにしていないというのが、玲泉には理解できない。


 第二皇子とは名ばかりの、後ろ盾のない立場。政敵に弱みを握られぬよう、品行方正にしているものとばかり思っていたが、まさか。


 名家の令嬢ならともかく、手を出してもどこからも文句の出ない従者にすら、手を出していないとは。


 玲泉には、にわかには信じられない。

 人の欲にまみれた宮中で、どうすればあれほど潔癖けっぺきなままでいられるのか。


 だが、まさかその龍翔が恋心を自覚する瞬間を目にすることができようとは。


 先ほどの龍翔の様子を思い出し、自然と口元が緩む。


 いつも隙を見せまいと凛と背筋を伸ばし、澄ました顔をしている龍翔があれほどうろたえ、赤面するさまは初めて見た。呆気あっけにとられて、一瞬、何が起こったのか理解できなかったほどだ。


「あの方も、人の子だったというわけか……」


 龍翔の様子には親近感を抱いたが、あれは痛恨の失敗だったと苦く思う。


 明順を手に入れようと思うなら、龍翔には恋心など自覚させるべきではなかった。


 「明順は決して渡さぬ」と、玲泉を真っ直ぐに見据えたまなざしを思い出す。

 決意に満ちたあの様子を見るに、龍翔はそうそう明順を手放さぬだろう。せっかく、季白は陥落できそうだったというのに、残念極まりない。


 だが、玲泉とて、明順を諦めるつもりは、微塵みじんもない。


 家族を除けば生まれて初めて出会った、ふれることのできる女人。そんな存在がいるだなど、明順の正体を知るまで、考えたことすらなかった。


「恋、か……」


 今日、龍翔が恋心を自覚したというのなら、もしかしたら玲泉もそうなのかもしれない。


 誰か、特定の一人のことを考え、これほどまでに欲するのは、初めてなのだから。


 明順のことを考えるだけで、心が浮き立つ。


 感情を素直に出してくるくると変わる表情は、いつも澄ましていて、表情といえばしとやかに微笑むだけの貴族の令嬢にはない妙趣がある。

 世慣れぬ初心うぶさも、玲泉の予想を覆してばかりの言動も、早く彼女を手に入れたいという欲求を加速させる。


 明順とともにいれば、退屈な日々も心楽しいものに変わるに違いない。


「ああ、早く手に入れたいものだ……」


 柔らかに口元がほどけるのを自覚しながら、玲泉は甘く呟く。


 賊から庇った時に抱き寄せた華奢でたおやか肢体を思い出す。

 あの少女をこの腕の中におさめて眠れば、どれほど満たされることだろう。


 今宵、龍翔がその喜びを味わうのかと思うと、どうにも面白くない。


 が、それも明順を手に入れるための手順なのだとしたら、仕方があるまい。最後に玲泉が手に入れればよいのだ。


「さて、殿下は一夜の契りで満足なさるのか……」


 手に入れたことに満足して、後はどうでもよくなってしまうこともあるだろう。あれほど恋焦がれていたのに、枕を交わしてみれば興が冷めるということも。


 いくら明順が愛らしくとも、龍翔とて、そのうち飽きることだろう。


 永遠に続く恋など、ありえない。


 龍翔に捨てられたなら、悲嘆にくれる明順に、うんと優しい言葉をかけてやろう。むろん、龍翔が飽きるのをのんびりと待つ気はないが。


「元気な子を産んでもらうためにも、孕まされては困るしな……」


 さて、どうやって明順を手に入れようかと考える。


 もし明順が龍翔を捨てて玲泉に走ったら、あの秀麗な面輪はどんな風に歪むだろうか。それもまた、楽しみだ。


 ごろりと寝返りを打った拍子に、寝台の広さに気づく。


 思えば、一人寝など久方ぶりだ

 かたわらに誰もいない広い寝台は、寂しさよりも、清々しさを感じさせてくれる。


 柔らかに身体を受け止めてくれる寝台にしどけなく寝転びながら、玲泉は策を巡らせる。


 何かを欲しいとこれほどまでに思うのは初めてだ。心が浮き立つように楽しい。


 ともあれ、明日は龍翔を存分にからかって、秀麗な面輪が変わるとさま、初心うぶな明順が照れるさまを堪能しようと、玲泉はくすくすと喉を震わせた。

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