47 私、大変なことをしでかしてしまって……。 その1


「ごめんな、明順。こんな格好で……」


 船室の中に入り、渡した布でがしがしと頭を拭く張宇に、明珠はぶんぶんとかぶりを振った。


「そんなっ、気にしないでください! 雨、そんなにひどいんですか……?」


 張宇の着物はかなり濡れている。走ったからだろう。裾まで水が跳ねてひどい有様だ。


「合羽を着てはいたんだが、雨の中を走り回ったからなぁ」


 苦笑する張宇に、「着替えた方がよくないですか?」と提案する。

 ぐっしょり濡れた着物は、鍛えられた身体にべったり張りつき、たくましい身体つきがひと目でわかるほどだ。


「いくら夏が近づいているとはいえ、もう夕刻ですし、冷えちゃいますよ? 風邪でも引いたら大変です!」


 心配して見上げると、張宇が困り顔になった。


「いやでも別室で着替えてくるわけにもいかないだろう? 龍翔様に、片時も明順から離れるなと厳命されているし」


「じゃあ、私は衝立ついたての向こうにいますから、その間に着替えるのはどうですか? それなら、万が一、何かあっても、すぐに声が届きますでしょう?」


 ただでさえ、賊のせいで周康が怪我をしたというのに、明珠に気を遣ったせいで、張宇まで風邪を引いたらと思うと、心配で仕方がない。

 じっ、と精悍せいかんな面輪を見上げると、張宇が穏やかに微笑んだ。


「じゃあ、お言葉に甘えて着替えさせてもらおうかな。濡れた服だと、身体に張りついて動きにくいし……」


「はいっ」

 大きく頷くと、張宇が「ありがとう」と明珠の頭をひと撫でした。


「悪いが、着替えを取りに行くのに、隣室までちょっとつきあってもらえるか?」


「もちろんですっ」


 こくんと頷き、張宇と一緒に、内扉でつながった隣室へ移動する。

 船室の広さ自体は龍翔の船室とさほど変わらないが、従者用の部屋なので、調度品はやや地味だ。とはいえ、十二分に高価な品々なのだが。加えて、寝台を四つも置いてあるため、どうしても手狭な感じがする。


 明珠は周康が使っていた寝台に目を向けた。

 船酔いがひどい周康は、出航してからしばらく、ほぼ寝台に横になったきりだった。吐いてしまうため、食事もほとんど喉を通らなかったらしい。


 心配で、龍翔に付き添われて何度も様子を見に来ていたが……。


 周康の寝台は今は無人だ。簡単に整えられただけの布団は、今夜もいつも通り周康が戻ってきそうだというのに。


(……私が、足手まといになったから……)

 胸を突く痛みに、明珠は唇を噛みしめた。


 明珠を庇う必要がなければ、たとえ船酔いで調子を崩していたとはいえ、周康が賊におくれを取ったとは思えない。

 明珠が賊に怯えて動けなかったがゆえに、周康に怪我をさせたも同然だ。


 もし、一緒にいたのが張宇だったら、二人で見事、賊を捕えていたに違いない。


(そうすれば、龍翔様の禁呪を解く手がかりが得られたかもしれないのに……)


 情けなさに唇を噛みしめたところで、張宇に声をかけられた。二人で連れ立って龍翔の船室へ戻る。


「じゃあ、私は衝立の向こうに行っていますから……。お着替えが終わったら、声をかけてください」


「ああ、気を遣わせて悪いな。……あ、明順」

「はい?」


 衝立の向こうに行こうとした明珠を、張宇が呼び止める。振り返った明珠に、張宇が穏やかに微笑みかける。


「ついでに明順も髪を束ね直したらどうだ? 俺がさっき撫でたせいで、乱れたみたいだから」


「あ……」

 あわてて頭に手をやると、張宇に指摘された通り、一つに束ねた髪がかなり乱れていた。


 が、絶対に、さっき張宇に撫でてもらったせいではないだろう。こんな頭で龍翔達の前にいたのかと思うと、恥ずかしい。みっともないと呆れられていたのではないだろうか。


 が、まるでついさっきまでは大丈夫だったと言いたげな張宇の気遣いに、明珠は素直に頷いた。


「ありがとうございます。じゃあ、私も髪を直させてもらいますね」


 衝立の向こうに移動し、髪を束ねていた紐をほどく。


 乾晶で龍翔から贈ってもらった。絹の紐。

 あざやかな群青色の紐は明珠の宝物だ。なめらかな手触りは、ふれるたび、いつも心が弾むような気持ちになる。というのに。


 絹紐で髪を束ね直す明珠の気持ちは、絹のなめらかさとは真逆に、ざらついていく。

 こんな高価なものを贈ってくれる優しい主人の足手まといにしかなっていない自分が、情けなくて。


 にじみそうになった涙を袖でぬぐい、鼻をすすると。


「明順? どうかしたのか?」


 衝立の向こうから、張宇に気遣わしげに声をかけられた。


「張宇さん……」

 心をほぐすような優しい声に、さらに視界がにじむ。


「その……っ、龍翔様にご迷惑をかけてばかりなのが、情けなくて……」


 衣擦きぬずれの音が聞こえてくる衝立の向こうで、張宇が笑む気配がした。


「そんなことはないぞ。明順はよくやってくれている。明順は優しいから、周康のことを気にするなというのは無理だろうが……。大丈夫だ。毒さえ抜ければ、傷は《癒蟲》で治せるし、若くて体力がある分、回復まで、それほどかからないだろうから」


「はい……」


 自信をもって断言された言葉に、ほんのわずかに安堵する。

 荒事に慣れている張宇の言葉は、すとんと心に落ちてくる。だが。


「それだけじゃないんです……っ。わ、私、もっと大変なことをしでかしてしまって……っ」


 声が震え、目が潤む。穏やかで優しい張宇相手でもこうなのだから、季白に報告しようとするとどうなるのだろう。

 恐怖のあまり、気を失ってしまうのではなかろうか。


「もっと大変なこと……?」

 張宇が不思議そうに問う。


 明珠はごくりと唾を飲み下すと、震える唇を動かした。


「玲泉様に……、私が娘だとバレてしまったんです……っ!」


「ええぇぇぇっ!?」


 大音量の叫びと同時に、がたたたっ! と何か固いものがぶつかる音がする。同時に、張宇の「いてっ!」という呻きも。


「ち、張宇さん!? 大丈夫ですかっ!?」


 思わず衝立の向こうに回り込むと、着替え途中で上半身がもろ肌脱ぎの張宇が、倒れた椅子の側に膝を抱えてうずくまっていた。


「ひゃっ!? す、すみませんっ!」


 鍛えられ引き締まった体躯が目に飛び込んできて、思わず固くまぶたを閉じる。


「す、すまん。こっちこそ……。びっくりしすぎて……」


「いえっ、すみませんっ」

 ぎゅっと目をつむったまま、ぶんぶんとかぶりを振る。


「すみません、戻りますね……」


 恥ずかしくて目が開けられない。まぶたを閉じたまま回れ右し、衝立の向こうに戻ろうとすると、つまずいた。


「ひゃっ!?」

「明順!?」


 前につんのめった身体をぐいっと後ろに引かれる。


「わわっ」


 引かれた勢いか強すぎて今度は後ろによろめいた明珠は、そのまま張宇もろとも尻餅をついた。

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