46 酔いそうに甘い蜜の香気が、同時に、ひどく苦い その3
「わっ、私が季白さんや張宇さん達と一緒に、龍翔様のお供につくんですかっ!?」
信じられないと、こぼれんばかりに目を円くする明珠に、「ああ」と頷く。
「賊の狙いがわからん以上、お前を一人で部屋に残していくわけにはいかぬ。だが、季白と張宇はわたしの随行につかねばならぬし、安理もあれこれ動かねばならんだろうからな……。初華の侍女達は、ほとんどの者が荒事に慣れておらぬゆえ、初華の警護も強化せねばならぬし……。正直、人手が足りぬ」
『花降り婚』の指し添え人という立場でなければ、龍翔が一人で行動し、季白と張宇をそれぞれ初華と明珠の警護につければよい。
が、龍翔も初華も、龍華国の皇族という立場を背負って晟藍国へ赴く以上、供が一人も随行しないというわけにはいかない。外交には見栄や形式も必要だ。
禁呪の秘密を守るためにも、信頼できるごく少数の供で、と考えたのが、裏目に出てしまった。
「人手が足りぬのならば、警護せねばならぬ者を一か所に集めておいたほうが、効率もよかろう」
龍翔自身は、自分の身は自分で守れる。ならば、できる限り、龍翔と明珠、初華が一緒にいたほうが、賊も手を出しにくかろう。
「で、でも、私などが龍翔様のお供を務めさせていただいていいんですかっ!? 季白さんが許可してくれるとは思えないんですけれど……っ!?」
明珠が子うさぎのようにぷるぷる震えながら訴える。
「それに、またいたらない従者だと笑われて、龍翔様にご迷惑をかけてしまうのでは……っ」
うつむいた明珠の声が潤む。
明珠が泣くのではないかと思った瞬間、思わず龍翔は明珠を抱き寄せていた。
「そのようなことはない。わたしがさせぬ。……それに、毎日、季白の指導を受けているではないか」
「そ、そうですけれど……っ。でも、まだまだ季白さんに注意されてばかりで、龍翔様のお供を務められるとは、とてもとても……っ」
へにょ、と眉を下げて固辞する明珠に、二日前の記憶が甦る。
龍翔の腕の中で眠りにつく寸前、「どうか、見限らないでください」と、夢うつつに懇願していた言葉。
明珠を見捨てるなど、そんなことは決してあり得ないというのに、と微笑ましく思うと同時に、龍翔の胸を襲ったのは、鈍い痛みだった。
もしかして、龍翔は明珠に、心の底では「従者を見限るような主人」と思われているのか、と。
ふだんの明珠を見ていれば、そんなことは杞憂だと、ひと目でわかる。龍翔を見上げる明珠のまなざしには、いつも素直な信頼があふれていて、二心を疑う余地などない。
だというのに、他の誰でもなく、明珠に信頼されていないかもしれないと思うだけで、胸が痛みに
人の心など移ろいやすいもの。風に流れる雲よりもたやすく形を変えるものだと、そんなものに期待を寄せてはならぬと、思い知っているはずなのに。
……明珠の心を確かめたいと希求する己がいる。
「明順」
そっと名を呼び、うつむいた面輪に指先を伸ばす。
なめらかな頬を手のひらで包むと、明珠がかすかに身を震わせた。
「お前がよく努めてくれているのは、わたしが誰より知っている。それに、過ちを犯さぬ者など、決しておらぬ。ならば、お前が何か失敗したとしても叱ろうとは思わぬし、お前を責める者がいれば、わたしが許さぬ」
上を向かせた明珠と視線を合わせ、噛んで含めるように穏やかに告げる。
「ちがっ、違うんですっ!」
だが、明珠は頷くどころか、ぷるぷるとかぶりを振った。
「龍翔様が理由もなく怒られたりなさらないのは、よく知っています! お優しい龍翔様が、いつも私を庇ってくださるのも……っ。でも、だからこそ……っ」
じわり、と明珠の瞳に新たな涙が浮かぶ。
「龍翔様のお優しさを知っているからこそ、それに甘えてしまう自分がふがいないんですっ。尊敬する龍翔様のお役に立ちたいのに、逆に、龍翔様の名に傷をつけてしまう自分が、情けなくて……っ」
胸を突く真摯な声。
つぶらな瞳に浮かぶのは、まぶしいほどに真っ直ぐな尊敬で――そのまばゆさに、理性がくらむ。
心の願うままに抱き寄せ、甘く香る唇に、己のそれを落とそうとして。
「せいぜい、主人として明順を慰めてやってください」
不意に脳裏をよぎった玲泉の言葉に、凍りついたように動きを止める。
「龍翔様?」
身を強張らせた龍翔を、まなじりに涙を浮かべた明珠が不思議そうに見上げる。
まじりけのない信頼に満ちたまなざし。
疑うことを知らぬ無垢な娘に、自分は今、何をしようとしたのか。
不意打ちで頭を殴られたかのように、視界が揺れる。
《気》が足りなかったという言い訳はきかない。先ほどの涙で、《気》はもう、十分に足りている。
ただ――龍翔が、明珠にくちづけたかったのだ。
厳しく己を戒めなければと思うのに、明珠を目の前にすると蜜の甘さに惑わされ、熱に当てられた
身分をかさに、従者に手を出すような主人に成り下がるなど、絶対に御免だというのに。
蚕家で遼淵達の罠に陥った時のような事態を、二度と引き起こす気はない。
理性を奮い立たせるように唇を固く引き結び、優しく明珠の背を撫でる。一緒に、己の心も落ち着かせるかのように。
「わたしに迷惑をかけるかもしれぬなどと、心配する必要はない。これでも、第二皇子なのだ。口さがない者の
しいて、おどけるように微笑む。
王城は何とかして龍翔の
「今回の旅は、随行の供も初華の侍女達と玲泉の従者達に限られている。今後、供として人前に出てもらわねばならぬ機会もあるだろう。今回の『花降り婚』は、その練習だと思えばよい。もちろん、何かあればわたしがすぐに助けるし、季白や張宇、安理もついている。何も不安に思うことはない」
明珠と視線を合わせ、穏やかに告げると、自信なげに揺れていた視線が定まった。
柔らかな唇がきゅっと引き結ばれる。
「わ、わかりました……っ。龍翔様のおそばにお仕えするために必要なことなのでしたら、私、頑張ります!」
「ああ頼む。だが、くれぐれも無理はしてくれるな。何かあれば、すぐにわたしを頼るのだぞ?」
「はいっ、ありがとうございます!」
素直に頷く明珠に安堵すると同時に、心が
物わかりのよい優しい主人のふりをして、純真な明珠を手ひどく裏切っているのではないかと。
……今も、心の奥底には、抱き寄せた腕に力をこめ、甘い蜜を心行くまで味わいたいと望む自分がいるというのに。
明珠のまなじりに手を伸ばし、浮かんでいた涙の雫をぬぐうと、なめらかな頬がうっすらと染まる。薄紅色に色づくさまは、花の化身のようだ。
決して無下に手折りたくない、大切な花。
くらりと
わざわざ玲泉に釘を刺されずとも、主人としての領分を超える気はない。
――超えては、ならない。
心の内に沸いた囁きを吟味する間もなく。
遠慮がちに扉を叩く音がした。聞こえてきたのは張宇の声だ。
「龍翔様。安理が戻ってまいりました。それと、総督と船長が、今夜はこのまま淡閲に停泊なさるのか、それとも出航されるのか、確認させていただきたいと申しております」
張宇の声に、「わかった。すぐに行こう」と答え、明珠の身体に回していた腕をほどく。
「それほどかからぬと思うが、張宇と一緒におとなしく待っているのだぞ?」
叶うことなら明珠の側を離れたくないが、船長も、龍翔の判断を仰がずに決断できまい。わざわざ張宇が来たのは、張宇ならば安心して明珠を任せられると季白が考えたからだろう。
「もちろんです!」
素直に頷いた明珠の頭をひと撫でし、扉を開けると、そこに立っていたのは着物をぐっしょりと濡らした張宇だった。
雨が降る中、賊を探して駆けずり回ったのだろう。布地が水を含んで色が変わり、髪からは今にも雫が
「申し訳ございません。賊はいまだ……」
長躯を縮めるようにして詫びる張宇に、懐から手巾を差し出しながらかぶりを振る。
「よい。今回の賊については、予想外の事態だったのだ。後手に回ったのはやむを得ん。お前達が必死に捜索してくれているのはよくわかっている。というか、先に着替えてからでもよかったのだぞ?」
「いえ。時間が惜しかったものですから……。このような格好で申し訳ございません」
一礼した張宇は、「自分のがありますから」と恐縮して龍翔の手巾を受け取ろうとはしない。代わりに、明珠があわてた様子で、部屋の奥から布を手にぱたぱたと駆けてきた。
「張宇さん、ずぶ濡れじゃないですか!? 早く拭いてくださいっ」
「ありがとう」
笑顔で明珠から布を受け取る張宇に、
「ではくれぐれも明順を頼んだぞ」
と念押しすると、龍翔は入れ違いに部屋を出た。
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