46 酔いそうに甘い蜜の香気が、同時に、ひどく苦い その2


「んんっ!」


 苦しげな呻きと同時に拳で胸を叩かれ、冷水を浴びせられたように我に返る。


「す、すまぬっ!」


 ぱっと腕をほどくと、明珠の身体がふらりとかしいだ。倒れそうになった身体をあわてて支える。

 両手で服の上から胸元の龍玉を押さえ、荒い息を吐く顔は、頬どころか、耳の先や首元まで紅く染まっていた。


 何と声をかければよいか、とっさに思い浮かばず、龍翔は息をひそめて明珠が呼吸を整えるのを待つ。

 非難されたら、次は自分が土下座して謝ろうと思いながら。


 と、ひときわ大きく息をついた明珠が、上目遣いに、きっ、と龍翔を見上げる。


「驚かせた方が《気》が出やすいからって、こんな……っ。私の心臓を壊すおつもりですかっ!?」


 ぷぅ、と頬をふくらませて言われた内容が、予想の埒外らちがいすぎて、呆気あっけにとられる。


「龍翔様も玲泉様も、ご冗談やからかいが心臓に悪すぎますっ! 高貴な方々のおたわむれには不慣れなのですから……。もう少し手加減してくださいっ!」


「……明、珠?」


 明珠が何を言いたいのか、理解できない。

 今までのやり取りのどこに、冗談が入る余地があったというのか。


 黙していると、明珠がきょと、と小首をかしげた。


「だって、龍翔様がおっしゃったじゃないですか。「玲泉様の言葉は本気にするな」と……。私、ようやく意味がわかりました! 玲泉様って、とんでもないご冗談で人をびっくりさせるのがお好きなんですねっ!?」


 とっさに言葉が出てこない。


 言った。確かに言った。

 玲泉の言葉など、本気にするな。塵芥ちりあくたと同じように思えばよいと。


 だが――。


「ふはっ」


 心の底から湧きあがった愉快さに、思わず吹き出す。


 龍翔も初華も、玲泉が本気だと思い知らされたというのに、とうの明珠本人だけが、たちの悪い冗談だと思っているだなど。


 くつくつと喉を鳴らしていると、明珠が不思議そうに小首をかしげた。乱れた黒髪が肩をすべる。


「あの……?」

「はははっ、お前は本当に、わたしの想像を軽々と越えてゆくな」


 明珠の頭に手を伸ばし、よしよしと撫でる。


 玲泉への警戒を解かぬよう、冗談ではないのだと教えておくべきだろう。だが、今は誤解させたままにしておきたい。


 ただ、これだけは聞いておかねば。


「明珠」

「は、はいっ!」


 龍翔の真剣な声音に何かを感じ取ったのか、明珠がぴしりと背を伸ばす。

 真っ直ぐにこちらを見上げる瞳を見つめ、龍翔はゆっくりと問いを紡いだ。


「もし――。もし、ひとつ頷くだけで安楽な生活と、莫大な富が手に入るとしたら、お前はどうする?」


 問う声が苦く、揺れそうになるのをかろうじて自制する。


 もし、明珠が求婚に頷きさえすれば、玲泉はなんとしても明珠をその手中におさめようとするだろう。

 明珠が蛟家の富に惹かれたとしても、ごく自然なことだ。責めるのはお門違いだ。


 龍翔の問いに、明珠はぱちくりとまたたきした。かと思うと。


「だめですっ、龍翔様! そんなの、絶対に詐欺ですよっ!」


 きゅっと眉を寄せた明珠が、身を乗り出して龍翔の腕を掴む。


「返事ひとつでお金がもらえるなんて、そんなこと絶対ありえませんっ! あるとしたら、詐欺に決まってますっ!」


 真剣な表情で心配する明珠に、笑ってはいけないと思いつつ、口元が緩むのを抑えられない。と、明珠がさらに眉を寄せる。


「龍翔様っ、笑い事じゃないですよっ! そりゃあ龍翔様は私などよりずっと物知りでいらっしゃるから、龍翔様に限ってだまされたりなんてしないでしょうけれども……っ。そういう方に限って、思わぬところで落とし穴につまずいたりするんですから! 油断大敵です! 甘い言葉にだまされちゃダメですよっ!」


「うんうん、よくわかった。ちゃんとお前の言葉を心に留めておこう」


 吹き出したいのをこらえ、真面目な表情を作って頷くと、明珠がほっとしたように表情を緩めた。


 真剣に龍翔のことを心配してくれているとわかる様子が愛らしすぎて、思わず抱き寄せたくなる。


「……何よりも、わたしを惑わせるのはお前だな」


「え?」


「いや……。それより、先ほどの話は、わたしのことではないぞ? むしろ、お前に関する話だ」


 告げると、明珠がつぶらな瞳をさらに円く見開いた。


「えええっ!? 貧乏人の私なんかだましても、何の得にもなりませんよ!?」


「損や得の問題ではないと思うが……。その、大金が手に入るのは、お前にとって望ましいことではないのか?」


 問うと、明珠が眉を下げて困り顔になる。


「そ、それは……。お金が欲しくないと言えば嘘になりますが……。そんなうまい話があるわけないですっ! 絶対、何かの間違いに決まってます! 人間、地に足をつけて働くのが一番です! 龍翔様には、もう過分なほどのお給金をいただいておりますし……っ」


 口元が柔らかく緩む。声が弾むのを抑えられない。


「では、これからもわたしに仕え続けてくれると?」


「もちろんですっ!」

 勢いよく頷いた明珠が、我に返ったように視線を揺らす。


「き、季白さんにクビを言い渡されない限りは、ですけれど……」


「そのようなこと」

 笑いながら、ゆるくかぶりを振る。


「わたしが許すわけがないだろう?」


「で、でもっ、玲泉様に娘であるということをバレたと季白さんが知ったら、どれほど叱られるか……っ! もしかして、減給ですかっ!?」


「減給など、わたしがさせぬ」


 季白の叱責を想像してか、ぷるぷると震える明珠の背を優しく撫でる。


「玲泉殿に正体がバレたっ!? いったい、何をどうしたら、そんなとんでもない事態を引き起こすことができるんですっ!? わたしの心臓を止める気ですかっ!? ええ、わたしの胃に穴を開けて殺す気ですねっ!?」


 季白が怒髪天をく勢いで怒る姿がたやすく想像でき過ぎる。明珠の顔色が悪いのは、きっと同じようなことを想像したためだろう。


「そう不安に思うことはない。今回のことはお前の咎ではないのだからな。もちろん、わたしも口添えする」


「龍翔様……っ! ありがとうございますっ!」


 明珠が救いの手を見つけたように、つぶらな瞳を輝かせる。と、急に顔を強張らせ、あわてた様子で頭を下げた。


「す、すみません……っ! 龍翔様を床に座らせたままにするだなんて……っ」


「なんだ、気にすることではない」


 あわてふためく明珠より先に立ち上がり手を差し伸べると、明珠がおずおずと手を重ねた。


 手のひらですっぽりくるめてしまいそうな、小さくあたたかな手。

 このぬくもりを傷つけるわけには、決してゆかぬ。


「……これからは、お前もわたしの供として、さまざまな催しにも付き従ってもらわねばならんだろうな……」


 低く呟くと、明珠が「えっ?」とすっとんきょうな声を上げた。

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