46 酔いそうに甘い蜜の香気が、同時に、ひどく苦い その1


「どうしたのだ!?」


 龍翔もあわてて椅子を引いて膝をつき、明珠の肩に手をかけたが、明珠は床に額をこすりつけたまま、顔を上げない。


 それどころか、龍翔がふれた肩が怯えるようにびくりと震える。


「周康さんが怪我したことも、玲泉様に娘であることがバレてしまったことも、本当に、なんとお詫びを申し上げたらよいか……っ! 謝って済むことではないと承知しておりますが、申し訳ございません……っ!」


 明珠の声が潤み、震えている。


 たまらず龍翔は明珠の両肩に手をかけると、無理やり引き起こした。

 愛らしい面輪が、ぽろぽろと流す涙でぬれているの見た途端、思わず明珠を抱き寄せる。


「お前が謝る必要はない! 守ると言っておきながら、約束を果たせなかったわたしが――」


 龍翔の言葉を遮るように、明珠が激しく首を横に振る。珠のような涙が散り、龍翔の衣に小さな染みを作る。

 いつもの明珠なら、「絹のお着物に染みが!」と大騒ぎするのに、今はそれにも気が回らぬらしい。


 嗚咽おえつをこらえようとぎゅっと唇を噛みしめる姿に、龍翔の心まで痛みを覚える。


「りゅ、しょう様のせいじゃ……っ わ、私がぼんやりしていたせいで……っ」


 ぬぐうことも忘れ、はらはらと大粒の涙をこぼしながら、明珠がとぎれとぎれに抗弁する。


「わ、私のせいで周康さんが怪我をしてっ、玲――、っ!」


 玲泉の名が出かけた瞬間、反射的に己の唇で明珠のそれをふさぐ。

 突然のくちづけに、明珠が目を見開いたかと思うと、すぐにぎゅっと固く目を閉じ、左手で龍玉を握りしめた。


 途端に強くなった蜜の香気が、くらりと龍翔を酩酊めいていさせる。


 今は、明珠がの口から玲泉の名など聞きたくない。

 乱暴なくちづけに、明珠が抗うようにかぶりを振って逃げようとするが、抱き寄せた腕を緩めない。


「んぅ……っ」


 羞恥と戸惑いに満ちた呼気さえ、すべて飲み干したくなる。


 が、これ以上は明珠に本気で嫌がられるかもしれないという怯懦きょうだが、かろうじて欲望を押し留めた。理性を総動員して唇を引きはがす。


「龍翔さ――」


 詰めていた息を吐き出した明珠が、狼狽えた声で龍翔の名を呼ぶ。それに答えず、龍翔は明珠の濡れた頬に唇を寄せた。


「ひゃっ!?」

 明珠が愛らしい声で小さく悲鳴を上げる。


 なめらかな頬が紅く染まったのか、見ずともわかった。明珠の肌から伝わってくる熱に、龍翔の唇まで融けるのではないかと思う。


「あ、あのっ、龍翔様……っ!?」

「うん?」


 遠慮がちに押し返してくる明珠の手に己の指先を絡め、儚い抵抗を封じる。


 涙だというのに、まるで甘露のようだ。

 もっとと、心が望むまま、なめらかな肌に唇をはわせてゆく。


「り、龍翔様っ! もう《気》なら十分ですよねっ!?」


 明珠が名を呼んでくれるだけで、心が弾むように嬉しい。《気》は十分だが、腕の中のあたたかさを放したくない。


 居心地悪そうに身じろぎする明珠を、ぎゅっと抱きしめる。


「お前に怪我がなくて、本当によかった……っ」


 もし明珠が賊に傷つけられていたら、龍翔は地の果てまでも追っていただろう。恐ろしい目に遭わせたというだけでも、どれほど詫びても足りないほどだ。


 明珠を守ってくれたという点に関しては、周康と――そして玲泉にも、感謝してもし足りない。


 心の底からの安堵とともに告げた龍翔の声に、逃げようと抵抗していた明珠の動きが止まる。


「怖い思いをさせて、本当にすまなかった」


 緊張に強張る背中を手のひらで優しく撫でると、ゆっくりと固さが抜けてゆく。頼るようにわずかに身を預けてくるさまが愛らしくて、思わず腕に力をこめてしまいそうになる。


 明珠が落ち着いたのを見計らってから。


「もう一度言っておくが、今回のことは、決してお前のせいではない。賊の襲撃は、誰も予想していなかったこと。悪いのは賊であって、お前にも、周康にも責任はない。わかるな?」


 諭すように告げると、明珠がこくりと頷いた。が、その表情はまだ晴れない。


「どうした? 何か気になることがあれば言うといい」


 できるだけ優しい声音でうながすと、明珠がおずおずと視線を上げた。震える声がためらいがちに紡がれる。


「で、ですが……。私のせいで、玲泉様に娘だということがばれてしまって……。怒ってらっしゃるんじゃ……?」


「怒ってなど!」


 反射的に荒くなった語気に、明珠がびくりと震える。あわてて龍翔は言を継いだ。


「違う。違うのだ……。決してお前に怒っているわけではない。それだけはわかってくれ。わたしが怒っているのは、お前を危険な目に遭わせた己の不甲斐なさと……。玲泉の言動にだ」


「龍翔様がご自分を責められる必要はございませんでしょう!? 賊の襲撃は誰にも予想できなかったと、龍翔様自身がおっしゃったじゃないですか!」


 明珠が龍翔を見上げ、必死に言い募る。


「それに、玲泉様のおっしゃったこと、は……」


 不意に言葉を途切れさせた明珠の頬が、ぽっと火が灯ったように赤くなる。羞恥に伏せられた瞳が戸惑いに揺れた。


 恥じらいに満ちた明珠の姿に、どうしようもなく心がきしむ。


「……玲泉の申し出を受けたくなったか?」

 無意識に問うた声は、自分のものとは思えぬほど、低くくらい。


「ふぇっ!? な――っ」


 明珠の返事を聞きたくなくて、もう一度くちづける。


 名家・蛟家こうけの嫡男の正妻に望まれるなど、どれほどの栄誉だろう。後宮の下位の妃よりも、贅沢ぜいたくな生活を送れるはずだ。


 それこそ、いま明珠が季白に負っている借金など、一息で吹き飛ぶほどの富が得られるだろう。


 賊に狙われる危険を冒してまで、龍翔に仕え続ける必要など、明珠には一つもない。


 ただ――龍翔が、明珠を手放せぬだけで。


 禁呪を解く見通しがつかぬ限り、龍翔は決して明珠を手放せない。明珠を失うということは、そのまま龍翔の失脚を意味する。


 《龍》の力を振るえぬと政敵に知られれば、即座に第二皇子の身分を剥奪はくだつされ、闇にまぎれて暗殺されることだろう。季白達を道連れにして。


 そんな事態に陥るわけには、決していかぬ。


 くちづけたまま、華奢きゃしゃな身を抱き寄せた腕に、すがるように力をこめる。


 酔いそうに甘い蜜の香気が、同時に、ひどく苦い。


 この腕の中の少女を誰かに奪われるくらいなら、いっそ――、

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