44 言葉が雷と化して己を撃つ その1
「ふざけるなっ!」
玲泉の言葉を理解するより早く、拒絶が飛び出す。
「明順は物ではないのだぞっ!? 犬猫でもあるまいし、欲しいと言われてやれるわけがなかろうっ!?」
思考が怒りで白く染まる。
明珠を抱き寄せた腕に力がこもる。
叶うなら、今すぐ玲泉を叩き出してやりたい。
大切な従者を物のようにくれと求める男の視線に、明珠が晒されているというだけで、
龍翔の苛烈な声に、玲泉があわてたように言を継ぐ。
「ち、違うのです! 決して明順を物のように扱う気などございません! そうではなく……っ」
「お兄様。玲泉様も。少し落ち着いてくださいませ。それとお兄様、いい加減、放してやらねば、明順がのぼせて倒れてしまいそうですわ」
落ち着いた声で割って入ったのは初華だ。
初華の指摘に、明珠に視線を落とせば、明珠が真っ赤な顔であうあう、と言葉にならぬ声を洩らしていた。
熟れたすもものような顔は驚くほど熱く、ゆらゆらとさまよう視線は、今にも目を回してひっくり返りそうだ。
「す、すまぬ。苦しかったか?」
ぱっと腕をほどくと、明珠がふらふらとよろめいた。
「明順っ!?」
驚いてふたたび抱き寄せようとすると、
「だ、大丈夫です! 平気です!」
両手を突き出した明珠が、ぶんぶんと首を横に振る。
あからさまな拒絶に、胸の奥がずきんと痛むが、自業自得だ。玲泉から引き離したい一心で、無意識のうちに強く抱きしめていたのだから。嫌がられても仕方がない。
「本当にすまぬ」
頭を下げて詫びると、玲泉が驚いたように目を見開いた。
当の本人は、真っ赤な顔のまま、もう一度かぶりを振る。元々乱れていたうなじのところで一つに束ねた髪が、さらに乱れて肩にかかる。
「り、龍翔様が謝られる必要などございませんっ! そ、それより、そのっ、私……っ」
しおれた花のように、明珠の肩が落ちる。当て布をしていても
柔らかな唇がわななき、愛らしい声が震えを帯びる。
深くうつむき、土下座しそうな明珠の手を、龍翔は優しく包んだ。龍翔の手のひらに包まれた細い指先がびくりと震える。
「大丈夫だ、明順。決してお前を傷つけさせたりはせぬ。――わたしを、信じてはくれぬか?」
すでに約束を破っておいて、どの口が言うのか。
自分で自分を罰したい気持ちに駆られながら、それでも明珠の憂いを晴らしたい一心で、龍翔は真摯に問う。
告げた途端、明珠の面輪がぱっ、と上がった。つぶらな瞳が真っ直ぐに龍翔を見上げる。
「龍翔様を信じぬなど! そんなこと、決してありえませんっ!」
一片の迷いもない断言に、清冽な風が心の中を吹き渡ってゆく心地がする。
純粋無垢な信頼が嬉しくて、愛らしくて――。この少女をあらゆる害悪から守らねばと、改めて決意する。
「では、わたしの隣へ」
そっと手を引き、龍翔の隣に座るよう導く。明珠を守るように、初華がさっと龍翔の逆側の隣に腰かけた。
「玲泉殿?」
ぼんやりとした表情で、こちらを見つめたままの玲泉に固い声を放つと、玲泉が我に返ったように、卓の向かいに一人、腰かけた。
「その……」
玲泉がぎこちなく口を開く。
「もう一度、明順の手を取らせてはいただけませんか? 先ほどは、賊から守ろうと必死だったものですから……。本当に、明順が、わたしがふれても何事も起こらぬ女人がどうか、いま一度、確かめたいのです」
玲泉の声もまなざしも、真剣極まりない。
今さら、明珠は娘ではないと言ったところで、玲泉は決して信じぬだろう。
玲泉にしてみれば、己の運命を変えるやもしれぬ存在なのだ。
――それは、龍翔にとっても同じことだが。
初めて明珠と出逢った時の感情が、胸に去来する。
禁呪によって、《龍》の力を封じられ、術も使えぬか弱い少年へと変じさせられ……。禁呪を解く手がかりすら見つからず、憤りと焦燥だけが日々募っていた龍翔の上に落ちてきた明珠は、天恵以外の何ものでもなかった。
突然、御神木から降ってきたたおやかな身体を抱きとめた時の驚愕は、今も言葉で言い表すことができない。
それほどの、衝撃だった。
明珠がもたらした奇跡をもう一度得たくて、どれほど苦心したことだろう。
焦がれるほどの渇望を知っているだけに、玲泉の要求を無下に退けるのは心が咎めた。それに、もしかしたら玲泉の勘違いという可能性もまだ、全くないわけではない。
「龍翔様……?」
玲泉の要望を受けてよいかどうか、困り顔でこちらを見上げる明珠に、小さく頷く。
「明順。手を出してやれ」
次いで、玲泉を鋭く見やる。
「よいか。手にふれるだけだ」
「承知しております」
緊張した面持ちで頷いた玲泉が、さほど大きくない卓の上におずおずと差し出した明珠の手に、指先を伸ばす。
まるで、未知の恐ろしいものにふれるかのように、指先でちょん、と明珠の手のひらにふれ。
「っ!」
息を飲んだ玲泉が、両手でぎゅっと明珠の手を握りしめた。
「ほ、本当に……っ!? 本当に、悪寒も嫌悪も、まったく感じないなんて……っ!?」
信じられないと言いたげに明珠の手を握ったり緩めたり、撫で回していた玲泉が、不意に明珠の手を持ち上げ、身を乗り出した。
「ひゃあっ!?」
玲泉に指先にくちづけられた明珠が、すっとんきょうな声を上げる。
次の瞬間、龍翔は荒々しく玲泉の手を振りほどいていた。
明珠が巣穴に引っ込むうさぎのように素早く、胸の前で両手を握りしめ、身を固くする。
「何をするっ!?」
声を荒げて玲泉を睨みつけたが、
「申し訳ございませぬ……。まさかわたしがふれることができる女人が本当に存在したとは……感動のあまり、つい」
口調だけはしおらしいものの、玲泉に悪びれた様子はない。
明珠が己がふれられる娘であるという確証を得たからなのか、口元に浮かぶのは、こんな時でなければ見惚れてしまうほど優雅な満ち足りた笑みだ。
龍翔は怒りに奥歯を噛みしめた。玲泉などに同情してしまった先ほどの自分を殴ってやりたい。
いや、今すぐ殴りたいのは、まるで宝物の箱を目の前にしたように楽しげに瞳を輝かせている玲泉だが。
龍翔の苛立ちがうつったかのように、窓の外では、厚く重い雲が立ち込め、ごろごろと雷が鳴り始めている。会見の時から、ずっと灰色の雲が空を覆っていたが、ついに降り出すのかもしれない。
(雨は厄介だな……。賊の
頭の片隅で苦く思う。
賊のことは無論、捨て置けないが、現在の最大の懸念事項は、明珠が娘であると知ってしまった玲泉だ。
玲泉を何とかしないことには、落ち着いて賊のことを考えられる冷静さえ、ない。
「先ほどは言葉が足りず、龍翔殿下を誤解させてしまい、申し訳ございませんでした」
龍翔の苛立ちに満ちた視線に物怖じする様子もなく、軽く頭を下げて詫びた玲泉が口を開く。
薄く笑みをたたえた面持ちはいつも通りと見えなくもないが、今は、いつも
「わたしは、生半可な気持ちで明順を欲しいと言ったのではございません」
ごろごろと、窓の外で雷鳴が大きくなる。
心を波立たせるような不穏な音。厚い黒雲の間を、いくつもの紫電が走っていくのが視界の端に見えた。
外の天気とは真逆に、晴れやかな表情の玲泉が、龍翔を真っ直ぐに見つめ、告げる。
「わたしは、明順を
「ひゃっ!」
玲泉の発言と同時に、雷鳴が轟く。轟音に明珠が小さく悲鳴を上げた。
雷が落ちた後の沈黙が、豪奢な室内を満たす。
龍翔は、玲泉の言葉が雷と化して己を撃ったのかと、半ば本気で疑った。
視界が白んでいるのは、雷光に目がくらんだのか、それとも、衝撃のせいか。
玲泉が明珠を――娶る?
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