43 おぬしの前で、肌を晒せと?


 明珠が玲泉の腕の中にいる姿を見た瞬間、龍翔の頭が白く染まる。

 賊を追うことも忘れ、明珠に駆け寄る。


「放せっ!」


 玲泉の腕の中にいる明珠を引き寄せると、拍子抜けするほどあっさりと、玲泉の腕がほどけた。

 逆に、勢いのまま抱き寄せた龍翔に抵抗したのは明珠だ。


「龍翔様っ! 周康さんがっ、周康さんが賊に剣で……っ!」


 腕の中のまろやかなあたたかさに、一瞬緩みかけた心を、明珠の言葉が凍りつかせる。明珠を抱く腕に、思わず力がこもる。


「怪我はっ!?」

「私は何ともありませんっ! それより、周康さんが……!」


 明珠が腕から逃れようと身をよじるが、放せるわけがない。


 龍翔が明珠の視線を追うと、床に周康が倒れ伏していた。斬られた左腕と、傷を押さえる右手が真っ赤に染まっている。息が荒く、顔色がひどく悪い。


「周康! 《癒蟲ゆちゅう》はぶなっ!」


 わななく唇で《癒蟲》を喚ぼうとする周康を鋭い声で制止する。


 周康の様子が尋常でない。龍翔の経験が、あれは毒に侵された時の症状だと告げている。

 だとしたら、傷を治すのは悪手だ。《癒蟲》では、傷は治せても毒を消すことはできない。逆に、体内に毒を閉じ込めてしまい、悪化させる可能性のほうが高い。


「龍翔様!」


 ようやく唯連いれんを引きはがした季白が駆け込んできたかと思うと、室内の惨状に目を見開く。


 床に散乱する菓子と割れた皿の破片。倒れ伏して呻く周康。抜身の剣を持って立ち尽くす玲泉……。


「季白! 周康が賊に斬られた! 刃に毒が塗られていた可能性が高い。すぐに手当てを! 総督はまだ下船しておらぬな? 状況を伝えて淡閲の警備兵に賊の捜索をさせよ。賊は黒ずくめの男だ! だが、決して大事おおごとにはするな!」


 初華の『花降り婚』に瑕疵かしを残すわけにはいかない。皇女が賊に襲われたなど、龍華国の威信に関わる。加えて、兄として、初華に新たな人生の門出をつつがなく迎えさせてやりたい。


「初華と張宇をここへ! 初華の警護はわたしがする。今は一人でも人手が必要であろう」


「かしこまりました!」

 首肯した季白が動くより早く。


「お兄様! 明順は無事でございますか!? いったい何が……!?」


 張宇と萄芭とうはを従えた初華が足早に入ってくる。


「これは……っ」

 初華が自室の状況に息を飲む。


 張宇に任せておけば安心だとわかってはいるものの、初華の姿に、龍翔は安堵を覚える。


 もしかしたら、船室の騒ぎは陽動で、本命は初華自身だった可能性もあるのだ。


 今の今まで、その可能性にいたらなかった己の軽挙妄動っぷりが情けなくなる。

 甲板で硝子が割れる音を聞いた時は、ただただ明珠のことしか考えられなかった。


 龍翔はひとつかぶりを振って意識を切り替える。悔やむのは後でいくらでもできる。今は、一刻も早く起こってしまった事態に対処しなければ。


「張宇! 一刻も早く周康の手当てを。刃に毒が塗られていた可能性が高い。萄芭、お前は侍女達を落ち着かせよ。船内に無用な混乱を広げるわけにはいかぬ。手が空いたら、張宇と季白を手伝ってやってくれ。初華……。おぬしはわたしが警護する。ひとまず、わたしの船室へ」


 いったん言葉を切り、龍翔は玲泉を見やった。

 季白達があわただしく動く中、一人、まるで魂が抜けたかのように立ち尽くす姿を。


 表情が抜け落ちた面輪からは、何を考えているのか、まったく読み取れない。


 心中の不安を押し隠し、龍翔は強いて腹の底から声を出す。


「玲泉殿。まずはわたしの従者を助けてくれたことに礼を言う。そなたもわたしの船室へ。問いただしたいこともあろうが、誰かれかまわず聞かせられる話ではない。まずは、わたしの船室へ行ってからだ。……それで、よいな?」


 否という返事は認めぬと言外に告げる。


「え、ええ……」


 玲泉がまだ半分しか意識が戻っていないようなぼんやりとした表情で龍翔を振り返る。抜身の剣をだらりと右手にぶら下げたまま。

 龍翔の腕の中で身を固くしていた明珠が、怯えるように身体を震わせた。


「玲泉殿。もう賊はおらぬ。ひとまず剣をおさめよ。明順が怯えている」


「あ……」


 いま初めて自分が剣を握ったままだと気づいたように、玲泉があわてた様子で剣を鞘にしまう。


 それを待ってから、明珠の身体に左腕を回したまま、龍翔はきびすを返した。玲泉が繰り糸に引かれた人形のように、おとなしくついてくる。最後尾を、初華が緊張した面持ちで従った。


「り、龍翔様……っ!?」

 肩に龍翔の手を回され、なかば強引に歩かされた明珠が、戸惑った声を上げる。


「お前は黙っておれ」


 明珠が何を言い出すのか、龍翔には予想もつかない。

 低い声で命じると、明珠が怯えたように口をつぐんだ。


 強張った面輪に、つきりと胸が痛む。だが、今ここで明珠に不用意な発言をされるわけにはいかない。


 無人の廊下を足早に進み、己の船室へ戻る。

 最後尾を歩いていた初華が部屋へ入り、ぱたりと扉を閉めた瞬間。


「殿下っ! 明順は――っ!」


 夢から覚めたように、突如、明珠へ伸ばされた玲泉の手を、龍翔は冷ややかに振り払った。


「許可なくわたしの従者にふれるのはやめてもらおう」


 明珠の背に回した腕に、反射的に力がこもる。

 玲泉が何を問いたいのか十二分に知りつつ、龍翔は否定の問いを紡いだ。


「混乱の最中さなかのことだ。玲泉殿は、何か勘違いしているのではないか?」


 底冷えのする声で告げる。


 玲泉が誤解だと思い込んでくれれば、それに越したことはない。

 ……これで引き下がるとは、思えないが。


 案の定、玲泉は柳眉を逆立てた。


「わたしを馬鹿にしておられるのですか!? いかにわたしとてわかります! この腕に抱いたたおやかさ! あれはまさしく女人の――!」


 玲泉の言葉に、初華が鋭く息を飲む。

 遅れてやってきた初華は、玲泉が明珠を抱き寄せていた姿を見ていない。


 その光景を思い出すだけで、頭の芯がくらくらするような怒りを覚えながら、龍翔はあえて淡々と問いを紡ぐ。


「貴殿は書庫でも明珠にふれたことがあるのだろう? その時に気づかなかったということは、やはり、何か勘違いしているのではないか? そもそも、玲泉殿がふれて平気な女人がいるわけがなかろう」


 真っ直ぐに玲泉の目を見据え、断言する。


 己の腕の中に抱き寄せた華奢きゃしゃな身体。布を巻いてごまかしていても、着物の上からでもわかるまろやかな身体つき。

 たとえ、玲泉が女人を知らぬといえど、抱き寄せればさすがにわかっただろう。

 だが、龍翔としては決して認めるわけにはゆかぬ。


 なぜかは知らぬが――よりによって、明珠が、玲泉がふれても何も起こらぬ唯一の娘だなどと。


「確かに、わたし自身、信じられません……」


 玲泉が視線を落とし、己の左手を見つめる。


「ですが、あれが間違いだったとは思えませぬ! 明順がまことに少年だとおっしゃるのでしたら、今ここで確かめさせてくださいませ!」


 きっ、と面輪を上げた玲泉が、決して引かぬという決意を見せて要求する。


 龍翔の腕の中で、明珠が怯えたように身を震わせた。

 不安に満ちた瞳が主を見上げるのを感じながら、龍翔は玲泉から視線を外さぬまま、問いかける。


「明順に、おぬしの前で肌をさらせと?」


 問う声は、自分でも驚くほどに低く、固い。


「何も、すべて脱げなどとは言いませぬ。胸元をくつろげるだけでよいのです。娘ではなく少年というのなら、かまわぬでしょう? それとも、やはりできぬと?」


 玲泉も真っ直ぐに龍翔を見つめ返して言い募る。


「明順がまことに少年であったなら、いくでも詫びましょう。明順が望むだけのものを、償いとして差し出します。明順がまことに少年が否か――。確かめるまで、わたしはここを一歩も動きませぬ」


 きっぱりと言い切った玲泉は、言葉通り、何が何でも明珠の正体を確かめるまで、諦める気はないらしい。


 抱き寄せた左腕に伝わる震えに視線を落とすと、明珠が途方に暮れた顔で龍翔を見上げていた。血の気の引いた顔は今にも泣き出しそうで、愛らしい唇が恐怖にわなないている。


 明珠のことだ。自分のせいで正体が玲泉にばれてしまったと、己を責めているのだろう。


 たまらず龍翔は右手で明珠の頬を包んだ。

 頼むから、そんな顔をしないでほしい。明珠を守ると言っておきながら、約束を守れなかったのは龍翔のほうなのだから。


 どれだけ明珠に責められても、仕方がないというのに……。明珠はいつも、他人ではなく己を責める。


 愛らしい面輪に浮かぶ憂いを少しでも払ってやりたくて、安心させるように明珠に微笑みかけてから、玲泉に視線を戻す。


「ひとつ、問う」


 龍翔の張り詰めた声音に、何かを感じ取ったのか、玲泉がぴしりと背筋を伸ばす。


「もし、明順が娘だとしたら――。玲泉、おぬしはどうする気なのだ?」

 問うた瞬間、玲泉が弾かれたように告げる。


「明順をわたしにくださいませ!」

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