41 お嬢様さえお望みになられたら、いくらでも。 その1


 龍翔や初華、玲泉のための貴人用の船室は、船の中でも壁材や床材まで高級品で統一された一画に配置されている。

 一番立派な初華の船室をはさんで、両側を龍翔と玲泉が使っている形だ。


 もう少しで初華の船室へ着くというところで、玲泉の少年従者の一人とすれ違う。

 龍翔の姿を見とめた少年従者は、さっと床に両膝をつくと、拱手きょうしゅの礼をとった。


 一瞥いちべつしただけで少年従者の前を通り過ぎようとした龍翔が、ふと足を止める。


「おぬしは玲泉殿の従者だな? 名は、なんという?」


 初華の従者は侍女ばかりなので、季白達を除いた男性は、船員か、玲泉の従者のどちらかということになる。確か、一昨日のお茶会の時に、玲泉の後ろに控えていた少年従者の一人だ。


 龍翔の問いに、少年従者はかしこまった様子で答える。


唯連いれんと申します、殿下」


 唯連と名乗った少年は、年の頃は十六、七歳くらいで、明珠と同じ年くらいだろう。今はうつむいていてよく見えないが、先ほどちらりと見えた面輪は、乙女と見まごうほど、繊細で愛らしかった。

 明珠が女物の衣を着ていたとしても、唯連と並んで立てば、十人が十人、唯連の方が女らしいと答えるに違いない。


「おぬしも、総督との会見に?」


「おっしゃる通りでございます」

 龍翔の問いかけに、唯連がこうべを垂れたまま首肯する。


 唯連は諸所に刺繍がほどこされた華やかな衣をまとっている。まるで、従者ではなく、名家の子弟のようだ。


 いや、明珠がよく知らぬだけで、玲泉のような高位の者の側仕えをしているのなら、おそらく唯連も貴族の一員なのだろう。安理は知らないが、季白や張宇は貴族だと聞いた記憶がある。


 安理のように龍翔の影武者を務められるほどの特殊な技術があるわけでなく、周康のように宮廷術師である遼淵りょうえんの高弟として有名でもない。


 一介の庶民に過ぎない明珠が龍翔に仕えているということ自体、本来ならばありえないことなのだ。


 唯連の返答に、龍翔はゆったりと頷く。 


「そうか。では、後ほど甲板でな。――玲泉殿にも、伝えてくれ」

 ほんのわずかに、龍翔の声が低くなる。


「か、かしこまりました」

 龍翔の威に打たれたように、唯連が身を強張らせる。


 だが、龍翔は唯連の様子など気に留めた様子もなく、前に向き直ると歩き出した。明珠もあわてて後を追う。明珠の後ろを歩く周康も無言だ。


 なんとなく気詰まりな沈黙は、しかし、初華の船室に入った途端、霧散した。


「明順! 待っておりましたのよ!」


 入室した途端、初華の華やいだ声が明珠達を出迎える。

 龍翔の端麗な姿を見た侍女達が、思わずといった様子で感嘆の吐息をもらし、あわてた様子でうやうやしく龍翔にこうべを垂れる。


 侍女達が龍翔に見惚みほれてしまう気持ちはよくわかる。龍翔と初華が並ぶ様は、まばゆすぎて直視できないほどだ。


「さあ、どうぞ。奥へいらして」

 初華が自ら前に立って、奥の部屋へ龍翔達を導く。


 うきうきと楽しそうな初華も、龍翔と同じくきらびやかな衣装だ。軽やかな足取りで歩くさまは、まるで、天上から仙女が舞い降りてきたかのようだ。


 龍翔の船室よりも大きな硝子ガラス窓の向こうに見えるのは陰鬱いんうつ曇天どんてんだが、龍翔と初華が並ぶ姿を見ると、まるで、この部屋の中にだけ、陽光が燦々さんさんと差し込んでいるような錯覚に襲われる。


 ちらりと周康をうかがうと、周康も明珠と同じく、まばゆげに目を細めていた。


「明順。あなたの好きそうなお菓子をたっぷりと用意したの。おいしいお茶と、暇になった時のために、物語の巻物も。侍女達には、この部屋には入らぬよう、そして誰も立ち入らせぬように言ってあるから、安心してここでお兄様を待っていてちょうだいね」


 初華の言葉通り、明珠達三人だけが招き入れられた部屋の中央には大きな卓が置かれ、上にはさまざまな菓子が載った大きな皿と茶器、そして巻物の小山が置かれていた。


 菓子の量は、甘いもの好きの張宇ならぺろりとたいらげられるだろうが、明珠と周康の二人では、絶対に食べきれない多さだ。巻物だって、美しい装丁のものが何本も置かれている。


 初華がふふふ、と口元をほころばせた。

「巻物は侍女達おすすめの恋物語ばかりにしたのよ」


「ええっ、そこまでお気遣いいただいてありがとうございます! 巻物でしたら、自分で持ってきていますのに……!」


 明珠は胸に抱えていた太い巻物を初華に見せる。初華が愛らしく小首をかしげた。


「あら。その巻物はなあに?」


「季白さん特製、官吏見習い用の教本です! すごいんですよ! いろいろな事柄がくわしく書かれていて……! その分、覚えるのも一苦労なんですけれど、すっごく勉強になるんです!」


 勢い込んで言うと、なぜか初華が微妙な表情になって吐息した。頭痛がすると言わんばかりに、白魚のような指で額を押さえる。


「まったく、季白ったら……。お兄様のうとさも、確実に原因の一つは季白ね」


「? どうかなさったんですか?」


「……今は時間がないので後にしましょう。明順。季白の巻物は読まなくてよいわ。わたくしから季白に言ってあげます。その代わり、こちらの巻物をお読みなさい。侍女達おすすめの逸品ばかりだから! 読めなければ、貸し出してあげるから、船室へ持って帰りなさいな」


「は、はい。ありがとうございます……」


 初華の勢いに飲まれて、明珠はこくこく頷く。

 こんなにおすすめしてくれるなんて、きっとよほど面白いに違いない。


「明順。戻ってきたら、わたくしとも、たくさんおしゃべりしましょうね! ぜひ巻物の感想も聞かせてほしいわ」


 初華がにこやかに告げる。ぽふぽふと頭を撫でたのは龍翔だ。


「総督との会見が終わり次第、すぐ戻る。よいか? 決して部屋から出るのではないぞ? 周康の言うことをよく聞いて、大人しく待っていてくれ」


 まるで、幼子おさなごを留守番に置いていく親のようだと思いつつ、

「はいっ、もちろんです」

 と大きく頷く。元より、龍翔に心配をかける気はない。


「では、行ってくる」


 と、きらびやかな龍翔と初華が出ていくと、途端に船室から光が消えたようになる。実際には、卓の上には燭台が一つ置かれているため、十分な明るさがあるのだが。

 龍翔と初華の存在がまぶしすぎるのと、窓の外が曇っているせいだろう。


「ひとまず、座りましょうか?」


 龍翔が出て行き、ぴったりと閉じられた扉を見るともなしに眺めていると、周康に声をかけられた。


「そうですね。あ、周康さん。お茶を飲まれますか? お入れしますよ」

「いえ、お嬢様に入れていただくなど……」


 恐縮する周康に、これも従者の修練の一つだからと説明する。連日の鬼指導を受けて、最近、季白相手でも、少しは落ち着いてお茶を出せるようになってきた。


「お嬢様がそこまでおっしゃるのでしたら、お願いいたします」

「はいっ、お任せください! お菓子は……」


 卓の上には、菓子をとる用の小皿も用意されている。明珠の問いに、周康は苦笑してかぶりを振った。


「ありがとうございます。ですが、さほど腹も空いていないので、わたくしは結構です。お嬢様はわたくしに遠慮なさらず、ぜひどうぞ」


「そう言ってくださるのなら……」


 こんなにおいしそうなお菓子が目の前にたくさん並んでいるのに食べられないなんて、ある意味、拷問に近い。


 明珠は二人分のお茶を入れると、さっそく小皿に菓子をとった。もちっとした薄皮に白餡しろあんが包まれた菓子を、楊枝ようじで口に運び。


「ふあぁ~っ、おいしいです~っ」

 思わず歓声を上げると、周康に苦笑された。


「す、すみませんっ」


 恥ずかしくなって、手遅れと知りつつ口を押さえると周康がゆるりとかぶりを振った。


「失礼いたしました。天真爛漫てんしんらんまんなお嬢様があまりにお可愛らしくて……。そして、やはり麗珠れいじゅ様によく似ていらっしゃるなと……」


「母さんにですか?」


 もぐもぐと菓子を食べ下し、明珠は驚きに声を上げた。周康がゆったりと頷く。


「ええ。お菓子を食べられている時の麗珠様は、ふだんの気品と落ち着きのある様子とはうって変わって、童女のように愛らしくていらっしゃいましたよ。ちょうど、今のお嬢様のように」


 懐かしむような柔らかな笑顔で告げられ、明珠は不意に思い出す。


 そうだ。母が生きていた頃は、明珠の家でもよくお菓子が出てきていた。

 母の喜ぶ顔見たさにだろう。義父の寒節かんせつも、よくお菓子を買って帰ってきて……。


 幼い明珠は、いつも母の隣に座って、寄り添いながらお菓子を食べたものだ。


 母の死とともに義父が手放してしまった、よく手入れのされた居心地の良い家で。


 麗珠の死後、寒節は麗珠の思い出が色濃く残る家には居られないとばかりに、今の長屋へと引っ越してしまった。


 それから先は……。

 最愛の妻の死が衝撃過ぎて働かなくなった寒節は酒におぼれ、明珠は幼い順雪を飢えさせぬよう、日々を過ごすのにせいいっぱいで……。母が生きていた頃の思い出は、どんどん記憶の底へと封じられてしまった。


 もう二度と手に入らない幸せな日々を思い出せば、つらくなるばかりだったから。


 胸の痛みを奥に追いやるように、もうひと口、菓子を口に入れる。


 あんの甘みがひび割れた心を癒してくれるような気がして、明珠はほう、と吐息した。やっぱり、お菓子はすごい。


 もぐもぐと舌鼓したづつみを打っていると、周康が柔らかに微笑んだ。


「お嬢様も、本当にお菓子がお好きなのですね」

「そ、その……。滅多に食べられないものですし……」


 がっつきすぎて、はしたないと思われただろうか。不安になりながら答えると、こちらをじっと見つめる周康の視線にぶつかった。


「菓子など……。お嬢様さえお望みになられたら、どんな珍しい異国の菓子も、王城御用達の職人が作った高価な菓子も、思う存分、食べられますよ?」

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