40 少し離れるだけでも心配でたまりません!? その2
明珠の問いに、周康が小さく頷く。
「おかげさまで、かなりましになってきております。昨日からは吐いておりませんし、昼には
周康が整った面輪に薄く笑みを浮かべるが……。どう見ても、元気があるようには見えない。
ご飯もろくに食べられないほど船酔いがひどいとは、なんて気の毒なのだろうと同情してしまう。
幸い、これまで大病にかかったこともなく、船酔いも平気だった明珠には、ご飯を食べたくなくなるなんて経験は、片手で数えるほどしかしたことがない。
お金がない中、順雪におなかいっぱい食べさせるために、自分の分を我慢した経験なら、何度もあるけれども。
おいしいご飯が用意されているのに、不調のせいで食べられないなんて、自分がそんな状況になったら、悔しさと申し訳なさで居ても立っても居られなくなるだろう。
「周康さん! 私、ちゃんと大人しくしていますから、無理はしないでくださいね! つらくなったらすぐに言ってください! そ、その……。私じゃお役に立てないでしょうけれど、人を呼んでくるくらいはできますから!」
ぐっ、と両手を握りしめて告げると、周康が口元をほころばせた。
「お嬢様、お気遣いいただきありがとうございます。やはり、お嬢様はお優しくていらっしゃる。……ですが、大丈夫ですよ。先ほども申し上げた通り、だいぶ船にも慣れてまいりましたから」
「ほんとに無理はしないでくださいね?」
じっと、うっすらとこけた顔を見上げると、周康が苦笑した。ふだんあまり見せることのない柔らかな笑顔に、珍しいなと感じる。
「では……。よろしければ、待っている間、話し相手になっていただけますか? 気がまぎれれば、酔いも感じにくいでしょうから」
「はいっ! こちらこそ、その……。よければ、周康さんが知ってらっしゃるお母さんの話を聞かせてください!」
前に一度、周康から母・麗珠が甘いもの好きで、幼い周康を可愛がっていたという話を聞いたが、途中で龍翔が帰ってきたため、それきりになっていたのだ。
「お嬢様がお望みでしたら、喜んで」
周康が甘く微笑む。
明珠が何度「私はお嬢様ではありません!」と言っても聞き入れてくれないため、もはや諦めているが、やはり、「お嬢様」なんて呼ばれると自分のことだとは思えなくて、むずむずと居心地が悪くなる。
「では、初華の船室まではわたしが送ろう。周康、隣室でしばし待て」
龍翔が告げる。目を険しくして反論したのは季白だ。
「龍翔様がそこまでされる必要はございません。明順を周康殿を連れて行くのでしたら、わたくしが……」
「お前は、張宇と積み荷の点検もせねばならぬのだろう? それに、廊下で玲泉に会ってはかなわん。明順達はわたしが送っていくゆえ、隣室で待て」
「……かしこまりました」
きっぱりと告げた龍翔に、季白が
「じゃ、オレは一足先に出かけさせてもらうっス♪」
「ああ、頼んだぞ」
何やら淡閲の街で別の用事があるという安理が、一人だけ廊下へ出ていく。
季白達も内扉から隣室へ移動し始め。
一瞬、明珠は自部の隣室へ行った方がいいのかと逡巡する。
なんだか、今日の龍翔は、あまり機嫌がよくない気がする。加えて、盛装に身を包んだ龍翔はきらびやかすぎて、二人きりでいるとどうにかなってしまいそうだ。粗相をして衣を汚してしまったりしたら、減給どころでは済まないだろう。
季白達についていくべきか、留まるべきかまごついていると、
「明順? どこへ行く気だ?」
と、龍翔に腕を引かれた。
「ひゃっ」
思いがけない強さに、たたらを踏む。よろめいた身体を、龍翔に抱きしめられた。ふわりと高貴な香の薫りが鼻をくすぐる。
「り、龍翔様!?」
あわてて身を離そうとするが、龍翔の腕は緩まない。
「……《気》を」
龍翔の耳に心地よい低い声が、すぐそばで聞こえる。
「念のために、もう少し《気》をもらっておいてもよいか?」
「えっ!?」
驚いて顔を上げると、こちらをじっと見つめる黒曜石の瞳と視線が合った。
今朝も、いつものように夜まで龍翔が青年でいられるだけの《気》のやりとりをしている。
だというのに、《気》が必要ということは。
「な、何か危ないことがおありなのですか!?」
高価な絹の衣だということも忘れ、両手でぎゅっと龍翔の衣を掴む。
震えながら、尊敬する主を見上げると、虚を突かれたように
「違う。そうではない。初華や総督も
「そう、なんですか……。よかったぁ……」
視線を落とし、心の底から安堵の息をつくと、龍翔の手が頬にふれた。指先が優しく肌をすべり、顔を上にあげさせられる。
「すまぬ。いらぬ心配をさせたな。……許してくれ」
「そんなっ! 龍翔様が謝られる必要など、ございません! 私が勝手に……」
言い切らぬうちに秀麗な面輪が下りてきて、明珠はあわてて目をつむり、胸元の守り袋を握りしめる。
唇にふれる、柔らかな熱。
明珠の輪郭を確かめようとするように、頬を指先が辿り、くすぐったさに変な声が
かぶりを振って逃げようとすると、逃さぬとばかりにさらに深くくちづけられ、たまらず声が洩れた。
「ん、ぅ……」
恥ずかしさに、頬か燃えるように熱くなる。頭がくらくらしてきたところで、ようやく唇が離れた。
「駄目だな、わたしは……。お前のこととなると、すぐに狭量になってしまう……」
低く、苦い呟きは、ぼうっとした頭にろくに入ってこない。心臓が高鳴り過ぎて、耳元でばくばくと騒いでいるかのようだ。
「龍翔、様……?」
ぼうっと秀麗な面輪を見上げると、ぽふぽふと頭を撫でられた。
「ほんの数刻、お前と離れるというだけで、心配性すぎるな、わたしは」
苦笑交じりの声は、いつも通りの優しい響きで、明珠はほっと安堵する。
「心配ばかりおかけして、申し訳ありません……」
謝ると、苦笑とともに、もう一度頭を撫でられた。
「お前が謝ることはない。何があろうと――お前は、わたしが守る」
決意を秘めた声できっぱりと告げられ、明珠は素直に頷く。
龍翔の言葉を疑ったことなど、一度としてない。
「では、初華の船室へ送ってゆこう」
「は、はい。ありがとうございます」
もう頬の赤みは引いているだろうか。心配になりつつ、明珠はぺこりと頭を下げた。
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