35 甘い菓子をかじりたいのは誰ですか?
「では、お兄様。失礼いたしますわ。明順、また明日ね」
扉の前で龍翔に一礼し、初華は船室の外へ出た。供としてついてくるのは安理だ。
明珠が初華の話し相手を務めるようになってからはや三日。
初華が己の船室に帰る時の供は、常に安理が務めている。
「うふふ。今日の明順も可愛らしかったわ。弟の話をしている時なんて、きらきらと目を輝かせて……」
先ほどまでおしゃべりしていた明珠の様子を思い返すと、思わず口元がほころんでしまう。
「いや~っ、初華姫サマって、ほんっと可愛いものがお好きっスよね~♪」
半歩後ろの安理が、苦笑交じりの声を上げる。
初華は拳を握りしめて、力強く頷いた。
「もちろんですわ! 可愛いものは見ているだけで癒されますもの! できることなら、いつでも抱きしめていたいくらいですわ!」
「いやー、それは……。お二人ともに刺激が強いみたいなんで、遠慮してあげてほしいな~、なぁんて♪」
安理が吹き出しながら答える。
明珠とおしゃべりできるようになった最初の日。あわあわと緊張しながら、それでも一生懸命、初華の相手を務めようと頑張る明珠が愛らしすぎて、初華は思わず抱きついてしまった。その途端。
「ふふふっ、あの明順も可愛かったわねえ……。顔を真っ赤にして、あわてふためいて……」
「はははは初華姫様っ!?」と可愛い悲鳴を上げて、驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになっていた明珠の様子を思い返し、くすくすと喉を震わせる。
よろめいた明珠は、もちろん隣にいた龍翔が抱きとめ――結果的に、初華と龍翔にはさまれる形になった明珠は、夕焼け雲よりも紅く、頬を染めていた。
明珠のすれていない反応は初々しくて、いくら見ていても飽きない。ついついからかいたくなってしまう。
玲泉が明珠に興味を抱くのも納得だ。
――兄のために、何より明珠の身の安全のために、玲泉を明珠に近づける気はさらさらないが。
玲泉が女人とどうこうなる事態は、万が一にもありえないとわかっていても、だ。
(ふれられぬ明順に直接的な手出しはなさらないでしょうけれども、お兄様で遊ぶために、明順を利用する可能性は大いにありますものね……)
初華は小さく嘆息する。
常に冷静で、非の打ちどころのない皇子であろうとする兄が、明珠といる時だけは、同一人物とは思えぬほど、甘やかな雰囲気をかもし出す。
しかも、本人は無自覚だというのだから、初華にとっては頭が痛い。
龍翔をよく知る初華だからこそ、龍翔が明珠に向ける甘やかなまなざしや声音、いたわりに満ちた態度にいち早く気づけたが……。
今のままでは、他の者達が気づくのも時間の問題だろう。
「安理。玲泉様は大人しくしてらっしゃっるの?」
初華は兄の隠密をちらりと見やって問いかける。
「龍翔サマをお茶会に誘っては、すげなく断られるのを「大人しく」って表現するなら、今のところは大人しくしてらっしゃるっスよ?」
すこぶる軽い性格のくせに、能力だけは一流の隠密は、人の悪い笑顔で「きしし」と笑う。
「初華様のご助言通り、明順チャンを船室に閉じ込めてるっスからね。さしもの玲泉サマも動きようがないっスから。まあ、いつまで大人しくしてらっしゃるかはわかりませんケド♪」
「明順は部屋に閉じ込められて沈んではいない?」
先ほどまで愛らしい笑顔で話してくれていた明珠が心配になって尋ねる。
初華がいるときは、笑顔でいるが、もし初華が帰った後、部屋で浮かぬ顔をしていたら、申し訳なさで胸が痛くなってしまう。
初華の心配を安理はあっさりと笑い飛ばす。
「甘いっスよ、初華姫サマ♪ 明順チャンがそんなことで哀しむハズがないじゃないっスか♪」
わけがわからぬ初華に、安理は楽しげに言を継ぐ。
「船旅は生まれて初めてだって言って、窓から景色を見てるだけでもすんごい嬉しそうにしてるっスよ♪ あの子、今までの暮らしが質素だったっスからね。どんな些細な
「ふわぁ~っ」と歓声を上げる明珠の姿がたやすく想像でき過ぎて、初華は思わず笑みをこぼす。
きっと、初華がお菓子を差し入れした時のような笑顔を見せるのだろう。
「それに、ここぞとばかりに季白サンに礼儀作法だの、所作だのしごかれてるっスからね~。龍翔サマまで、やたらと上機嫌でつき合っては、季白サンをたしなめて「龍翔様は明順に甘すぎます!」ってお小言を食らってますし……。明順チャンに関しては、一つも心配いらないっスよ? むしろ、初華姫サマの次くらいにこの船旅を楽しんでるんじゃないっスかね? あ、ちなみに、オレの見立てでは、三番目は龍翔サマっスけど♪」
「安理、お兄様は変わらず……」
低い声で問うた初華に、安理はこくりと頷く。
「もちろんっスよ? 相変わらず明順チャンを無自覚に甘やかしまくってるっス♪」
きしし、と安理が人の悪い笑みを口元の刻む。
「いや~っ、いつ気づかれるコトやら♪ あの調子じゃよっぽどのコトが起こらない限り、気づかないんじゃないっスかね~。……その点じゃ、ある意味、玲泉サマには期待してるんスけどね?」
思わずきつい視線で安理を
「おー、コワイコワイ♪」
まったく
龍翔が己の抱く感情に気づいた方がよいのか否か。
初華には、とっさに答えが出ない。
そもそも、気づいてどうなるというのだろう。
龍翔は龍華国の第二皇子で、明珠は何の後ろ盾も持たぬ庶民にすぎない。身分差があり過ぎる。
龍翔さえ望めば、愛妾として、それなりの地位を明珠に与えることはできるだろうが……。政敵達が、龍翔の弱点となりうる存在を、そのままにしておくわけがない。
「玲泉サマ自身も気になるんスけど、玲泉サマの従者達も気になるんスよね~」
安理の声に、初華は思考の海から引き戻される。
「どういう意味ですの?」
短く問うと、安理が肩をすくめた。
「ほら。玲泉サマの少年従者達って、『遊び相手』でもあるじゃないっスか。『花降り婚』の
安理が初華の顔色をうかがうように覗き込んでくる。
眉間をしかめそうになっていた初華は、一つ吐息して表情を緩めた。
「つまり、玲泉様の従者達が、明順に嫉妬しているというのね?」
宮中では、ごくごくありふれたことだ。あまりに頻繁すぎて、もはや日常といっても差し支えない。
何の後ろ盾も持たぬ者が、貴人の
王宮では、常にどろどろと
だからこそ、そんな昏さを
明珠がいつまで清廉さを保てるかはわからない。白い絹であればあるほど、たやすく汚れてしまうように、そのうち、宮中の毒気に染まってしまうかもしれない。
たとえ、奇跡的に染まらなかったとしても、このまま龍翔のそばに仕え続けるのなら、やっかみに対応せねばならぬ日が嫌でも来るだろう。
だが、だからといって、玲泉の少年従者達をこのまま放っておいてよいとは思わない。
「……明順を部屋に閉じ込め続けていては、可哀想ね。せっかくの船旅だというのに、外で景色の一つも楽しめないなんて」
ぽつり、と呟くと安理が楽しげに喉を鳴らした。
「初華姫サマ、何を考えてらっしゃらるんスか~?」
こちらをうかがう顔には、人の悪い笑みが浮かんでいる。初華は
「あら。菓子をかじりたがる
「ああ、周康サンをあっさり撃退したやつっスね♪」
「周康殿を撃退って……。何をしたの? 安理」
「えっ、したのはオレじゃなくて龍翔サマっスよ~♪」
にへら、と笑った安理がごまかす。
「でも「鼠」はともかく、「
安理の忠告に初華は苦い声で頷く。
「それはわたくしも期待していません。けれど、遊び人の玲泉様は、面倒ごとを嫌って相手がいる者にはあまり手を出されないでしょう?」
「あー。それはまあ、確かにそーっスねぇ……。まあ、そもそも、相手から寄ってくるばかりで、玲泉サマからちょっかいをかけに行くこと自体が少ないっスから、一種の賭けっスけど……」
「余計に興味を
どちらかといえば、その可能性の方が大きい気がする。
『花降り婚』の勅命を
「……やっぱり、危険すぎるかしら……」
「いやいや、それは早計っスよ!」
初華の呟きに、安理がやけに力強く抗弁する。
「初華姫サマの侍女達をずらりと並べておけば、この上ない玲泉サマ
「安理……。あなた、自分が楽しむ気、満々でしょう?」
思わず半眼で睨みつけると、玲泉とは別の意味で、遊ぶことに余念のない隠密は、
「イエイエ。これでも、龍翔サマと明順チャンのことをマジメに考えてるんスよ~?」
と、まったく信用のできない笑顔でのたまった。
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