34 これで、わたしもお前の頬を染められたな
「……どうした? 何か心配事でもあるのか? 今日はやけにそわそわしているように見えるが……」
「ふえっ!?」
夕食後。湯浴みも済ませ、後は夜着に着替えれば就寝できるという時に龍翔に声をかけられ、明珠はすっとんきょうな声を出した。
ちなみに船内には、小ぶりながら貴人用の浴室まであるらしい。船というよりは動く高級宿だ。
もちろん、明珠自身はいつものように張宇が運んできてくれたたらいの湯だが。明珠にとっては、船旅だというのに、従者である明珠でも湯が使えるということが驚きだ。
今まで船旅をした経験がないので比較対象がないが、今回の船旅が破格のものであることだけは、わかる。
季白に教えてもらったところよると、この船は、本来は皇帝の
「どこか具合でも悪いのか?」
卓の向かいに座っていた龍翔が、読んでいた巻物を脇に押しやり、身を乗り出す。
季白特製の教本を読んでいた明珠は、ぶんぶんと首を横に振った。
「大丈夫ですっ、具合はどこも悪くありません! ただ、ちょっとその……。我ながら、なんて軽はずみなことを言ってしまったんだろうって、今さらながら情けなくなってしまって……」
話すうちに、どんどん声が弱くなる。
「いったい、どうしたのだ?」
龍翔の形良い眉が、心配そうにぎゅっと寄る。明珠はあわてて言を継いだ。
「い、いえっ。明日、初華姫様がいらっしゃるんだと思うと、どんどん緊張が高まってしまって……っ」
初華のまばゆさに目がくらんでしまって、思わず承知してしまったが、時間が経てば経つほど、なんてことを安請け合いしてしまったのだろうと、緊張で冷や汗が吹き出してくる。
明珠は不安を隠せないまま龍翔を見上げた。
「私なんかで、初華姫様の話し相手が務まるのでしょうか……? 常識外れや
明珠の訴えを聞いた龍翔が、ふ、と表情をやわらげるとあっさりと言い放つ。
「ならば、季白は席を外させておけばよい。季白がいると、何かと口うるさいからな。おそらく初華も、張宇はともかく季白は同席させぬと思うぞ?」
「あっ、張宇さんもいてくださるんですね! それなら少しは安心できます、けど……。そもそも、初華姫様は私などと話されても、まったく楽しくないのでは……?」
初華と明珠では住む世界が違い過ぎる。皇女と貧乏人に共通の話題があるとは思えない。
話題にできそうなお互いに知っている者といえば、龍翔や張宇達くらいだが……。
「あ、あのぅ……」
明珠はおずおずと龍翔を見上げる。
「そ、その……。明日は、龍翔様も一緒にいてくださるんですか……?」
一緒にいてくれたら嬉しい。これほど心強いこともないだろう。
だが、初華姫に粗相をしそうで心配ですから、一緒にいてくださいだなんてわがままは、口が裂けても言えない。
問われた瞬間、龍翔が押し黙り、明珠はあわてた。
「あっ、その、ちょっと聞いてみただけなんです! 張宇さんがいてくださったら、きっと、たぶん、えっと……。何とかなると思います!」
無言で龍翔が立ち上がる。
卓を回り込んだ龍翔が、明珠の隣の椅子を引いて腰かけた。何事だろうかと緊張していると。
「……お前に一緒にいてほしいと言われて、わたしが断るわけがなかろう?」
耳に心地よく響く声で告げた龍翔が、明珠の右手を取る。
「船旅の間くらいは、お前と二人でのんびり過ごせるかと思ったのだがな……」
小さく吐息した龍翔が、明珠を安心させるように優しい笑みを浮かべる。
「明日は、いや明日に限らず、初華が来る時は、常にわたしも同席するつもりだぞ? お前もそのほうがよいだろう?」
「は、はい! ありがとうございます! でも、すみません。龍翔様にわがままを申してしまって……っ!」
「わがまま?」
龍翔が目を
「もしかして顔に出ちゃってましたか!? 龍翔様が一緒にいてくださったら嬉しいなぁって……。でもあの、お忙しい龍翔様のお邪魔をする気は――、ひゃあぁっ!」
突然、持ち上げられた右手の甲にくちづけられ、驚きにあられもない声が出る。
「こんなものは、わがままのうちに入らぬ。というか、わたしに遠慮は不要だ。初華のことで困ったことがあったら、何でもわたしに言えばよい。そもそも、明日のこととて、初華のわがままなのだから。というか……」
唇を離した龍翔が、とろけるような笑みを浮かべる。
「こんな
至近で炸裂したとびきりの笑顔に、明珠は目がくらみそうになる。
初華姫もまぶしいが、龍翔だって同じくらいまぶしい。目がちかちかして、心臓が飛び出しそうになる。
「初華姫様も龍翔様も、まばゆすぎます……っ! ああっ、やっぱり粗相をしないか心配になってきました……っ」
明珠の懸念に、龍翔がいぶかしげに眉をひそめる。
「そういえば、初めて初華に会った時も顔を赤らめていたが……。同性なのに、なぜなのだ?」
「えっ!? 性別なんて関係ないですよ! あんなお綺麗なお姫様をお近くで見ることができたら、誰だって、ぽうって見惚れて夢うつつになってしまいますでしょう!? むしろ、同じ性別だからこそ、自分とかけ離れているのをひしひしと感じるといいますか……っ!」
「そんなものか?」
「そんなものですっ!」
不思議そうに呟く龍翔に、きっぱりと断言する。と、龍翔が悪戯っぽく微笑んだ。
「わたしには、お前の方が愛らしく感じるが」
「っ!?」
真っ直ぐ見つめられて告げられた言葉に、絶句する。
「なっ!? さすがにご冗談がすぎます! いくら龍翔様のお目が悪いからといって……っ!」
「? わたしは目は悪くないぞ?」
龍翔が不思議そうに首をかしげる。
「ああ、ほら」
明珠の右手を掴んでいるのとは反対の手が、そっと頬にふれる。
「お前の頬が、薄紅色に染まっているのがよく見える。だが、もう少し……」
どことなく嬉しそうに告げた龍翔が、「《龍玉》を」と促す。
「は、はい……」
明珠はあわてて目を閉じると、首に下げた守り袋を着物の上からぎゅっと握る。
龍翔の香の薫りが鼻をかすめ。
唇が柔らかくあたたかなものにふさがれる。
龍翔の大きな手が明珠の頬を包む。
あたたかな龍翔の手。だが、明珠の頬のほうがもっと熱い。
ゆっくりと明珠から身を離した龍翔が、くすりと笑みをこぼす気配がした。
「これで、わたしもお前の頬を、すもものように染められたな」
「ふぇ?」
思いもよらぬ台詞に、間抜け声をこぼしながら目を開ける。
柔らかな笑みを浮かべた秀麗な面輪が、予想以上に近くにあって、ぱくんっ、と心臓が跳ねた。
「今日は初華にばかり頬を染めていただろう? ようやくわたしに頬を染めてくれたな」
龍翔の指先が優しく頬をすべる。
指摘されずとも、自分の顔が真っ赤に染まっているのははっきりわかる。心臓がばくばくと騒ぎ立てて、うるさいほどだ。
「だ、だってこれは……」
くちづけをして恥ずかしくないわけがない。
羞恥に身を引こうとすると、ぐいっと右手を引かれた。
「まだ足りぬ」
「えっ?」
問い返す間もなく、ふたたび秀麗な面輪が近づいてくる。
あわてて目を閉じた明珠のまつげを龍翔の呼気が揺らす。頬を包む手にわずかに力がこもったのがわかった。
「ん……っ」
先ほどより深いくちづけに、心臓が轟く。龍翔の手に包まれた頬が、恥ずかしさで
身を引こうにも、腕から背中へ移動した龍翔の手が許してくれない。
明珠の羞恥心が限界を超える寸前で。
心の中の悲鳴を読んだかのように龍翔の唇が離れる。思わず明珠は詰めていた息を吐き出した。
「また、息を止めていたな?」
苦笑交じりの声が鼓膜を震わせる。
背中に手を回され、胸元に引き寄せられているせいで、龍翔の面輪は見えない。だが、困ったように笑っているだろうことは、容易に想像がついた。
「す、すみません……」
恥ずかしさと申し訳なさで顔が上げられない。
と、頬を包んでいた龍翔の手に、上を向かされる。
明珠の視界に飛び込んだのは、困り顔ではなく、どこか嬉しそうな龍翔の笑顔だった。
「よい。責めているのではないから気にするな。いつまでも初々しいお前も愛らしい」
「ふぇっ!?」
「だが……」
龍翔が眉を寄せる。
「頬を染めて愛らしいお前を、初華にも見せることになるのは残念だ……」
「あ、あのっ、えっとその……っ」
思考が乱れてうまく言葉が出てこない。
この恥ずかしい状況から逃げようと、明珠は必死で別の話題を探しだす。
「そ、その、禁呪のことは初華姫様には伝えられないのですか……?」
問うた瞬間、龍翔が渋面になる。
「禁呪のことを話しても、初華が決して他に洩らさぬことはわかっているが……。秘密を守るためには、知らぬものが少なければ少ないほどよい。どこから洩れて広がるかわからぬからな。加えて……」
龍翔の秀麗な面輪が、苦く歪む。
「いまだ、禁呪の完全な解き方はわかっておらぬ……。これから
遠い異国に嫁ぐ妹を案ずる龍翔の言葉に、明珠は納得する。
初華に秘密を作るのは心苦しいが、花嫁となる初華に心配をかけなくないという龍翔の気持ちもよくわかる。
と、龍翔が悪戯っぽく微笑んだ。
「それに、もし初華に告げたとして、解呪の方法を尋ねられたら困るだろう?」
「っ!?」
一瞬で、ふたたび頬が熱くなる。
「それは困ります! 初華姫様には申し訳ないですが、内緒にいたしましょう!」
勢い込んで頷くと、龍翔が吹き出した。
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