33 ちゃあんと説明してくださいますわよね? その1


「やり直し!」


 卓に座る季白に水の入った茶器を差し出した明珠に、何度目かわからぬ季白の叱責が飛ぶ。

 鋭いむちのような声に、思わずびくりと震えた明珠の手の中で、器にそそがれた水が大きく揺れた。


「す、すみません……」


 首をすくめて謝ると、季白が頭が痛いと言いたげに、指先でこめかみを押さえ、顔をしかめる。


「わかりました! あなたに徹底的に足りないのは落ち着きです! 立ち居振る舞いの基礎はできているのに、どうして実践すると、おどおどとへっぴり腰になるんですか!? しゃんとなさい!」


「は、はいぃっ! すみません、緊張してしまって……」


 従者として、今後、客人に茶を供さねばならぬ事態は何度も出てくるだろうからと、茶を沸かすのも手間なので、水を入れた茶器を客人役の季白に出す練習をしているのだが……。


 一度として、季白から合格をもらえていない。ずっと、やり直しばかりだ。

 あまりにやり直しをくらい過ぎて、もう何をどうしたらよいのかもわからない。


 明珠の言葉に、季白のまなざしに更に険が宿る。


「緊張っ!? わたし程度で緊張してどうするのです!? こんなことで、龍翔様や初華様にお茶をお出しできると!?」


「おっしゃる通りです……」

 明珠はしゅん、と肩を落とす。


 鬼上司の季白は季白で緊張するが、初華姫にお茶を出すとなれば、緊張はこの比ではないだろう。


「あー、季白。少し休憩したらどうだ? 明順も、熱心なのはいいことだが、あまり根を詰めすぎるのもよくないだろう?」


 気遣いに満ちた声を上げたのは張宇だ。


「季白相手だと緊張するなら、俺が客人役をやろうか? その方が、まだ緊張もましだろう? それとも、俺が手本を見せるから、隣で真似してみたらどうだろう?」


「張宇さん……」

 張宇の優しさに、涙ぐみそうになる。明珠の表情に気づいた張宇が、あわてた様子で言葉を次ぐ。


「そうだ。季白じゃなくて、俺が教えようか? 船旅の間は、季白よりも余裕があるし……」


「で、でも、張宇さんにまでご迷惑をかけるわけには……」

 おろおろと張宇を見返したところに、季白の冷ややかな声が飛んでくる。


「迷惑をかけて申し訳ないと思うのなら、さっさと合格して、今まさに時間を取られているわたしを、早く自由にしてほしいんですがね」


「っ! す、すみません……」

 氷のような声に、明珠は身を縮ませて謝罪することしかできない。


 じわりとにじみそうになった涙を、空になった盆を胸に抱きしめてこらえる。教えを請うておきながら、涙を見せるなんて情けないことは、絶対にできない。


 張宇が、ふだんは穏やかな顔をしかめる。


「おい季白。そんな言い方は――」

「龍翔サマのお戻りっスよ~♪」


 張宇の声を遮るかのように、不意に、安理の明るい声と同時に扉が開く。


「明順?」

 恭しく頭を下げる安理の前を通り過ぎ、入ってきた龍翔が、盆を抱えてうつむく明珠を見るなり、歩を早める。


「何があった?」

「あ、あの……」


 目の前に立つ龍翔になんと答えればいいかとっさにわからず、言葉を濁す。


「ずいぶん、お早いお戻りでございますね」

 代わりに口を開いたのは、丁寧に一礼した季白だ。龍翔は眉を寄せて頷く。


「ああ。適当なところで切り上げてきた。それよりも」

 龍翔が気づかわしげな視線を明珠に向ける。


「初華のところといい、今といい……。いったい何があった? なぜ、今にも泣きそうな顔をしている?」


「ひゃっ」


 龍翔の指先が明珠の頬にふれたかと思うと、大きな手のひらが頬を包み込む。

 驚いて見上げた先にあるのは、心配そうに眉を寄せた秀麗な面輪だ。


「そ、その……。申し訳ありません!」


 がばりと深く頭を下げると、驚いたように龍翔の手が離れる。


「私が不出来な従者のせいで、龍翔様にご迷惑をかけてしまい……っ。本当にお詫びのしようもございません!」


「……は?」

 不思議そうな龍翔の声。補足するように季白の声が続く。


「従者として、どこに出しても恥ずかしくないよう、きたえてほしいと明順が自分から申し出たため、指導していたのです。が……」


 はぁっ、と季白が特大のため息をつく。

「どうにも落ち着きがなく、みっともない有様で」


「す、すみません……」

 明珠はさらに深くうつむくが、季白の言葉は止まらない。


「そもそも、明順が他の従者にまぎれこめるだけの所作と処世術を身に着け、目立つことがなければ、玲泉様と初華様の注目を引く事態を免れていたはずでしょう? それが、作法が中途半端なせいで、興味を引く羽目に……。まったく、本当は教えるならもっと別の――」


「季白」


 低い、刃を連想させる龍翔の声が、部屋の空気を凍りつかせる。季白が飲まれたように口をつぐんだ。


「玲泉の目を引いたのは、明順のとがではなかろう? 咎めるなら、一緒にいた安理を責めよ」


「ええっ!? そこでオレに飛び火っスか――っ!」


 唇を尖らせて反論した安理が、龍翔が放つ視線の圧に、


「イエ、何でもないっス!」

 とぷるぷるとかぶりを振る。


 と、ふわりと龍翔の衣に焚き染められた香の匂いが、明珠の鼻をくすぐった。

 かと思うと、床に片膝をついてかがんだ龍翔に顔を覗き込まれ、明珠は目を円くした。


「り、龍翔様!?」


 あわてて顔を上げ、差し伸ばそうとした明珠の手を、龍翔がつかみ取る。


「わたしの従者として至らぬと、己を責めていたのか?」


 柔らかな口調に吸い込まれるように、思わずこくんと頷くと、龍翔が破顔した。


「努めようとするお前の気持ちは嬉しい。だが……」


 龍翔が小さく首をかしげる。うなじのところで一つにまとめた黒髪が、さらりと揺れた。


「市井で暮らしていたお前に、少年従者として勤めよというのが、そもそも無茶な要求なのだ。一朝一夕にできぬのも当然だろう? 熱心に努めてくれるのは嬉しいが、自分を責めてくれるな。お前の憂い顔を見るほうが、つらくなる」


 明珠の手を取ったのとは逆の手が、そっと頬へと伸ばされる。

 強張った面輪をほぐそうとするように、指先が優しく頬をすべった。


「ですが……」

「うん?」


 ためらいがちに口を開いた明珠を、龍翔が優しい声で促す。


「私が不出来なせいで、龍翔様にご迷惑をおかけしていると思うと、申し訳なさで胸がつぶれそうになります……っ」


「何を言う」


 思いがけず力強い声に、はじかれたように顔を上げる。

 黒曜石の瞳が、真っ直ぐに明珠を見つめていた。


「初めて王城に上がって慣れていない者をあざけるなど、わたしが許さぬ。それに、そのような心無い者の言に左右されるほど、わたしは頼りなくはないぞ?」


 大きな手が明珠の頬を包む。心を融かすようなあたたかさに、安堵のあまり、泣きだしそうになる。


 龍翔が困ったように眉を下げた。


「どうした? なぜ、また泣きそうな顔をする? お前のそんな顔を見るだけで、心が千々に乱れてしまう」


「すみま――」

 謝ろうとした瞬間。


 ほとほとと、上品に扉が叩かれる。


 龍翔がいぶかしげに立ち上がり、一番、扉に近いところに立っていた安理が、「どちら様っスか~?」と問いかけながら扉を開ける。


 そこにいたのは。


「初華?」

 つい先ほど別れたばかりの妹の姿に、龍翔が目を円くする。


「どうしたのだ?」


 兄の問いに答えず、供の侍女に、

「あなたは先に戻ってなさい。帰りはお兄様の従者に供をお願いするから」

 と命じた初華が、侍女の返事も待たずに部屋に入り、扉を閉める。


 明珠に視線を向けた初華の愛らしい面輪が、しかめられた。


「まあ、明順。今にも泣いてしまいそうな顔をして……」


 うやうやしく頭を下げる季白達の前を優雅な足取りで通り過ぎた初華が、明珠の正面まで歩を進め。


「っ!?」


 突然、飛びついてきた柔らかなものに、明珠は度肝を抜かれた。


 勢いの良さに、思わずたたらを踏み――本能的に倒れるわけにはいかないと、何とかこらえる。


 鼻をくすぐる華やかな香の薫り。なめらかな絹の衣と、その下の柔らかさを感じさせる肢体。


「は、初華姫様っ!?」


 初華姫に抱きつかれたのだと、脳が理解した瞬間、すっとんきょうな声が飛び出す。


「おい、初華!?」


 あわてふためいた龍翔が妹の肩に手をかけ、引きはがそうとする。が、しっかりと明珠の身体に両腕を回した初華は離れない。


「ねえ、お兄様」


 明珠を抱きしめたまま、初華が首をねじって龍翔を振り返る。

 愛らしい顔に浮かんでいるのは、すこぶる楽しげな笑みだ。


「どうして女の子が少年に化けているのか、ちゃあんと説明してくださいますわよね?」


「っ!?」

 初華に抱きしめられたまま、明珠は絶句する。


(な、なんでバレ……っ、ああっ、抱きつかれたせいで!? っていうか。初華姫が柔らかくていい匂いで、幸せで気が遠くなりそう……っ)


 現実逃避を願うあまり、気を失いかけた明珠の耳に、安理が吹き出す声と、龍翔の心の底からの嘆息が飛び込んできた。

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