32 断りきれないお誘いです!? その3


「なぜ、今にも泣きそうな顔をしている?」


 大きな手が、明珠の頬を包み込む。


 そのあたたかさと優しさにじわりと涙がにじみそうになり、明珠はあわてて唇を噛みしめ、涙をこらえた。


「明順?」


 気遣うように龍翔の形良い眉が固く寄る。

 指先が、噛みしめて力のこもった頬をほぐそうとするかのように優しく肌をすべり、明珠はあわあわと口を開いた。


「そ、その……っ。恐れ多くて、緊張が限界に達してしまいまして……っ!」


 嘘ではない。龍翔や初華、玲泉のすぐそばは、目にも心臓にも負担が大きすぎる。緊張のあまり足が震え、気が遠くなりそうだ。


「初華」

 龍翔が困り顔で妹姫を振り返る。


「明順への用は済んだだろう? 慣れぬ場に突然、引っ張り出されて、調子を崩したようだ。もう帰してやってよいか?」


 何やらぼんやりとしていた初華は、龍翔の声に我に返ったように頷く。


「え、ええ……。ごめんなさいね、明順。無理をさせたみたいで」


「とんでもございませんっ! その、初華姫様のお美しさにあてられてしまいまして……っ」


 初華の憂い顔を晴らしたくて、ぶんぶんとかぶりを振ると、初華がくすくすと笑い声をこぼした。


「やっぱりあなたって面白いわ。……ごめんなさい、慣れぬ場所に引っ張り出してしまって。下がるのを、許します」


「初華姫、ありがとうございます。明順、こちらへ」


 初華が告げるやいなや、誰にも口を挟ませまいとばかりに、素早く一礼した季白が明珠に命じる。


「は、はいっ。失礼いたします」

 明珠も丁寧に一礼すると、季白の後に続く。


 歩く背中に、視線が突き刺さるのを感じる。

 誰からのものかはわからないが、一人や二人ではない圧だ。おそらく、部屋中の者に呆れられ、さげすまれているに違いない。


 背中に新たな冷や汗が吹き出し、足が震えそうになる。が、龍翔の従者として、これ以上、みっともないところは見せられない。すでに手遅れなのは、十分、自覚しているが。


 扉の前でも季白と一礼し、廊下に出た瞬間。


「す、すみませんっ、季白さん……っ!」


 明珠は身体を二つ折りにするように深々と頭を下げ、謝罪した。扉の向こうへ聞こえないよう、声は落としている。


 そのまま、申し訳なさに頭を上げられずに震えていると、後頭部に、季白のため息が降ってきた。


「言いたいことは山ほどありますが……。ともあれ、席を外せたのは良しとしましょう。廊下でぐずぐずしているわけにもいきません。ひとまず、船室へ戻りますよ」


「は、はいっ」


 明珠が顔を上げた時にはもう、季白は背を向けている。

 あわてて後を追うと、すぐさま叱責が飛んできた。


「いかにも急いでますと言わんばかりに、ばたばたと足音を立てるのではありません! 身長差のために小走りになるのは仕方がありませんが、もっと、動作に落ち着きと気品を加えなさい!」


「はいぃっ!」


 物差しを差し込まれたように背筋を伸ばし、足音をひそめる。

 気品なんてものは、どこをどうひっくり返したら出てくるのか、まったくわからないが、ひとまず季白の叱責が止んで、ほっとする。


 大きい船とはいえ、やはり船内だ。貴人の部屋近くは水主かこ達は出入りを禁止されているらしく、無人の廊下を歩くと、すぐに龍翔の船室に着いた。もともと、貴人用の部屋は近くに集められている造りらしい。


「戻りました」


 と、扉を開けて入ってきた明珠と季白を見て、留守番の張宇が驚いた顔で振り返る。まさか、これほど早く戻ってくるとは思っていなかったに違いない。


 周康の姿が見えないが、おそらく衝立ついたての向こうの寝台で休んでいるのだろう。気の毒に、船酔いする体質らしく、昨日からずっと調子が悪そうにしている。


「季白さん!」

 ぱたりと扉を閉めるなり、明珠は勢いよく季白に頭を下げた。


「明順? どうした?」


 あわてた声を出す張宇を遮るように、明珠は頭を下げたまま、気合を入れた声を出す。


「季白さん、お願いです! 龍翔様の従者として、どこに出しても恥ずかしくない……ってところまではいけるかどうかわかりませんけれど! でも、せめて龍翔様にご迷惑をかけないように、ご指導くださいっ!」


 季白に教えを請うなんて、どんな鬼指導が待っているだろう。考えるだけで震えだしそうになる。


 だが、明珠が不出来なせいで、主人である龍翔が軽んじられるなど、耐えられない。龍翔のためならば、季白の鬼指導など、何ほどのことか。


 腰を直角に折り曲げ、震えながら返事を待っていると。


「……あなたには、前々から、いろいろと言いたいことがあったのですよ……っ。まあ、従者とはいえ、あなたの立場は特殊。外に出す予定なんて、これっぽちもありませんでしたから、今まではとやかく言っていませんでしたけれどね……」


 地をうように低い、おどろおどろしい声。


 あれで、とやかくじゃなかったんだと、今までの季白の指導を思い返す明珠の背中を、新たな冷や汗が流れ落ちる。


「従者として、最低限のことができればよいと、今まで所作にまでは口出ししていませんでしたが、初華姫や玲泉様の他の従者達の中に混ざるとなれば、話が変わってきます! 龍翔様の従者として不出来な者を、そのままにはしておけませんっ!」


「お、おい季白。そう明順に厳しく……」


 不穏な気配を感じたのか、張宇が口を挟もうとする。が、季白は切れ長の目で、きっ、と張宇を睨みつけた。


「龍翔様も張宇も、明順を甘やかしすぎなのですよ! 本人が己の不出来を恥じているのならば、ちゃんと指導してやることこそ、本人のためというものでしょう!?」


「それはそうだが……」


 困り顔の張宇が、明珠に気づかわしげな視線を向ける。その目は、本当にいいのかと確認しているかのようだ。


 真っ直ぐに張宇を見返して、明珠はきっぱりと頷く。

 正直、季白の鬼指導は想像するだけで膝が震えだしそうなほど、恐ろしい。けれど。


「季白さん! 龍翔様の従者としてふさわしくなれるよう、びしばし鍛えてください!」


「よく言いました! ならば、手加減はしませんからね!」

「は、はい! 石にかじりつくような気持ちで頑張りますっ!」


 明珠はぐっ、とこぶしを握り締める。


「……明順がそう言うなら、無理に止めはしないが……。龍翔様が戻られたら、ちゃんと話を通しておけよ……?」


 二人の様子を心配そうに眺めながら、張宇がそっと、忠告した。

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