25 修練が足りてません?


「張宇サン、どーしたんスか?」


 夕食後、片付けの終わった食堂で安理に声をかけられ、張宇は『蟲封じの剣』を一心不乱に磨いていた手を止めた。


 毎日欠かさず手入れされているところに、今日はさらに念入りに磨かれて、『蟲封じの剣』は蚕家の至宝の一つにふさわしく、輝かんばかりにきらめいている。


「何か悩みゴトでもあるんスか~? 妙に深刻な顔だったっスよ?」


「その……。自分の修練の足りなさが情けなくてな……」


 目ざとい安理にはお見通しだな、と張宇は吐息とともに苦く答える。


 悩みや迷いがある時、または集中したい時に剣の手入れを念入りにするのは、張宇のくせだ。


 何も考えずに一身に剣を磨いていると、汚れと一緒に、心まですっきりとしていく気がする。


「え~っ!? 張宇サンが修練が必要って……。何があったんスか?」

 安理が意外そうに目を見開く。


「張宇サンに剣の腕で勝てる奴なんて、そうそういないでしょ?」


「いや、剣の腕というより、精神的な強さというか……」

 張宇は自分よりも明らかに経験豊富そうな隠密に尋ねてみる。


「なあ、安理。お前……男に迫られたら、どう対処する?」


「ぶぷ――っ!」


 問うた瞬間、安理が盛大に吹き出した。


「ちょっ!? オレが真面目に情報収集してる間に、いったいナニしてたんスか!? ……あ、もしかして、玲泉サマ?」


 安理の問いに、張宇は顔をしかめて頷く。


「書庫で……。たとえ、玲泉様が術師であろうと、三対一程度なら、通さない自信はあったんだ。けれど、玲泉様の予想外の行動に動揺してしまって……。とっさに対応できずに突破されたせいで、明順を危ない目に……っ!」


 妹のように大切に思っている少女を、自分が迂闊うかつだったせいで危険な目に遭わせたかと思うと、刃で貫かれたように、胸の奥が自責の念で痛む。


 奥歯を噛みしめていると、安理がものすごく人の悪そうな笑みを浮かべて、興味津々に張宇の顔をのぞきこんできた。


「……で。玲泉様にナニをされちゃったんスかぁ~? くちづけ? それよりもっと……っ」


「くちづけも何もされていないっ! 誤解を生むようなことを言うなっ!」


 書庫では、このままくちづけされるのではないかと危惧するくらい至近距離まで迫られたが、あれは張宇の動揺を誘うための罠だったのだろう。


 思わず狼狽うろたえた張宇の隙をついて《縛蟲》を喚ぶと、玲泉はさっと身を翻して、明珠を追っていってしまった。

 龍翔から託されていた『破蟲の小刀』で縛蟲を斬り伏せ、玲泉の供二人も、即座に叩き伏せたが……。


 出遅れてしまった上に、林立する本棚で視界が利かないせいで、明珠に追いつくのがかなり遅くなってしまった。


 もし、博函老人が玲泉を叱責していなかったらと思うと、背筋に冷たい汗が噴き出す。


 明珠に何もなくて、本当によかった。


「あ、季白サン。季白サンも玲泉サマと一緒に、書庫で本を探して過ごしたんスよね?」


 隣の厨房ちゅうぼうで梅宇と何やら話していた季白が食堂へ入ってきたのを見て、安理がすかさず声をかける。


「ええ。本を探すよりも、『花降り婚』の差し添え人としての打ち合わせが主になりましたけれど」


 頷いた季白が、切れ長の目に険しい光をたたえる。


「玲泉様はしつこく黒曜宮へ来たがっておられましたが、ただでさえお忙しい龍翔様のお時間を、些事さじで取ろうなど、言語道断っ! わたくしで詰められる話は、きっちりと詰めさせていただきましたとも!」


 ほんの数日しか王都にいられないせいで、龍翔を筆頭に、季白や張宇も、王都にいる間に処理しなければならない仕事が山と詰め込まれている。


 晟藍国へ赴くだけで片道半月はかかる旅路だ。

 あちらで滞在する時間も含めたら、下手すれば二か月は不在になる。


 前回、急に乾晶行きが決まった時もあわただしかったが、今回はそれ以上だ。


 そこへ来て、玲泉のせいで余計な手が取られているので、季白としては腹立たしいことこの上ないのだろう。


 びしばしと話を進める季白の姿が、たやすく想像できる。


 が、今回ばかりは張宇としても玲泉に同情してやる気はない。せいぜい季白に詰問されているといい。


「で、季白サンは玲泉サマに迫られたりしたんスか~? 張宇サンは、迫られた挙句、惑わされちゃったみたいっスけど♪」


「おいっ!? 事実と異なることを言うな!」

「は?」


 にやけ顔の安理の言葉に、季白が氷のまなざしを返す。


「相手が男だろうと女だろうと、わたしが龍翔様以外の者に、惑わされるわけがないでしょう!?」


「ぶぷ――っ!」


 迷いなく断言した季白に、安理が吹き出す。


「さっすが季白サンっス! 色男の玲泉サマも、季白サンにかかれば形なしっスね~! ってゆーか、龍翔サマには惑わされるんスか?」


 わくわくっ、と尋ねた安理に、季白はにべもない。


「わたしは馬鹿話をしに来たのではありません。安理、少しいいですか?」

 季白が安理を手招きする。


「ちょっと、用意してもらいたいものがあるのです」

「ん? なんスか~?」


 季白のそばに寄り、耳打ちされた安理が、ぎょっと目を見開く。


「えっ!? オレがっスか!? そりゃあまあ、頼まれたら用意するっスけど……。好みとか、聞いておいた方がいいっスか?」


 安理が何やらそわそわと季白の顔をうかがう。


「好みなど……」

「えーっ、だって、イロイロあるっスよ?」


「……何の話をしているんだ?」


 ひそひそと囁き合う二人に問うと、季白があっさりかぶりを振った。


「梅宇殿に、宮に飾る絵を用意してほしいと頼まれたのですがね。わたしより、安理の方が適任かと思いまして」


「……それは確かに、安理の方がよさそうだな」


 たいていのことは人並み以上にこなす季白が、絵に関しては致命的に下手なことを知っている張宇は苦笑する。


 とはいえ、季白に審美眼がないわけではないのだが。だがまあ、絵が巧く美的感覚に優れた安理の方が、適任だろう。


「しかし、伯母上も水臭い。頼みごとなら、俺にしてくださればよいのに」


「張宇さんに頼んだら、菓子が山と描かれた絵しか買ってこないと思われたんじゃないっスか~?」


 安理がきししと笑ってからかう。


「失礼な。さすがに伯母上に頼まれたら、ちゃんとした絵を買ってくるぞ。……絵の中の菓子は、食べられないからな」


「そういえば張宇。梅宇殿が、厨房にあなたの分の菓子を用意していると言っていましたよ」


 季白が淡々と告げる。


 甥の甘いもの好きを知っている梅宇は、毎日のように何かしらの菓子を用意してくれる。


「いや~、やっぱり梅宇サンは張宇サンに甘いっスよね~」

「分けてほしかったらいつでもやるぞ? 明順にも持って行ってやろう」


 今までは、好んで甘味を食べる者は、梅宇達三人と張宇くらいしかいなかったが、今は明珠もいる。


 どんな菓子であれ明珠は喜ぶに違いないと、張宇はいそいそと立ち上がった。

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