24 同じ声を、聞いたのだろうか その1


「龍翔様! まことに申し訳ございません! わたくしがついていながら、明順を危ない目に遭わせてしまいまして……っ!」


 追いついた途端、土下座せんばかりに謝罪する張宇に、龍翔はゆっくりとかぶりを振った。


「済んだことはもうよい。玲泉があれほど明順に執着していると見抜けなかったわたしにも非はある」


 内心の怒りを抑え、できる限り穏やかに答える。

 が、つきあいの長い張宇は、主の激昂げっこうを読み取ったらしい。


「いえ! わたくしの修練が足らぬばかりに、龍翔様にご心配とご迷惑を……っ! この失策はいかようにも償います」


 己を責める張宇の声音に、黙っていられないと感じたのか、明珠の声までが追ってくる。


「すみません、龍翔様! 張宇さんは逃げるようにって言って庇ってくださったんですけれど、私の足が遅くて追いつかれてしまって……っ」


「謝らずともよい。済んだ――」


 振り返り、明珠の顔を見た途端、言葉が途切れる。


 今にも泣き出しそうな、申し訳なさそうに眉根を寄せた面輪。


 そんな顔など、させたくないのだと――柔らかな曲線を描く頬にふれて慰めたくなって、自制する。

 代わりに、あやすように頭をひと撫でする。


「よい。今回のことは、張宇のせいでも、明順のせいでもないと承知している。ただ、張宇。いったい何があった?」


 前に向き直りながら問う。


 本当は、大丈夫だと明珠の手を引いてやりたいが、どこに誰の目があるかわからぬ王城では、それすらかなわない。


 明珠と並んで龍翔の後ろを歩きながら、張宇が説明する。


「……従者まで使って後をつけてきたか……。明順に対する執着を甘く見ていたな……」


 苦く呟くと、張宇が困ったように口を開いた。


「その……。玲泉様の目的は、明順ではないかもしれません……」

「どういうことだ?」


 玲泉の目的が明珠でないのなら、それに越したことはない。

 振り向くと、張宇がこの上なく困った顔で、ためらいがちに言葉を紡ぐ。


「その……。玲泉様がおっしゃっていたのです。「明順も気になるが、龍翔様にも心とらわれていると……」


「わたしに……?」

 己の口の端に、冷笑が浮かぶのを感じる。


「ならば、明順に手など出さず、直接わたしへ来い! そうすれば、叩っ斬ってやるものを!」


 龍翔の気を引くために明珠に近づくなど、姑息こそくな策が腹立たしい。


「そ、そういえば、私にも……」


 龍翔の怒りに怯えつつも、明珠が何かを思い出したように呟いたところで、黒曜宮につく。


「張宇。お前は念のため、怪しい者が宮の周りにおらぬか見回れ。明順。次はお前から話を聞こう」


「は、はい……」

 張宇と別れ、黒曜宮に入るなり、明珠の手を取る。


「り、龍翔様!?」

 明珠が驚いた声を上げるが、気にしない。


 迎えに来た梅宇達が、苛立たしく歩を進める龍翔に、気づかわしげな視線を向けるが、無視した。


「あ、あの!? 龍翔様……!?」


 戸惑った声を上げる明珠を私室に引き入れ、乱暴に扉を閉め。


「――で。玲泉と何があった?」


 尋ねた瞬間、明珠が怯えたように体を震わせる。


 その様子につきんと胸が痛み、同時に冷静さを取り戻す。


 玲泉に怒り狂っているのは確かだが、決して明珠を責めたいわけではない。

 龍翔は心中に渦巻く怒りを吐き出すように、深く深く吐息した。


「すまぬ」

「え?」


 戸惑った声を上げた明珠を、横抱きに抱え上げる。


「ひゃあっ!? あ、あの……っ!?」


 明珠の声を無視し、私室の隅にある長椅子に、明珠を横抱きにしたまま腰を下ろすと、龍翔の太ももの上に座る形になった明珠が、顔を真っ赤にして暴れだした。


「お、下ろしてくださいっ!」

「順雪と」


「っ!?」

 大切にしている弟の名を出すと、明珠がぴたりと動きを止める。


「何か嫌なことがあった時に、大切で愛らしい者に身を寄せると、心が落ち着くだろう?」


「あ! それはわかります!」

 明珠の声が弾む。


「嫌なことがあっても、順雪をぎゅーっ! って抱っこしてるとすぐに元気に……っていうか、それとこれに、何の関係があるんですかっ!?」


 顔を真っ赤にしてじたばたともがく明珠を見ていると、胸の奥の苛立ちがほぐれていくような気がする。

 明珠の素直な反応は、ずっと見ていてもまったく飽きない。


「お前が順雪に癒されるのと同じだ。わたしもこうしていると、落ち着く。……それほど、嫌か?」


 明珠が己の腕の中にいるというだけで、安堵と心が浮き立つような気持ちが胸にわきあがる。


 尋ねると、明珠が真っ赤な顔のまま、

「そういうことでしたら……」

 と、恥ずかしそうにもごもご呟いた。


「それで、玲泉と何があったのだ?」


 自分でも驚くほど優しい声が出る。


 恥ずかしいのか、明珠は真っ赤な顔でうつむいたまま、張宇を振り切った玲泉に追いかけられたこと、懸命に走ったが追いつかれ、《縛蟲》を放たれて捕まってしまったことをたどたどしく話す。


「だ、大丈夫ですよ! 懐に入れていた《互伝蟲》はちゃんと還しましたから! 玲泉様に見つかってません!」


 とんちんかんなことを言う明珠に、「そんなことなど、どうでもよい!」と叫びたいのをこらえる。


 明珠がうつむきがちに話していてよかった。でなければ、また怒りに満ちた顔を見せてしまっていただろう。


「それで、捕まってすぐ、博函殿が駆けつけてくれたのか?」


 怒りを押し込めて問うと、明珠が困ったように視線をさまよわせた。


「その……。さっき張宇さんもおっしゃっていたことに関係するかもしれないんですけれど、玲泉様が不思議なことをおっしゃっていて……」


「何と言っていたのだ?」


 愛らしい面輪をしかめる明珠に水を向けると、しかめ顔のまま、明珠が玲泉の言ったことを辿るようにゆっくりと言葉を紡ぐ。


「わたしの首元にふれられて、「上に玲泉様が花びらをつけたら、龍翔様はどんなお顔をなさるだろう」って……ひゃあっ!?」


 突然、龍翔に長椅子に押し倒された明珠が、すっとんきょうな声を上げる。

 が、説明するどころではない。


「ひゃっ!?」


 きっちりと着こまれた襟元に手を差し込んでくつろげ。


 そこに、薄く色あせてきた己のくちづけの跡だけを見とめて、龍翔は詰めていた息をほっと吐き出した。


 少なくとも、ここに玲泉がくちづけた跡はない。


「あ、あの、龍翔様……!?」


 目を白黒させている明珠の面輪をのぞきこみ。強い声で問う。


「玲泉にくちづけされたのか?」

 もし肯定されたら、今すぐに玲泉を追いかけて叩っ斬ってやる。 


 決意をにじませ明珠を見つめると、ただでさえ紅い顔が、首まで染まった。


「くっ!? くくくくく!? そ、そんなこと、あるわけないじゃないですかっ!?」


 なめらかな明珠の肌がさらに熱を持つ。ふれている龍翔の指先まで融かすように、熱い。


「というか、首筋に何かついてるんですか……?」

 頬はおろか、耳や首まで紅く染まっているので、薄くなってきたくちづけの跡は、まぎれて見えにくいほどだ。


 不安に瞳を揺らす明珠に答えず、龍翔は《癒蟲ゆちゅう》をびだした。


「え? 《癒蟲》……?」

 戸惑った声を上げる明珠に、淡々と告げる。


「虫刺されだろう。首の一部が赤くなって、花びらのように色づいていた」


「あ、それで『花びら』って……? かゆくもなんともなかったんですけど、治していただいて、ありがとうございます!」


 素直に礼を言う明珠に、胸の奥が苦くうずく。


 くちづけの跡など、《癒蟲》ですぐに消せる。


 だが、あえてそれをしなかったのは、誰にも許したことのない白い肌に、初めてしるしを残したのは己なのだと――。


 ただただ、浅ましい自己満足に浸りたかっただけなどと、くちづけされたことさえ覚えておらぬ無垢な少女に告げられるはずもなく。


 ましてや、もう一度、今度は他の誰の目にもふれることのない、もっと秘められた場所へくちづけを落としたいと考えているだなどと。


「り、龍翔様……?」


 龍翔の下で明珠が恥ずかしそうに身動みじろぎする。

 そっと指先で首筋を辿ると、くすぐったいのか、明珠が愛らしい声を上げた。


 その声が、龍翔の妬心としんを刺激する。


 玲泉も、同じ声を聞いたのだろうか。


「《龍玉》を」


 短く告げると、明珠が驚いたように目を見開いた。が、素直に胸元の守り袋を服の上から握りしめ、緊張した面持ちで、ぎゅっ、と固く目を閉じる。


 《互伝蟲》や《感気蟲》を喚んだとはいえ、《気》はまだ十分にある。だが。


 甘く柔らかな唇を、己のそれでふさぐ。


 熱を持ったままの首筋をふたたび指で辿ると、明珠がぐぐもった声を上げて身体を震わせた。


 強まる蜜の香気に、陶然となる。


 この甘さを知っているのは己だけだという事実が、理性を酩酊めいていさせる。


 願うままに、もっと深くくちづけようとし。


「龍翔様!」

 突然、扉を叩いた梅宇の声に、我に返る。


「何だ?」

 とっさに平坦な声を作り、扉の向こうへ問い返す。


 邪魔が入ったことを安堵する一方で、残念に思う気持ちが入り混じり、自分でも判別がつかない。


 長椅子から身を起こし、明珠に手を差し伸べたところで、扉の向こうから、梅雨のものではない、鈴を振るような声が聞こえてきた。


「お兄様、戻ってきてらっしゃるのでしょう?」

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