23 とっても危険なおつかいです? その4



「明順!」


 途中、《感気蟲かんきちゅう》を喚び出し、明珠ではなく玲泉の《気》を負わせた先で。


 乱暴に書庫の奥まった扉を開け放った龍翔は、そこに広がる光景を見て、絶句した。


「龍翔様!」


 卓から立ち上がった明珠が、この上なく申し訳なさそうな顔で龍翔に駆け寄ってくる。


 華奢きゃしゃな身体を思い切り抱き寄せたい衝動を、かろうじてこらえる。

 だが、明珠の肩に置いた手に、思わず力がこもるのは止められない。


「何も、なかったか?」


 問う声が、固い。

 明珠が申し訳なさそうにくしゃりと顔をしかめて頷いた。


「は、はい! すみません、龍翔様をお呼び立てしてしまって……」

「いや、よいのだ。気にするな」


「いったい何があったのです!?」


 龍翔の代わりとばかりに、厳しい声音で張宇に尋ねたのは、すぐ後ろについてきていた季白だ。

 龍翔も問いただしたい。


 《感気蟲》を追ってたどり着いた書庫の奥。


 そこで龍翔が目にしたのは、菓子が置かれた円い卓を囲む明珠と張宇と玲泉、そして書庫の管理人である博函はくかんの姿だった。


 博函は齢七十をとうに超えている老人で、長く白い髭をたくわえたさまは仙人のようにも見える。

 だが、いかめしい顔つきと鋭い眼光をたたえる目が、一筋縄ではいかぬ雰囲気を感じさせた。


 実際、龍翔が生まれる遥か以前からこの広大な書庫を預かる博函が、かなり気難しい人物であるという噂は、これまで何度も耳にしている。


 明珠があわあわと口を開く。


「ええと、玲泉様に追いかけられたんですけれど、その、博函様に書庫で騒ぐなと思い切り叱られまして……」


「追いかけられた!?」


 玲泉を睨みつけると、玲泉は憎らしいほどすました顔で肩をすくめる。


「逃げられたら反射的に追いかけたくなるのが、人のさがでございましょう?」


 悪びれた様子ひとつない端麗な面輪を、殴りつけてやりたいと思いながら、龍翔は博函を振り返り、丁寧に頭を下げる。


「博函殿。わたしの従者がご迷惑をおかけして、大変申し訳なかった。また、助けていただき、深く感謝いたします」


 くわしい状況はわからないが、博函が玲泉の暴挙を止めてくれたのは間違いないだろう。


 昔から広大な第三書庫を管理しているこの老人が、書庫の静寂を破るものは誰であろうと許さないという堅物であることは、王城に勤める者なら、大抵の者が知っている。


 だからこそ、玲泉も無茶はしないだろうと、明珠の行き先に第三書庫を選んだのだが。


 それにしても、なぜ明珠と玲泉が一緒に卓を囲んでいるのか。

 悩んでいると、主の心を読んだかのように、張宇が口開く。


「その……。博函殿が、龍翔様がすぐに来られるのなら、こちらで待っておけばよいと、お声をかけてくださいまして……」


「それは、お気遣いいただきありがとうございました」

 龍翔は再度、博函老人に丁寧に頭を下げた。


 第三書庫の司書長という地位は、年老いた官吏のための名誉職であるため、地位だけは高いが、実権はないに等しい。


 第二皇子である龍翔がこれほど腰を低くする必要はないが、明珠を玲泉の魔の手から守ってくれたのなら、いくら感謝しても、足りない。


 そもそも、龍翔は必要がない限り、居丈高な態度を取らぬよう常日頃から気をつけている。

 ろくな後ろ盾も持たぬ第二皇子が偉そうにと、敵意を抱かれるよりも、誰にでも頭を下げる軟弱者よと侮られていた方が、まだしもやりやすい。


 龍翔の感謝の言葉に、一人、我関せずという顔で饅頭まんじゅうを食べていた博函は、ゆっくりとしわが刻まれた顔を上げた。


 玲泉、明珠、龍翔の順に視線を動かした後、偏屈へんくつそうな顔に小さく笑みを浮かべる。


「第二皇子殿下は、このたび、従者を雇われたようですな」


「……宮中の作法を知らぬ田舎者ゆえ、奇異に映ることもありましょうが、ご寛恕かんじょいただけると幸いです」


 龍翔はあくまで礼節を守って、薄く微笑む。


 内心では、博函が何にどこまで気づいているのか戦々恐々だが、白髭をしごく博函からは、何も読みとれない。


 ただ、気のせいかもしれないが、楽しげな光が老人にしては眼光鋭い目の奥で躍っている気がする。


 遊び人の玲泉が、龍翔の従者に手を出している事態を面白がっているだけならば、よい。

 博函老人の性格ならば、面白がりはしても、口さがない侍女達に噂を広めたりはせぬだろう。だが――。


(明珠の正体に気づかれては厄介だ……)


 まさか、天下の王城に性別を偽って忍び込んでいる者がいるとは誰も想像すらしないだろうが、昨日、思いがけず玲泉に出くわしたように、いったい、いつ何が起こるのかなど、誰にもわかりはしない。用心するに越したことはない。


 そもそも、龍翔の目には「明順」は男物の服を着た愛らしい少女にしか見えぬのだ。

 いつ、他の者も明珠の愛らしさに気づいてもおかしくはない。


 龍翔は明珠を己の後ろに隠すように一歩踏み出すと一礼した。


「博函殿。お騒がせして大変申し訳ございませんでした。従者達には、わたしから重々言って聞かせますので。これにて失礼します」


「おや。書庫に明順を遣わされたということは、何か探している本がおありなのでしょう? 借りずに帰ってよろしいのですか? わたくしでよければ、探すのを手伝わせていただきますよ」


 からかうような声を上げたのは玲泉だ。

 龍翔は玲泉を見もせず告げる。


「よかったな、季白。玲泉殿が手伝ってくださるそうだ。よぉく感謝をしておけよ?」


「これはこれは玲泉様。まことにありがとうございます」


 間髪入れずに謝辞を述べた季白に、玲泉が眉をしかめる。


「おや残念。そちらの『花びらの君』ではないのですね。可愛い少年と一緒の方が、やる気が湧くのだけれど」


「誰が狼の眼前に無防備な兎を置くか!」


 自制するより早く、鋭い声が飛び出す。玲泉が楽しげに喉を鳴らした。


「確かに、無防備極まりないですね、その兎は。さっき、わたしに捕まった時になんと言ったと思います? 自分の身より先に、張宇殿の心配をしていましたよ」


 龍翔は無言で拳を握りしめる。


 捕まえたとはどういうことだと、今すぐ玲泉の首をひっつかんで問いただしてやりたい。


 龍翔の面輪を楽しげに見つけたまま、玲泉がいかにも残念そうに吐息する。


「本当に惜しいことです。博函殿さえ来られなければ、もう一つ、わたしの花びらもつけられたのですがね」


「っ!」


 ほとばしりかけた怒声を、奥歯を噛みしめてかろうじてこらえる。


 握りこんだ拳の皮が鳴る。


 龍翔の怒気にあてられたのだろう。背後で明珠が怯えたように身を震わせる気配に、意志の力で怒りを抑え込む。


 ここで怒りをぶちまければ、玲泉だけではなく博函にまで、明珠が龍翔にとってどれほど大切な者か、明らかになってしまう。


 ……玲泉には、もう手遅れな気もするが。


「おぬしに手折たおられたい『花』ならば、他にいくらでもいるだろう? わざわざいばらに守られた花に手を出して、自らの未来を散らすこともあるまい?」


 氷の声で釘を差し、玲泉が言い返すより早く、背を向ける。


 明珠が戸惑いながらついてくる足音と、卓を立った張宇が、「わたくしも失礼いたします」と慌てて追いかけてくる気配がする。


 扉を閉める寸前。


 こらえきれないとばかりに吹き出す玲泉の声を、龍翔は苦々しい思いで聞いた。

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