23 とっても危険なおつかいです? その3


「明順! 逃げろ!」


 切羽詰まった張宇の声。


 弾かれたように駆けだした明珠が目にしたのは、凍りついた張宇に、蠱惑的に微笑んで顔を寄せる玲泉だった。


 玲泉の意図がわからぬまま、とにかく駆ける明珠の背中に、


「っ!? わたしはそんな趣味はありませんっ!」


 と、張宇の悲痛な悲鳴が聞こえてくる。


 何があったかわからないが、張宇があんな悲鳴を上げるなんて、ただごとではない。


 本棚の角を走って曲がりながら懐に手を入れ、《互伝蟲》を取り出す。


「《龍翔様……っ! 大変ですっ! 張宇さんが玲泉様に……っ!》」


 叫んだところで、後ろから足音が迫ってくるのに気づく。

 振り向いた先にいたのは、玲泉だ。


 いったい、どうやって張宇を突破してきたのだろう。


 季白から玲泉は術が使えると聞いている。玲泉に《互伝蟲》を見られるわけにはいかない。明珠はあわてて《互伝蟲》を懐に突っ込む。


 捕まるわけにはいかない。


 すぐそばの本棚の間に飛び込む。

 角を曲がって、次の列へ。


 その次の本棚の角も曲がり、少しでも攪乱かくらんできないかと試みるが……。


 足音は、遠のくどころか、どんどん近づいてくる。

 振り向いて玲泉との距離を確認する余裕すらない。


 幸か不幸か、書庫に他の人の姿はない。もし本を探している人がいたら、体当たりする羽目になっていたに違いない。


 息が切れる。

 足がもつれそうだ。


 荒い息を吐きながら、いくつ目かわらかぬ本棚を曲がった時。


「《縛蟲ばくちゅう》」


 思った以上にすぐ後ろで、玲泉の声が聞こえた。

 かと思うと、するりと足に《縛蟲》が絡みつく。


 解呪する間もなかった。

 つんのめり、勢いよく前にこけそうになったところを、強く右腕を引かれる。


「きゃ……っ!」


 とっさに、懐の《互伝蟲》が飛び出さぬように、左腕で胸元を押さえる。


 倒れかけたところを、どさりと抱きとめられた。

 鼻に届く、龍翔とは異なる香の薫り。


 明珠を抱きとめたのは、案の定、玲泉だった。

 玲泉は、見上げた明珠と視線が合うと、にこりと微笑む。


「ようやく、追いついた」


 玲泉に寄りかかるような体勢になっていた明珠は、すぐさま離れようとした。

 が、右腕を掴む玲泉の手は離れない。


 息が上がりきった明珠は、話すどころではない。だが、どうしても尋ねておきたいことがある。


「ちょ、張宇さんをどうしたんですか……っ!?」


 乱れる呼吸の中、何とか紡ぎ、睨むように玲泉を見上げると、驚いたように玲泉が目を見開いた。


 かと思うと、楽しげに喉を鳴らす。


「この状況で、自分よりも先に、張宇殿の心配をするのかい?」


「張宇さんに何かしたんですか!?」


 あの張宇が容易くおくれを取るとは思えない。だが、玲泉は術師だ。


 王城内は帯剣が禁じられているため、今の張宇は『蟲封じの剣』をいていない。


 張宇も縛蟲で動きを封じられたのだろうか。

 優しそうな人だと思っていたが、もし張宇にひどいことをしていたら、許せない。


 できるだけ怖い顔を作って、玲泉を睨むと、いなすように玲泉が口角を上げた。


「張宇殿には、何もしていないよ」

「そうなんですか。よかったぁ……っ」


 左腕で胸元を押さえたまま、ほっ、と安堵の息をつくと、玲泉が意味ありげに微笑んだ。


「張宇殿にはね」


「え……?」

 問い返すより早く、明珠の右腕を掴んでいるのとは逆の手が伸ばされる。


「ああ、思い切り引っ張ってしまったせいで、見えてしまったね。……昨日より、薄くなっている。夕べは龍翔殿下につけてもらわなかったのかい?」


「……?」


 玲泉が何を言っているのか、わけがわからない。

 小首を傾げると、不意に首筋を撫で上げられた。


「ひゃあっ!?」


 くすぐったさに、すっとんきょうな声が出る。


「……ああ、そうだ。その上に、わたしの花びらをつけたなら、かの君はどんなお顔をなさるかな?」


「あ、あの……っ!?」


 くすくす喉を鳴らしながら、玲泉が身を寄せてくる。

 明珠は焦った。


(《互伝蟲》に気づかれたらどうしよう……っ!)


 胸元を押さえた左手に力をこめ、心の中で必死に「かえって」と念じる。


 懐から《互伝蟲》の気配が消え、ほっとしたのも束の間。


 くい、と玲泉が明珠の顎を掴み、持ち上げる。

 逃げようとした背中が、本棚にぶつかる。


「れ、玲泉様っ!?」


 強くなる、香の薫り。

 身を屈めた玲泉の吐息が首筋を撫で――。


  ◇ ◇ ◇


「お兄様っ!?」


 突然、椅子を蹴り倒さんばかりの勢いで立ち上がった龍翔に、初華が目を円くする。


 が、かまってなどいられない。


「すまんが急用だ!」


 挨拶を言う暇さえ惜しく、身を翻す。


 追いすがる初華の声を無視し、乱暴に扉を開け放つ。

 廊下を駆ける龍翔を、何事かと侍女が振り返るが、意識の端にすらのぼらない。


「龍翔様! どうなされたのですっ!?」


 追いかけてきた季白を振り返りもせず、短く告げる。


「《互伝蟲》に明順の声が届いた。玲泉が現れたと……っ!」


 切羽詰まった明珠の声。

 その響きを思い出すだけで、焦燥に胸が焼ける。


「玲泉様がっ!? 張宇は何をしているのです!?」


 季白の声が責める響きを帯びる。

 が、聞きたいのは龍翔も同じだ。


 張宇には『破蟲の小刀』を渡してある。そうそう玲泉に後れを取るとは思えないが……。


 全速力で瑪瑙宮を飛び出す。

 向かう先はもちろん書庫だ。


 衣を翻して駆ける龍翔と季白を見た者が、ぎょっとしたように目をくが、知ったことではない。


「くそっ! 明順に指一本でもふれてみろ。叩っ斬ってやる……っ!」


 龍翔は低く呟き、ぎりっ、と奥歯を噛みしめた。


  ◇ ◇ ◇


 嵐のように龍翔が出て行った部屋で。


 あっけに取られて兄の背を見送った初華は、ゆっくりと口元を緩ませた。


 あれほど慌てた兄の姿を見たのは初めてだ。

 しかも、おそらく《互伝蟲》だろう。龍翔の懐からかすかに聞こえた高い声……。


「これは、何か楽しいことが起こっているみたいね?」


 誰にともなく一人呟くと、初華は楽しげに喉を震わせた。

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