23 とっても危険なおつかいです? その1
「えっ!? 黒曜宮の外に出られるんですか!?」
張宇の言葉に、明珠はすっとんきょうな声を上げた。
昨日、季白から決して黒曜宮から出ないようにと厳命されたばかりなのだが。
明珠の言葉に、張宇の隣に立つ龍翔が、安心させるように微笑む。
「今日、行ってもらうのは人目の少ない書庫ゆえ、季白の命は気にせずともよい。張宇に、何冊か本を探してほしいと頼んでいるのだがな。『蟲語』の本が混ざっているのだ。だが、わたしも季白も忙しくてな……。第三書庫はふだんはほとんど人がおらん。お前が『蟲語』を読む姿を見る者もおるまい。どうか、張宇を手伝ってはもらえぬか?」
形良い眉を寄せて、困ったように吐息する龍翔に、
「そういうご事情でしたら、頑張って探してきます!」
と、ぐっ、と拳を握りしめて答える。
『蟲語』は特殊な言語なので、ふつうは術師しか読み書きできない。術師でのないのに読み書きできる季白が規格外なのだ。
「すまないな」
申し訳なさそうに龍翔に、「とんでもありません!」と大きくかぶりを振る。
「私でも龍翔様のお役に立てることがあるなんて、嬉しいです!」
尊敬する龍翔の役に立てるのならば、書庫中の本の中から探し出してみせる。
「もし、お前が気になる本があったら、張宇に聞いて借りてきてもよいぞ? 宮にいる間、暇だろう?」
龍翔が優しく笑って提案してくれるが、明珠は恐縮してぷるぷると首を横に振る。
「わ、私なんかでも読める本があるんでしょうか……? それに、読むものでしたら、季白さん特製の教本がありますから! まだ全然暗記できてませんし……!」
「努めてくれるのは嬉しいが、無理はしなくてよいのだぞ? 季白の指示が大変なら、すぐに言え。わたしがとりなす」
「えっ!? 大丈夫ですよ! 龍翔様にそんなお手数をかけては申し訳ないです!」
顔をしかめた龍翔に、とんでもないと固辞する。
「……張宇。明順に、心楽しくなるような読み物でも探してやってくれ……」
「かしこまりました。……正当な理由ができて、俺も心苦しさが軽減されます……」
龍翔と張宇が低い声を交わす。
「ところで。これを持ってゆけ」
龍翔が《
《互伝蟲》は、二匹一組の蟲で、一方に向かって話した言葉を、もう一方から聞くことができる。
とはいえ、『蟲語』しか伝わらないため、術師同士でしか会話できない上に、距離が離れると声が届かないのだが。
「もしかしたら、また玲泉に会うやもしれぬ。張宇がいるので大丈夫だと思うが、玲泉の姿を見かけたら、すぐに身を隠して、わたしに連絡するのだぞ。玲泉だけではない。他の者でも、万が一からまれたり、何か困ったことがあれば、すぐにわたしを呼べ。何があろうと駆けつける」
「で、ですが……」
公務で忙しい龍翔を、明珠などが呼び出していいものだろうか。
ためらっていると、龍翔が安心させるように明珠の頭を優しく撫でる。
「今日の午後は、公務ではなく別の用ゆえ、遠慮せずともよい。それよりも、お前の身に何もないことの方が大切だ」
明珠の存在が、禁呪を隠している龍翔の弱点なのは、疑いようがないのだ。
「わかりました。では、何かあった時には連絡させていただきます!」
《互伝蟲》を両手で包み込み、頭を下げると、龍翔が「よし」と満足そうに頷いた。
「張宇。くれぐれも明順を頼むぞ」
「かしこまりました」
張宇が表情を引き締める。
「わたしも間もなく出るから、先に出るといい」
「はい! では行ってまいります!」
◇ ◇ ◇
「ここが書庫……」
張宇に案内された書庫に、一歩足を踏み入れた明珠は固まった。
書庫の建物を見た時から、大きいとは思っていたが、まさか本当に中が全部書庫だったとは。
入口の明珠からは、奥がまったく見えない。まるで果てがないかと思うくらい、ずらりと本棚が並んでいる。
どの棚にも、巻物や冊子、木簡や竹簡が整然と収納されている。
第三書庫というからには、第一、第二書庫もあるはずだ。
この王城だけで、どれだけの書物が収められているのかと思うと、気が遠くなりそうだ。蚕家の離邸も膨大な書物が収められていたが、規模が違う。
「ちょ、張宇さん……。どうしましょう……」
泣きそうな声で隣に立つ張宇の袖を掴むと、明珠を振り向いた張宇が、ぎょっと目を見開いた。
「ど、どうしたんだ!?」
明珠は情けなく震える声を紡ぐ。
「龍翔様に頑張って探してきますと約束しましたけれど……。この書庫を探すとなったら、三日三晩を費やしても探せるかどうか……。迷子になっちゃいそうです……」
「ふはっ」
告げた途端、張宇が吹き出す。
「心配しなくても大丈夫だよ。ちゃんと分類ごとに整理されているから、一冊一冊調べなくてもいい」
「そうなんですか?」
明珠はもう一度、本棚の大森林を見回す。
「最初に分類した人は、ほんとすごいですねぇ……」
「ぶははっ」
感心しきりの明珠の口調が面白かったのか、張宇がふたたび吹き出す。と、あわてたように口元を片手でふさいだ。
「危ない、危ない。あまりうるさくしていると、
「
「第三書庫の司書長殿だよ。ここの
張宇の言葉に、明珠は思わず両手で口をふさいだ。
見通しが悪くて、この広い書庫に何人がいるのかはわからないが、おそらくあまり人はいないに違いない。
書庫内はしん、と静まり返っている。ふつうに話している声でも、下手したら響きそうだ。
明珠のせいで、張宇、ひいては龍翔に迷惑をかけるわけにはいかない。
「大丈夫だよ。ふつうの声で話す分には、怒られたりしないから」
笑いながら、安心させるように明珠の頭をぽふぽふ撫でた張宇が、
「で、明順はどんな読み物が好みなんだい?」
と尋ねてくれる。
「え? 本ですか……?」
「そうそう。龍翔様が、明順が宮にいる間、暇だろうから好きな本を借りてこいとおっしゃていたからね。第三書庫なら読み物の棚もあったはずだし、何でも明順の好きなものを借りていこう」
「で、でも……」
優しい声音の張宇の言葉に、明珠は困って視線をさまよわせる。
「そ、その……。私、本ってあんまり読んだことがなくって……。あっ、母さんが持っていた蟲招術の本は何度も繰り返し読んだんですけど! でも、読み物は……。その、本って高価じゃないですか……」
話すうちに、どんどん声が小さくなってしまう。
質の良い紙自体、庶民には高価なものだ。
本となると、その高価な紙が何十枚と必要なわけで。とてもではないが、貧乏人の明珠が手を出せる代物ではない。
そうした庶民のために貸本屋もあるが、実家にいた頃の明珠は、娯楽に費やせるお金など、一銭もなかった。
だから、明珠が知っている読み物といえば、まだ母が生きていた頃、母が呼んでくれたおとぎ話のたぐいくらいだ。
もう全部、頭の中に入っているからと、ずっと昔に、泣く泣く質に入れたが。
「あっ、あと、順雪の
急にわしわしと頭を撫でられて、明珠は驚いて背の高い張宇を見上げる。
「今日は、明順が気に入る本を見つけて帰ろうな!」
「ええっ!? 龍翔様のおつかいなんですから、先に頼まれた本を探さないと……っ!」
「明順は、ほんと真面目だなぁ」
頭を撫でる張宇の手は止まらない。
大きな手は優しくて、安心感に包まれる。
「張宇さん。どんな分類で本棚が並んでいるのか、教えてもらえますか?」
「ああ――」
ようやく手を止め頷きかけた張宇が、不意に、鋭い視線で、書庫の入口を振り返る。
そこにいたのは。
無言で張宇が一歩踏み出し、明珠を背に
張宇が睨みつけているのは、たった今、書庫に入ってきた玲泉と、供らしき二人の若い男だった。
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