20 まさか湯殿に乱入です!? その2


「うぅ……」


 頭がぼうっとしてくらくらする。気持ち悪い。

 夕飯が喉元までせりあがってきそうだ。


 湯殿の中よりはましとはいえ、脱衣場も湿気のせいで、空気が絡みつくように重い。


 明珠は浅く呼吸しながら手早く身体を拭き、肌着と男物のお仕着せを着た。さらしは省く。


 今、さらしをきつく巻いたら、確実に吐くだろう。

 団子にした髪も濡れたままだが、後でいい。今は一刻も早く廊下へ出たい。


 乱雑にたたんだ着物を抱え、廊下へ通じる扉を開け。


 流れ込んできた涼しい空気に、一息つく間もなく。


「明順!? なんですか、そんな格好で飛び出してきて!」


 運悪く、風呂へ来た梅宇と鉢合わせる。


「ば、梅宇さん……」


 口を開きかけた明珠は、途中で唇を引き結ぶ。

 ダメだ。気持ち悪い。ぐらぐらする。


「ちょっと!? 明順!?」


 立っていられなくて思わずしゃがみこむと、あわてふためいた梅宇の声が降ってきた。


 が、吐き気に耐えるのに精いっぱいで、答えるどころではない。と。

 あわただしい足音が聞こえ。


「何があった!?」


 焦った声と同時に、力強い両腕に抱き上げられる。


 ふわりとたゆたう香の薫りに、誰何すいかせずとも、誰なのかわかる。


「梅宇! これはいったい!?」


「わ、わたくしにもさっぱり……。出てきたかと思うと、急に……」

「ゆ、湯あたりですから……っ。だいじょ――」


 気持ち悪さをこらえて何とか言葉を絞り出すと、眉を寄せた龍翔に顔をのぞきこまれた。


「真っ赤な顔で苦しそうにしていて、何が大丈夫だ!?」


「す、すみま――」

 と、龍翔が安堵したように吐息する。


「だが、湯あたり程度でよかった……。《氷雪蟲ひょうせつちゅう》」


 ひやり、と冷気が頬にふれる。

 龍翔が喚んだのは、甲虫に似たさほど大きくない虫だ。


 《氷雪蟲》が氷でできているかのような硬質な質感の羽をはばたかせるたび、冷気が漂う。


 火照った顔に当たるひやりとして空気が心地よく、明珠はほっと息をついた。


「梅宇。お前は湯を使うところだったのだろう? 明珠はわたしが部屋へ連れて行くから、気にせず風呂に行くとよい」


 言うなり龍翔は、梅宇の返事も待たずに、明珠を横抱きにしたまま歩き出す。


 恥ずかしさで、ふたたび顔が火照りそうだ。


「あ、あの……っ」


 下ろしてもらおうと口を開きかけると、明珠の考えを読んだかのように、龍翔に機先を制された。


「遠慮などいらぬから、じっとしていろ。というか、髪も濡れたままではないか」


「す、すみませんっ! お着物が!」


 絹の着物を濡らしては、と身を離そうとすると、逆にぎゅっと抱き寄せられた。


「濡れるなど、何ほどのこともない。大人しくしていろ」


 龍翔が肩で扉を押し開け、私室に入る。氷雪蟲も飛びながらついてきた。


「寝台で横に……。ああ、この髪では濡らしてしまうか」


 今日、昼間に張宇に手伝ってもらって運び入れた衝立ついたての向こうへ明珠を連れて行こうとした龍翔が、途中で足を止める。


「固いが、許してくれ」


 代わりに龍翔が明珠をそっと横たえたのは、卓の近くの長椅子の上だ。


「大人しく横になっていろよ」


 命じた龍翔が離れていく。

 氷雪蟲が明珠の頭近くの長椅子の背もたれに止まった。


 そよそよと漂ってくる冷気が、火照った身体に心地よく、明珠は身体を弛緩させ、息を吐く。


 まだ、吐き気は収まらない。この後は着替えて眠るだけだし、龍翔の言う通り、しばらく大人しくしていた方がいいだろう。


 龍翔が離れたので、明珠は少しだけ、着物の合わせをくつろげ、深呼吸する。と。


「髪をほどいてもよいか?」


 思いがけず近くから龍翔の声が降ってきて、明珠は驚いて目を開けた。


 何枚かの手拭てぬぐいを手にした龍翔が、長椅子のそばに、一人掛けの椅子を持ってきている。


「濡れた髪のままで、風邪をひいては大変だろう?」

「だ、大丈夫ですよ。後で自分で……」


 髪へ手をやり、指先にふれた髪の冷たさにびっくりする。濡れたところに氷雪蟲の冷気が当たったせいで、火照った顔とは対照的に、驚くほど冷たい。


「お前が風邪などひいたら、心配で何も手につかなくなる」


 言いながら、龍翔が髪を団子に束ねていた紐をほどく。


「張宇達も心配するぞ」

 そう言われては、かたくなに断りにくい。


 明珠がまごついているうちに、龍翔が手拭いで明珠の髪を拭き始める。手拭いで明珠の髪を挟みこみ、水気を取っていく手つきは、驚くほど優しい。


 なんだか、小さい頃、母に洗い髪を拭いてもらったことを思い出す。

 季白に見られたら、「龍翔様に何をさせているのです!?」とものすごく怒られそうだが。


 大きな手の安心感に、目を閉じ、ゆっくりと呼吸していると。


「少しは落ち着いたか? 冷やし過ぎてもよくないだろう。《氷雪蟲》は還すぞ」


 龍翔の言葉に、明珠ははっとして目を開けた。


 初めての王城で緊張の連続だったせいだろう。気持ちよさに、半分、眠りかけていた。


「は、はい! もう大丈夫です! すみませんでしたっ!」

「まだ横になっていていいのだぞ?」


「いえっ、もう大丈夫です! 龍翔様にはご迷惑をおかけしまして……」


 頭を下げると、生乾きの髪がばさりと落ちてきた。

 後でくしこうと思いながら、紐でひとまとめにする。


「この程度のことで気にするな。が、なぜ、のぼせるまで入っていたのだ?」


 不思議そうに問われて、「ええと」と口ごもる。


「その、たまたま梓秋さんと梓冬さんに湯殿で一緒になって、出る機会を失ってしまって……。あっ、そういえば」


 明珠は湯殿でのやりとりを思い出す。


「龍翔様は、『花びら』って何のことかご存知ですか?」


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