19 天の甘露に等しいです?
「ほう、よい匂いだな」
「龍翔様! お帰りなさいませ!」
「午後はどのように過ごしていたのだ? 梅宇達によくしてもらったか?」
厨房に入ってきた龍翔が笑顔で歩いてくる。
「はい! 張宇さんに黒曜宮の中を案内していただいて、
笑顔で答えると、龍翔が安心したように明珠の髪をくしゃりと撫でる。
「そうか、それはよかった。今は夕食の手伝いか? お前の料理を食べられるのは久々だな」
「いえ、私はただお野菜の皮むきをしたり、切ったりしただけですよ? でも、やっぱり王城ってすごいですねえ! 見たこともない調味料もいっぱいで! 道具も全部きちんと手入れされていて……っ」
興奮して、思わず拳を握って報告すると、龍翔が破顔した。
「そうか、それは夕食が楽しみだ」
「そういえば、龍翔様はお昼ごはんはどうされたんですか?」
午前中に黒曜宮から出て行った龍翔は、夕方の今になるまで、一度も戻ってこなかった。
明珠の問いに、龍翔が困ったように眉を寄せる。
「久々に王城に戻ったゆえ、何かとばたばたしていてな……。うっかり食べそこねてしまった」
「そんなっ」
明珠が顔をしかめたのに気づいた龍翔が、あわてて言を継ぐ。
「いや、行く先々で茶だの菓子だの供されたのでな? さほど腹が減っているわけでは……」
「お菓子がいっぱい食べられるのは素敵ですけれど、お菓子だけじゃお身体がもちませんよ? ちゃんとご飯を食べてください! その、龍翔様がお忙しいのはわかりますけれど……。心配です」
余計なお世話かもしれないと思いつつも告げると、なぜか再び頭を撫でられた。
「そうだな。今後は気をつけよう。お前とともに過ごせる時間であることだしな?」
「龍翔様、
黙して龍翔と明珠のやり取りを見守っていた梓秋が口をはさむ。
「安理だけならば、先に食べよう。安理のことだ。他で食べてくる可能性もあるからな」
「かしこまりました。では、すぐにご用意いたします。明順、手伝ってもらえる?」
「はいっ!」
「わたしも何か手伝うことはあるか?」
龍翔の申し出に梓秋が目を
「とんでもないことでございます! 龍翔様にお手伝いいただくなど! ご公務でお疲れなのですから、ごゆっくりなさってくださいませ!」
「何を言う? 働いているのはお前達も同じだろう? わたしだけ休む理由がない」
柔らかに微笑んだ龍翔が梓秋が料理を盛りつけた皿を手に取る。
何だか龍翔が手にしただけで豪華な料理がさらに美味しそうに見える不思議さに、明珠は目を
◇ ◇ ◇
「……へ? なんで龍翔様がかいがいしくお皿を並べてるんスか?」
食堂をのぞいた安理が、すっとんきょうな声を上げる。
安理に続いて食堂に姿を現した季白も目を
「龍翔様っ!? 何をなさっておいでです!?」
「ああ、たまには梓秋達の手伝いをするのも一興かと思ってな。なかなか楽しいぞ?」
明順の隣で箸を並べながら、龍翔が笑う。
「そんなっ! 龍翔様が手ずから並べてくださった箸で食すなど……っ! 今宵の
季白が感動した様子で声を震わせ、安理が、
「楽しいのは明順チャンといるからじゃないんスか~?」
と、ぼそりと呟く。
「で、安理。頼んだことは調べられたか?」
安理の呟きを無視して龍翔が尋ねると、安理はいつもの、にへら、とした笑みを浮かべた。
「もちろんっスよ! もーっ、ちょーがんばったっス! おなかがペコペコになるくらい!」
「では、食事をとりながら報告を聞こうか」
龍翔が小皿を並べ終えた明珠の手を引き、強引に右隣に座らせる。
「えっ!? 私は下座で十分です! 新参者の私が、こんな上座……っ」
あわてて立ち上がろうとすると、龍翔が腕を掴む。
「お前はわたしの隣でよい。旅の間もそうだったではないか」
「で、でも……っ」
あわあわとやりとりしているうちに、他の席が食堂にやってきた張宇や周康、梅宇達で埋まる。
席がなくなり、明珠は仕方なく、龍翔の隣に腰かけた。というか。
「みんなで一緒にご飯を食べるのは、宮に戻られても同じなんですね」
貴人ならばふつう、従者とともに食事などしないものだと思っていたのだが。
「どうせ食べるのならば、皆と一緒に食べた方が、片付けや給仕の点からも効率的だろう?」
「確かに、みんなで食べた方がおいしいですもんね!」
実家では三人暮らしだったので、三倍もの総勢九人分の料理が並べられた卓の上は壮観だ。もちろん、並んでいる料理の豪華さは、貧乏な実家と比べるべくもないが。
美味しいご飯を食べるたび、龍翔に仕えられる
「で、玲泉サマなんスけど~」
食事が始まってすぐ、安理が口を開く。
「龍翔サマにご報告した後、すぐに様子を見に行って、その後もちょくちょく
安理が言葉を切り、緊張した面持ちで続きを待っている面々を見回す。
「もーっ、いつもとまったくお変わりなかったっスよ? 不調の「ふ」の字も見えなかったっス。むしろ、ご機嫌だったってゆーか」
安理の言葉に、誰ともなく、安堵の吐息が洩れる。
龍翔がゆっくりと頷いた。
「確かに、私も王城を移動している途中、中庭をはさんで別の棟を歩く玲泉の姿を見かけたが、何ら変わったところはなかったな」
「玲泉サマが後宮近くにいた理由の方は、もう少し時間をくださいっス。何か、後宮絡みっぽくって……。ちょっと時間がかかりそうっス。あと、
安理が人の悪い笑みを口元に刻む。
「若くて見目の良い官吏にちょっかいをかけるのがお好きな瓓妃様が、玲泉サマにもちょっかいを出しちゃって。で、
「……宮中は口さがない者が多いからなぁ……」
張宇が苦笑いをこぼす。
冷ややかな声で応じたのは季白だ。
「瓓妃様は第一皇子の御生母という地位と、ご自身も大貴族の娘という身分をかさに、高慢なふるまいが目につきますからね。むしろ、いい気味です」
侮蔑混じりの季白の笑みに、明珠はそら恐ろしい気持ちになる。
「しかし……。吐くほど女人にふれられるのが駄目だというのに、なぜ明順は大丈夫だったのだ?」
龍翔がいぶかしげに眉を寄せる。
「さあ?」
と安理が肩をすくめた。
「それについては、何とも言えないっス。もう一度、試し――、いえ、冗談っス」
龍翔に睨みつけられた安理が、怯えた様子でぷるぷるとかぶりを振る。
「なぜかはわからんが、明順の正体を知られずに済んだのだ。
「くぷー。龍翔様、巧いこと言いますね♪」
玲泉の家名「蛟」は、蛇に似た水に
皇家の象徴が『龍』である龍華国において、龍に近しい名を持つ蛟家の格の高さがうかがえる。
「よいか、明順。どこからどう、お前の正体が明らかになるかわからぬ。玲泉を近づけさせる気などそもそもないが、お前も重々、注意せよ」
「は、はい!」
龍翔の厳しい物言いに、明珠はこくこくと何度も頷く。
季白が疑わしげに明珠を睨みつけた。
「本当にわかっているんでしょうねっ!? 玲泉様自身は、表立ってどの皇子を支持していると公言していませんが、お父上の大臣は、第三皇子派と目されています。もし禁呪のことがばれてごらんなさい! 龍翔様の政治生命どころか、お命まで危険にさらされるのですよ!? あなたの命が万あっても
「は、はいぃぃっ!」
季白の剣幕に、全身を恐怖に震わせ、半泣きになりつつ返事をする。
「季白。気持ちはわかるが、あまり明順を追い詰めるな。可哀想だろう?」
よしよしと頭を撫でながら庇ってくれたのは、隣に座る龍翔だ。
「この宮から出さねば、そうそう玲泉に会うこともあるまい。玲泉も差し添え人に選ばれているのは警戒せねばならんが……。常にわたしや張宇がついていればよいだろう?」
「……龍翔サマがつくのは、やめられた方がいーんじゃないっスかね? 逆に目立つっスよ?」
おそるおそる口をはさんだのは安理だ。
周康や梅宇達が、なぜかしみじみと頷く。龍翔が秀麗な面輪をしかめた。
「……仕方あるまい。では、人目があるところでは、張宇に任せる」
「かしこまりました」
形良い眉を寄せ、ものすごく不満そうに告げられた龍翔の言葉に、張宇が穏やかに笑って一礼する。
「ところで、
季白の問いに、龍翔が
「ああ、さすがに今日は無理だったからな。明日の朝、正式に差し添え人の任命を陛下より
「龍翔様が訪れられれば、初華姫様もさぞかしお喜びになられることでしょう」
張宇が顔をほころばせる。
「また無茶を言われなければいいのだがな」
答える龍翔の表情は、言葉とは裏腹に楽しげだ。
龍翔の妹ならば、きっと目を見張るほどの美人なのだろうと。明珠は隣に座る主人の秀麗な面輪を見上げ、まだ見ぬ初華姫の姿を想像した。
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