15 厄介な方に目をつけられちゃいました⁉ その1


「……っ!」


 歓声を上げそうになって、明珠はあわてて右手で口元を押さえる。


 王城をぐるりと囲む高い城壁の何ヶ所かに設けられているという通用門。

 その内の一つで、安理が門番の兵士に通行許可証を提示し、中へ入ることを許された王城は、まさに別世界だった。


 門からはちり一つない石畳が奥へと真っ直ぐに伸び、その先には、初夏の陽光にいらかを煌めかせる立派な建物がいくつも見える。

 朱に塗られた柱と白壁の対比が目に痛いほどあざやかだ。石畳の両側に茂る低木の新緑が、爽やかな色彩を添えている。


 計算された配置で植えられた木々は、今を盛りと花々が咲き乱れ、馥郁ふくいくたる香りをたゆたわせている。まるで、城壁を境に、空気すら一変したかのようだ。


「うんうん。叫ばずに頑張ったね~。龍翔様の宮はこっちだからついておいで」


 小さい子どもを褒めるような口調で言った安理が手招きする。

 あちらこちらへと思わず左右を見回してしまいそうになるのを意志の力で押さえつけながら、明珠は安理の一歩後ろをついていく。


「広い上に、いくつもの建物があるんですね」


「まーね。でも、無理して覚える必要はないよ。明順チャンは龍翔サマ付きだから、基本龍翔サマの宮……あ、黒曜宮こくようきゅうって呼ばれてるんだけど、そこから出ることはないだろーし。もし迷子にでもなったら、一大事だからね♪」


「た、確かにこれは、迷子になりそうな広さですね……」


 低木が多いとはいえ、木立がよく茂っていて見通しがよくない上に、似たような様子の建物がいくつもあるので、正直、今から門のところへ戻れと言われても、戻れる気がしない。


 途中、何度か下男や下女らしき質素な服の者達とすれ違う。

 従者の間にも位があるのだろう。下男達が無言で頭を下げる前を、安理は会釈もせずに通り過ぎていく。


 人前では口を開かぬよう言い含められているので、明珠も安理の真似をして、小走りにならないよう、気をつけながら通り過ぎた。


 これが通常なのか、それとも龍翔が登城した効果なのかはわからないが、広さの割に、滅多に人と行き交わない。


 明珠に合わせてゆっくりと歩いてくれる安理の後について、どれほど歩いただろう。


 左手に王城の壁にも劣らぬ高い壁が見えてきて、明珠は首を傾げた。と、後ろに目がついているかのように、安理が口を開く。


「ああ、あの壁? あの壁の向こうにあるのは……なんだと思う?」


 にやにやと笑いながら安理が振り返る。

 明珠は眉を寄せて季白の講義を思い出そうとした。が、よく考えると部署の名前などは教えてもらったが、王城の位置関係についてはまったく教えてもらっていない。


「すみません、わかりません……。何なんですか?」


 聞き返すと、歩調を緩めて明珠の隣に並んだ安理が、悪戯いたずらっぽく口元を緩ませた。


「あの壁の向こうこそが、豪華絢爛な百花が薫り立つ魅惑の花園! 後宮だよ♪ ってまあ、人によっては、きらびやかな牢獄かもしれないケドね」


「後宮……」


 明珠はじっと、高い壁を見上げる。後宮を囲む立派な壁は、王城を囲む壁と遜色そんしょくのない高さと堅牢さだ。


「でも、どうしてあんなに高い壁で囲まれているんですか?」


 素朴な疑問を口にすると、安理が驚いたように目を見開いた。かと思うと、すぐにいつもの軽やかな笑みを浮かべる。


「んー。なんていうか、大事な花を守るため? ま、明順チャンもいつか――」


 何やら言いつつ、木立を曲がった安理が、不意に顔をこわばらせる。


 安理の視線を追った明珠は、そこにきらびやかな服をまとった美しい青年と、官吏らしき男の二人を見た。


 こちらの気配に気づいたのか、振り向いた身なりのよい青年と、ばっちり目が合う。


「なんでよりにもよって、玲泉れいぜんサマがこんなとこにいるんスか……っ!」


 珍しく、本気で焦った声で呟いた安理が、明珠を背中に庇うように前に立つ。

 が、その時には玲泉と呼ばれた青年が、こちらに向かって歩き出していた。


「ああくそっ、見つかった……っ! 逃げるわけにもいかないし……っ」


 安理か今まで聞いたことがないような苦い声を出す。


「明順チャン、両膝ついて拱手の礼して頭下げてて! 絶対、顔を上げちゃダメだよ。オレが対応するから、口つぐんでて!」


 低い早口に促され、明珠はあわてて安理にならって地面に両膝をつき、深くこうべを下げる。


 さくさくと芝生を踏みながら、ゆったりとした足音が近づき、明珠達のすぐ前で止まり。


「久しいな。確か安理と言ったか。龍翔殿下のおそばに侍らずともよいのか?」


 耳に心地よい柔らかな声が、楽しげに安理に問いかける。


「わたくしのような卑賎ひせんな者が龍翔殿下のおそば近くに侍り、皇帝陛下に拝謁する栄誉を賜るなど。とんでもないことでございます」


 こうべを深く垂れたまま、安理がうやうやしく応じる。


 ふだんの安理からは想像できない謙虚さに、明珠は内心でひそかに驚く。が、指示された通り、うつむいまま、じっと動かない。


 この高官らしき身なりのよい青年は、どうやら安理と顔見知りらしい。

 軽く世間話でもして別れるのかと思いきや。


「ところで、見慣れぬ者を連れているな」


 玲泉れいぜんの言葉に、明珠は肩を震わせた。

 安理が即座に応じる。


「はい。このたび、新しく従者として雇い入れることになりまして。張宇殿と梅宇ばいう殿の遠縁で、明順と申します。梅宇殿達ももうよいお年……。よく働く若者の手が必要なことも多くなってまいりましたので」


「なるほど。張宇殿と梅宇殿の遠縁か。ならば、身元も確かだな」


 玲泉の視線が自分に注がれているのを感じて、明珠は緊張に身を強張らせる。


「ところで、玲泉様はこんなところにいてよろしいのですか? 今頃、高官の方々は……」

「わたしのことはよいだろう?」


 話題を逸らそうとした安理の言葉を、柔らかに、しかし有無を言わさぬ様子で、玲泉が断ち切る。


「それよりも、龍翔殿下に新しい従者がつくとなれば、話題の的になるであろうからな。いち早く見かけたわたしの幸運に感謝しよう」


 安理が恐縮しきった声を上げる。


「とんでもございません。縁続きで雇われただけの少年が、皆様の噂の的になるなど……。宮中の作法も知らぬ田舎者でございます。どうぞ、寛大なお心でお捨て置きくださいませ。噂になさるのでしたら、もっと……」


「なに。ここで出会ったのも何かの縁。顔を見知っておれば、宮中で見かけた時に力になってやれることもあろう。龍翔殿下の片翼、張宇殿の縁者となれば、恩を売る機会を見逃すわけにはいかぬからな」


 ふたたび安理の言葉を遮った玲泉が、明珠に命じる。


「明順とやら。許す。立っておもてを上げよ」


 明珠は深くうつむいたまま、無言で肩を震わせた。


 安理の言いつけを守って黙っていればよいのか、玲泉の命令に従えばよいのか、どちらのほうがよいのか、全く判断がつかない。


「玲泉様。明順は玲泉様の高貴さに打たれ、立ち上がることもかなわぬ様子。宮中にあがるのも初めてなのです。どうかご容赦を」


「おや。お前ともあろう者が、やけにかばうではないか」

 玲泉が楽しげに喉を鳴らす。


「これはますます興味深い。明順とやら。立てぬのなら、わたしが立たせてやろうか?」


「っ、いいえ!」

 玲泉の言葉に、明珠は弾かれたように声を上げた。


「不作法者ゆえ、高貴なお方のお声かけに緊張してしまい……。失礼をいたしました」


 緊張に震える声で告げ、明珠は一度、深く頭を下げる。


 安理には話すのを禁じられたが、高官らしい青年の不興を買って、安理ひいては龍翔が責められるくらいなら、ここで明珠が素直に命令に従ったほうがいいだろう。


 多少、身分が高い者特有の傲慢さを感じはするが、玲泉は口調も声音も柔らかい。素直に従えば、満足して去るかもしれない。


 明珠はそろそろと立ち上がると、顔を上げて真っ直ぐに玲泉を見た。


 玲泉は遠目に見た時の印象通り、いかにも良家の子息といった風情の美青年だった。刺繍ししゅうが施された絹の衣をまとった姿は、一幅の絵のようだ。


 彼が何者かはわからないが、きっと武官ではなく文官だろう。この優美な青年が剣を振るう姿は想像できない。それよりも、書をしたためている姿の方が、しっくりとくる。


 明珠と視線があった玲泉がわずかに目を見開き、明珠はあわてて視線を伏せた。もしかしたら、高貴な方を見つめるのは、不躾ぶしつけだったかもれしれない。


 玲泉が意外そうな声を出す。


「張宇殿にも梅宇殿にも、あまり似ておらぬな」


「遠縁でございますので。それに張宇殿と梅宇殿も、甥と伯母ですが、あまり似ておらぬでしょう?」


 立ち上がる許可を得ていない安理が、片膝をつき、頭を下げたまま答える。


 明珠はまだ梅宇の顔すら見ていない。細かいことを聞かれたりすれば、すぐに身元を偽っているのがばれるだろう。背中にじわりと冷や汗が浮かぶ。


 と、玲泉がからかうような声を出した。


「あの二人は、気性は似ておらぬが、顔立ち自体はよく似ておろう。だが、この少年は――」


 玲泉が、す、と手を伸ばす。

 明珠は思わず身構えた。


 かと思うと、ぐいっと着物の上から左腕を掴んで引かれる。


 とす、と明珠がぶつかったのは。


「ヤダな~。玲泉サマなら、遊び相手なんてよりどりみどりでございましょ? オレ、張宇サンと梅宇サンに睨まれるのは勘弁なんで、ご遠慮くださいっス」


 素早く立ち上がった安理が、明珠を背に庇い、玲泉の腕を掴んでいた。


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