10 惑わされ、揺らめいて。


「明珠っ⁉」


 目を見開き、身体ごと明珠に向き直った龍翔が、左手で明珠の右手首を掴み、身を寄せる。


「どうした⁉ その顔は――」

 同時に、龍翔の大きな手のひらが明珠の頬を包み込む。その瞬間。


「ひゃあぁっ!」


 全身を走り抜けたさざなみに、明珠は悲鳴をほとばしらせた。


「だ、だめです……っ」

 無意識に、左手で頬にふれる龍翔の右手を外そうとする。が。


「ん……っ」

 指先が龍翔の手にふれただけで、甘いしびれが身体中に走る。


「め、明珠⁉」

 黒曜石の瞳を見開いた龍翔の指先が、頬をすべる。


「やっ、んん……っ」

 それだけで、自分でも抑えきれぬ声が洩れる。


 いったいどうしてしまったのだろう。

 まるで、熱に浮かされたように思考がまとまらない。


 身体中が熱くて、ぞくぞくする。まるで、身体の芯に、真っ赤に熱した炭を押し込められたかのようだ。


 ひどく、喉が渇く。

 身体の中にとどめきれぬ熱が、荒い息となって口からこぼれる。


 身体の熱さに、思考までが融けてゆく。


「っ!」


 龍翔が頬にふれていた右手を握りこむ。白く骨が浮き出るほど、固く。


 甘い漣を引き起こす指先が離れ、ほっとすると同時に、一抹の寂しさがわき起こり、明珠は潤んだ瞳で主を見上げた。


「くそっ、やられた……っ」


 怒りを隠そうともしない低い声に、びくりと身体が震える。


「龍翔、様……?」


 霞がかったようにぼうっとする頭でも、龍翔がとんでもなく怒っているのだけは、わかる。


 黒曜石の瞳が、苛烈な怒気で炯々けいけいときらめいている。

 刃のようなまなざしは、ふれるもの全てを刺し貫くかのようだ。


「龍翔様、私……」


 荒い息を吐き出すと、龍翔がひるんだように身じろぎした。


 ごくり、と龍翔の喉仏が大きく上下するさまが、妙にはっきりと目にきつく。


 明珠の右手首を掴んでいる手に力がこもり、身体にふたたび甘いしびれが走る。

 ぞくぞくと、背中が粟立つ。


 頭に濃い霧がかかったようで、思考がまとまらない。


「わ、私……。どうしたら……?」


「だ、大丈夫だ」

 不安に震える声を紡ぐと、龍翔が即答した。


 けれども、黒曜石の瞳は逃げるように明珠から逸らされている。


 いつもの龍翔なら、相手を真っ直ぐ見つめるのに。

 外された視線に、不安がどんどん大きくなる。


 奥歯を噛みしめ、唇を引き結んださまは、激情をかろうじてこらえているかのようだ。背けられた横顔は、厳しく、固い。


 拒絶をあらわにした表情に、明珠はじわりと涙が浮かぶのを感じる。


 申し訳なさすぎて、胸が痛い。

 龍翔は、明珠を気遣って順雪に会わせてくれたというのに。明珠は龍翔の役に立つどころか。


「す、すみませんっ、私……っ」


 今にも泣きだしそうなほど、潤んだ声をこぼすと、龍翔がぎょっとしたように明珠を振り向いた。


「私……っ、熱を出しちゃったみたいです……っ!」


「…………は?」


 龍翔がかすれた声を洩らす。

 かまわず明珠は言葉を続けた。


「身体がぞくぞくして、すごく熱いんです……っ。頭だってぼうっとして……。これ、きっと風邪ですよね⁉ 王都に戻る大事な時期に、すみません……っ」


 寝不足がたたったのだろうか。風邪なんて、ここ数年、ひいたことなどなかったのに。


 龍翔の足を引っ張るなんて、情けなさにまた新たな涙がにじむ。が、手を上げてぬぐうのさえ、おっくうだ。


 身体に力が入らない。

 一気に話した反動か、息が切れて仕方がない。ふらりと身体が傾ぐ。


「おいっ! 本当に風邪なのか⁉」


 とっさに腕を伸ばした龍翔が、明珠の肩を抱きとめる。


 龍翔の手がふれた途端、身体に漣が走り、明珠は小さく声を洩らした。

 大きな手が、動揺したように震える。そのささいな刺激にさえ、身体が反応し、甘く荒い声が洩れる。


「馬鹿者! これが風邪なわけがあるかっ!」


 叩きつけるような声に、弾かれたように顔を上げる。

 怒りに満ちた黒曜石の瞳が、真っ直ぐに明珠を射抜いていた。


「くそっ、お前を……っ」


 ぎりっ、と噛みしめた歯の隙間から洩れたのは、獣の唸りのように低い声。

 秀麗な面輪は、今にも暴れだしそうな激情を無理矢理押さえつけているかのように険しい。


 明珠の不手際がこれほど龍翔を怒らせているのだと思うと、申し訳なさに身を縮めたくなる。


 ただただ、己の無力さに涙がにじむ。

 どうすれば、龍翔の怒りを解くことができるのだろう。


 熱に浮かされて、思考がまとまらない。荒い吐息をこぼすたび、薪をくべられたかのように、身体の中の熱が大きくなっていく。


 混沌とする思考の中で、ふと、泡のように浮かび上がってきたのは。


「どうにも困って、どうしたらいいかわからなくなったら――」

 この後、安理は何と言っていただろう。確か……。


「龍翔、様……」

 ぼうっ、と潤んだ瞳で敬愛する主を見上げる。


「お願いです。お怒りをお鎮めください。どうか――」



 ◇ ◇ ◇



 狂いそうなほどの怒りが、龍翔の胸をき焦がす。


 誰が、いつ仕込んだのかと。

 今まで狙われ過ぎてきた過去ゆえに、生半可な薬は龍翔には効かない。


 だが、まさか明珠に媚薬が仕込まれるなど。


 企んだのは季白か、遼淵か、二人ともか。

 何にしろ、ただではおかない。


 龍翔は怒りのままに脳内で二人を叩っ斬る。己の中に湧き上がる衝動をも、斬り伏せるように。


 思考を別のことに費やさねば、内から湧き上がる飢餓に、すぐにでも陥落しそうで。


 目の前に、頬を薄紅色に染め、荒く甘い吐息をこぼす明珠がいる。


 柔らかな唇からあふれだす蜜の香気に、陶然となる。

 龍翔の指先がふれるたびに洩れる甘い声が、理性をかす。


 華奢きゃしゃな身体を抱き寄せ、なめらかな素肌に指をすべらせたら、どんな音色を奏でるのだろうか。


「龍翔様、私……」


 明珠の声が、龍翔の理性を掻き乱す。

 前屈みになった拍子に、薄物のひだの間から、まろやかな双丘の谷間が見えそうになって、あわてて顔を背ける。


 薄紅色に色づいた果実を、思わずみたい欲望に駆られて。


 ぐびりと生唾を飲み込んだ音が、妙に大きく耳に響く。


「わ、私……。どうしたら……?」

「だ、大丈夫だ」


 不安におののく明珠の声に、反射的に即答する。自分自身に言い聞かせるように。


 嘘でもそう言わねば、身の奥から湧き上がる衝動に、今にも押し流されてしまいそうで。


 視線を逸らしていても、明珠の荒い吐息が、龍翔の理性を揺り動かす。

 放さねば、と理性が叫んでいるのに、のりで貼りつけられたように、明珠から手を放せない。


 わずかに手に力をこめるだけで、明珠が甘い声をあえかにこぼす。

 今、手を放せば、思い切り抱き寄せずにはいられないだろう。


「す、すみませんっ、私……っ」


 今にも泣きだしそうな明珠の声に、思わず視線をやってしまう。

 すがるるような上目遣いと潤んだ瞳に、思わずくらりと理性が遠のきそうになったところへ。


「私……っ、熱を出しちゃったみたいです……っ!」

「…………は?」


 がんっ、と鈍器で殴られたように、頭が白く染まる。


「身体がぞくぞくして、すごく熱いんです……っ。頭だってぼうっとして……。これ、きっと風邪ですよね⁉ 王都に戻る大事な時期に、すみません……っ」


 凍りついた思考が明珠の言葉を理解するより先に、力を失った身体が倒れ込んでくる。


「おいっ! 本当に風邪なのか⁉」


 明珠の身体は燃えているかのように熱い。


 抱きとめた瞬間、ふたたび明珠が嬌声きょうせいを上げる。

 潤んだまなざしも。つやめいた声も。

 ふれるたび、甘やかに反応する身体も、決して風邪のせいであるはずがなく。


「馬鹿者! これが風邪なわけがあるかっ!」


 無防備に狼のあぎとの前に身を晒す明珠に、思わず強い声を叩きつける。


 いたいけな少女に媚薬などを仕込んだ悪辣あくらつさに、吐きそうなほどの怒りを覚える。

 龍翔が、媚薬に溺れた娘に手を出すような慮外者りょがいものだと侮られたことよりも。


「くそっ、お前を……っ」


 決して傷つけたくない大切な少女を軽んじられた怒りに、胸が焦げる。


 解けるものなら、王都に戻る前に禁呪を解いた方がよいことなど、誰に指摘されずとも、龍翔自身が一番よくわかっている。


 だが。

 大切な者を傷つけてまで手に入れる地位に、何ほどの価値があるのか。


 甘いと言われようと、傲慢とそしられようと、龍翔の求めるものは、自分を慕ってくれる少女の純潔を踏みにじってまで進んだ先には、決して存在しえない。


 そんな空虚なもので満足するくらいなら、第二皇子の地位など、とうの昔に捨て去っている。


「龍翔、様……」

 明珠が熱く震える吐息を吐き出す。

 不安のあまり、泣き出しそうな声。


 潤んだ瞳に、胸を突かれる。

 違うのだと。決して明珠に対して怒っているのではない。お前に余計な手を出した者に怒っているだけなのだと言いかけて――ふと、安理の言葉が、脳裏をよぎる。


「手を出されたってお怒りになるくらいなら、ちゃーんとご自分のモノになさっておいたらいーんじゃないっスか?」


 熱をはらんだまろやかな肢体。龍翔を映す潤んだ瞳。

 誘うように蜜の吐息をあえかに洩らす唇。


 心を融かす蜜の甘さを、龍翔はもう、知ってしまっている。


 柔らかな唇にくちづけ、望むままに蜜の美酒を飲み干したら、どれほどの歓喜に酔いしれることができるだろう。


 誰の目にもふれさせぬように、この腕の中に閉じ込めてしまえたら――。

 くらい欲望がゆらりと理性を揺らめかせ。


「お願いです。お怒りをお鎮めください……」


 明珠が切なげに龍翔を見上げる。

 潤んだ瞳に映るのが、己一人であることに、得も言われぬ満足が心を浸す。


「どうか――」


 けれども、まだ足りない。

 底なしの飢えが、甘い蜜を貪りたいと、身の内でえ狂っている。


 その揺らぐ理性の狭間を突くように。


 柔らかな唇が、甘い声で切なく紡ぐ。



「どうか、お怒りを解いて、優しくしてくださいませ……」



 くらり、と頭の奥がしびれたように酩酊めいていし。


 ――蜜の誘惑が、龍翔の理性を、砂糖菓子のように突き崩した。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る