7 泣かせたりしないよ、ワタシは その1


 明珠達が蚕家に着いたのは、夕日が木立の向こうにすっかり落ちようかという頃だった。

 空はもう半分以上が藍色に染まり、白い月が太陽に代わって、蚕家を囲む木々のこずえからわずかに顔をのぞかせている。


 明珠が実家のある町から蚕家に着くまで、徒歩の旅で二日かかったことを考えると、驚くほどの速さだ。


 もっとも、明珠の場合、行商人夫婦と女の足での徒歩の旅だったのに対し、龍翔達の旅は、宿場ごとに馬を交換し、ひたすら王都を目指すという金のかかった旅のため、当然の差だろうが。


 ちなみに昼間、張宇が町でお昼ご飯を見つくろってきてくれた時には、龍翔に指示されたのか、食べきれないほどの量の菓子を買ってきてくれた。


「ご飯もあるのに、こんなに食べられません!」

 と明珠は遠慮したが、


「ならば、また気の向いた時にでも食べるといい。日持ちする菓子を買わせたからな。これでもう、他の者から菓子をもらう必要などないだろう?」

 と、龍翔になかば無理矢理渡された。


 明珠は固辞したが、龍翔も引かず、結局、昼食後とおやつに龍翔と二人でつまみ、残りは明珠の荷物に加えられている。


「待ってたよーっ! 二人とも!」


 蚕家の立派な玄関に着くなり、歓声を上げて明珠達を出迎えたのは、待ち構えていた遼淵りょうえんだった。遼淵の後ろには、家令のさん秀洞しゅうどうも控えている。


「ご、ご当主様っ⁉」


 まさか、当主の遼淵自らに出迎えられるとは思っていなかった明珠は驚いた。

 が、龍翔の身分を考えれば当然かもしれない。当の龍翔は、


「遼淵。お前自らが出てくるなど、人目を集めるようなことをするな」

 と、はなはだ迷惑そうにしているが。


「だって~っ! 愛しの君の到着を、今か今かと待ってたんだよっ⁉ ちゃんと人払いしてるからいーじゃないかっ!」


 遼淵が子どものように唇を尖らせる。

 確かに、玄関にいるのは遼淵と秀洞、それに四十過ぎくらいの侍女が一人だけだ。先に着いていた季白、安理、周康の三人もいる。


「まっ、いろいろと話したいこともあるし、中へ入りなよ。あっ、明珠はこっちねー。じゃっ、後はよろしく~♪」


 突然、明珠の手を掴んだ遼淵が、明珠を侍女の方へ押しやる。


「明珠をどうする気だっ?」

 目を怒らせた龍翔が、逆の腕を掴んで引き留める。


「どうするって……」


 実年齢が四十歳過ぎとは思えない、二十代にしか見えない若々しい顔をこてん、と傾げて、遼淵が龍翔を見やる。


「従者クンや周康から聞いてるよ。「明順」として仕えているせいで、ろくに風呂にも入れていないんだろう? でも、蚕家ココなら遠慮なく入れるからさ♪ 可愛い娘を久々にゆっくりさせてやろうかと思って……。明珠だって、お風呂に入りたいだろう?」


「えっ、お風呂なんて、そんな贅沢ぜいたく……」


 明珠にとっては、たらいに汲んだものであれ、毎日、たっぷりのお湯を使えるだけで、十分にありがたい。

 かぶりを振ろうとすると、腕を掴んでいた龍翔の手が離れた。


「そういうことなら、遼淵の言葉に甘えさせてもらえ。行ってくるといい」


「えっ、でも……」

 龍翔達を差し置いて、明珠一人が湯に入ってのんびりしてもよいものだろうか。


 不安になって龍翔を振り返ると、いたわるような笑顔にぶつかった。


「お前に不便をかけていることは、わたしも気にかかっていた。せっかくの機会だ。遼淵相手ならば、遠慮はいらんからな。好きなだけ、ゆっくりつかってくるといい」


 龍翔の言葉に背中を押されるように、明珠は「ありがとうございます」と頷くと、おとなしく侍女の後についていった。


  ◇ ◇ ◇


「――で?」

 明珠が廊下の曲がり角の向こうへ消えてから、龍翔は遼淵を振り返る。


「わざわざ明珠のために風呂を用意して引き離すとは、何を企んでいる? お前は、そんな気遣いをするような性格ではないだろう?」


 明珠によからぬことを企んでいるのなら、放置できない。

 鋭く睨みつけると、遼淵は「やだなあ~」と明るく笑って肩をすくめた。


「だって、貴重な解呪の手がかりなんだよ⁉ 大事にしない理由がないじゃないか! それに、一応、娘なんだし」


 「娘」であることよりも、「解呪の手がかり」に重きを置いていることを隠そうともしない遼淵の言葉に、頭痛を覚える。


 己の好奇心を満たすことを何より優先する遼淵らしいと言えば、すこぶるその通りだが。


「それに、まだ正式には発表されてないけど、愛しの君には、伝えておきたい話もあるしね~。ま、立ち話もなんだし、とりあえず部屋へ行こうか」


 遼淵が先に立ち、本邸の奥へと案内される。

 人数が多いせいか、案内された先は、遼淵の私室ではなく、一階の奥にある一室だった。


 家令の秀洞は下がり、部屋の中央の大きな卓を囲んで、龍翔、季白、張宇、安理、そして遼淵と周康が椅子に座る。


「で? 明珠との解呪は進んだのかい? もう同衾どうきんした?」


 全員が椅子に座るなり、開口一番、遼淵がとんでもないことを聞く。


「何を馬鹿なことを言うっ⁉」


「ぶっ!」

「ぶぷ――っ!」

 龍翔の怒声に、こらえきれずに吹き出した張宇と安理の声が続く。


「ふざけたことをぬかすなっ!」


 振り下ろした龍翔の拳が、だんっ、と卓を揺らす。が、遼淵は悪びれた様子もない。


「えーっ、だって気になるじゃないかっ!」

「同意もない娘に、わたしが手を出すわけがないだろう⁉」


「同意?」

 きょと、と目を見開いた遼淵が、いっそ無邪気なほどの笑顔で、言い放つ。


「許可なら、父親のワタシが出すよ♪」


「龍翔様っ!」

 左隣に座っていた張宇が、叫ぶと同時に、飛びつくように龍翔の右手を掴む。


 ――帯から『破蟲の小刀』を抜き放とうとしていた龍翔の右手を。


「遼淵」

 地を這うように低い龍翔の声に、全員が顔色を失う。滅多に顔色を変えぬ安理ですら、蒼白だ。


「明珠は、お前が好きに扱ってよいものではないぞ?」


 部屋の空気が冷ややかに張り詰める。呼吸さえひそめ、誰も微動だにしない。

 射殺さんばかりの龍翔の視線を受け止めた遼淵が、不意に、にこやかに笑う。


「わかってるさ! 愛しの君にへそを曲げられちゃ、かなわないからね~っ! ワタシが言いたかったのは、もし、愛しの君が体面なんかを気にしているなら、そんなの気にしなくていいよ~、って伝えたかっただけさ♪」


 龍翔は無言で奥歯をかみしめる。


 人間として欠陥品の男でも、血縁上は明珠の父親だ。

 婚前の娘を傷物にされたら、怒り狂うのがあるべき父親の姿だろうが……そもそも、遼淵に常識を求めること自体が間違っている。


 それに、家父長権が強い龍華国では、父親が己の出世や金のために、娘を道具のように扱う例が多々あることも知っている。が。


「見くびるなよ、遼淵」

 龍翔の声に、季白達が姿勢を正す。


「確かに、禁呪を解くのはわたしの悲願だ。だが、それはわたしが求める大願の過程であって、大願そのものではない」


 またたいた眼裏まなうらに浮かぶのは、花のように笑う少女。


「大切な従者を傷つけてまで禁呪を解くことに、何の価値がある? たとえ、甘いとそしられようが、大道を歩まぬ者が、この国をよりよく導けるものか」


 龍翔の言葉に呼応するように、拱手の礼をとった季白達が、深々と頭を下げる。


「……なるほどね」

 ゆったりと頷いた遼淵が沈黙を破る。


「愛しの君の考えはわかったよ。――で」

 ものすごく楽しそうに目をきらめかせて、遼淵が龍翔を見つめ返す。


「明珠の方から、寵をお与えくださいって頼まれたら、どーするの?」


「っ⁉ それこそありえんだろうっ‼」

 反射的に、叩き斬るように言い返す。


「そのようなこと……。天地がひっくり返ってもありえん」


 もし、明珠がそんな娘なら、今朝のあのやり取りは何だというのか。


 苦い気持ちを隠さず断言すると、張宇が途方に暮れたような顔で、溜息をつきながら頷いた。


 安理は「ぶっひゃっひゃ」と腹を抱えて笑い、季白はといえば、「まったく、あの小娘は……っ!」と、額に青筋を浮かべて、ぎりぎりと歯ぎしりしている。周康ですら、困り顔でゆるゆると首を横に振っていた。


 龍翔も心の底から嘆息したい気分だ。


「明珠のことは、もうよいだろう。明珠なりに、よく努めてくれている」

 確かに、この場に明珠がいなくてよかったと思いながら、言を継ぐ。


「で、用件は他にもあるのだろう?」


「あー、うん」

 遼淵が頷いたところで、侍女が茶を持ってくる。


 早々に持ってこなかったのは、以前の季白のように、茶をぶっかけられないための用心だったのかもしれない。


「愛しの君が乾晶けんしょうに派遣される前にさ」

 茶を一口飲んで唇を湿らせた遼淵が話し出す。


晟藍国せいらんこくから『花降はなくだこん』の話が来ていただろう? あれ、本決まりになったよ♪」


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