6 一目だけでも、愛しいきみを その2


 感謝の言葉を紡ぎながら、突然、抱きついてきた明珠に、龍翔は度肝を抜かれた。

 しかし、身体は無意識に動き、押し倒しそうな勢いで飛びついてきた華奢きゃしゃな体を抱きとめる。


 腕の中の明珠は、大きなまなこから、ぽろぽろと涙をこぼして泣きじゃくっている。


「……出してもよろしいのでしょうか?」

 明珠の鳴き声が届いたのだろう。御者台の張宇が、気づかわしげな声で尋ねてくる。


「ああ、出してくれ」

 振り返りもせず答えた龍翔は、腕の中で泣きじゃくる明珠に視線を落とした。


 顔を伏せた明珠からは、「ありがとうございます」という感謝の言葉の間に、「順雪」「見られて」「嬉しい」「元気そう」「よかった」「可愛い」と、さまざまな単語が入り混じって聞こえてくる。

 嗚咽おえつで細切れになっているが、明珠が何を言いたいのかは、だいたいわかった。


 明珠の願いを叶えられたようでよかったと、心から安堵する。

 同時に、「ありがとうございます」と何度も何度も紡がれる純粋な感謝の言葉に、心が喜びで満ちていく。


 ふだんなら、「絹のお着物が!」と、すぐに逃げ出そうとする明珠が、今は、龍翔の着物を両手でしっかと掴んで、すがりついている。


 今日はお忍びのために、絹ではなく綿の着物だが、きっと明珠は気づいてもいないだろう。


 というか、明珠の方から抱きつかれたのは、初めてだ。


 胸に寄りかかるたおやかな柔らかさと、薫り立つ蜜の香気に、思考が融けそうになる。

 理性が止めるより早く、勝手に動いた両手が、明珠の背中に回り込み、泣き声を洩らす身体をぎゅっと抱き寄せる。


 抵抗もなく引き寄せられる、柔らかな肢体。男物の着物の下に、布を巻いて体型をごまかしていても、まろやかな体の線が、たやすく想像できてしまう。


 明珠が涙と嗚咽を洩らすたび、腕の中から蜜の香気が立ち昇り、龍翔を惑わせる。

 朝に、無理やりその蜜を味わってしまったばかりだというのに。


 胸に苦い感情がわきあがる。


 今朝、安理が明珠の顎に手をかけ、くちづけしようとしているのを見たとたん、怒りに思考がけた。


 龍翔が来るのを読んでいたかのように、身を離して逃げ出したところを見るに、本気ではなく、安理特有のおふざけだったのだろう。


 だが、龍翔の怒りを誘うには、十分だった。明珠が相談相手に選んだのが、龍翔ではなく安理だということも、火に油を注いだ。

 それほど、龍翔は頼りにならぬと思われているのかと……。


 だから、半ば八つ当たりで持ちかけた。

 「短いくちづけで済ませる方法があるぞ」と。


 あれでは、純真な明珠を罠にはめたも同然だ。


 以前、明珠に《傀儡蟲くぐつちゅう》が仕込まれていた時のくちづけで舌を差し入れてしまい、拒絶されていたことを忘れていたわけではない。


 だが、拒絶した当の本人は、それを覚えていない様子で……。

 罪悪感を覚えながらも、そのあどけなさに、つけこみたくなってしまった。


 しかし、胸をよぎった罪悪感は、舌を差し入れた途端、流れ込んだ酩酊めいていするような甘さに、あっさり押し流された。


 我を忘れてむざぼりそうになり――。もし、明珠がくずおれなかったら、いつまでくちづけていただろうか。


 決して傷つけたくないのに……。時折、蜜を希求する心が、理性を凌駕りょうがしてしまいそうで、自分で自分が恐ろしくなる。


 龍翔は腕の中で泣く明珠の背に、優しく手のひらをすべらせる。

 先ほどよりは少し落ち着いたようだが、まだまだ泣き止みそうにない。


 明珠の涙は、たった一滴だけで、龍翔の心を千々に乱す。

 ただ今は、明珠がこぼしているのが嬉し涙だということと、そのきっかけを作ったのが、他ならぬ龍翔自身だということが、動揺をしずめていた。


 これほど喜んでくれるのなら、直接、順雪に会わせてやればよかったかと後悔し、すぐに、やはり駄目だと却下する。


 明珠を順雪に会わせるのなら、男装のまま会わせるわけにはいかない。

 だが、明珠が龍翔に仕えているということは、決して他人に知られるわけにはいかない。


 明珠自身、ひいては明珠の最愛の弟である順雪を守るためにも。


 明珠の素性を知れば、利用しようとする者は、必ず現れるだろう。

 周康のように明珠自身を狙う者も、明珠を通じて、龍翔を害そうとする者も。


(遼淵に命じて、順雪の周りもそれとなく警戒させた方がよいかもしれんな……)


 遼淵には、明珠の素性を決して口外するなと厳命しているが、どこからどう洩れるか、知れたものではない。


 龍翔が順雪の警護を派遣して、万が一ばれれば、やぶへびになってしまう。

 が、遼淵なら明珠と血のつながった父親だ。もしばれるなら、まだそちらが明らかになった方が、何倍もましだ。


 明珠が「明順」でいる限り、遼淵の娘・明珠はどこを探しても存在しないのだから。


 守るべき少女の身体に回した腕に力をこめると、明珠が身じろぎした。


「すみません。私……」

 ようやく落ち着いてきたのか、明珠があわてた様子で身を起そうとする。


「も、申し訳ありませんっ、お着物を……」

「よい。気にするな」


 かぐわしい柔らかさを、まだ腕の中に閉じ込めておきたくて、龍翔は逃れようとする明珠を抱き寄せる。


「あ、あの……っ」

 戸惑って揺れる瞳に視線を合わせ。


「すまぬ。直接、順雪に会わせてやれず……。姿を見て、わずかなりとも心配は減じたか?」


 穏やかに問うと、大きな目に、ふたたび珠のような涙が盛り上がった。


「はいっ! 本当に、なんとお礼を申し上げたらよいか……っ!」


 感極まった声を上げた拍子に、涙がまなじりからこぼれ落ちる。

 無意識に明珠の頬に顔を寄せ。


「ひゃああっ⁉ な、なになさるんですか――っ⁉」


 唇で涙を吸い上げると、すっとんきょうな悲鳴が返ってきた。


 左手で龍玉を握りしめているからだろうか。涙だというのに、塩辛いどころか、蜜のように甘く感じる。


 なめらかな曲線を描く頬に、幾筋もついた涙の跡を唇で辿たどると、明珠があわてふためいた声を出す。


「あ、あの龍翔様っ⁉ だ、大丈夫です! ちゃんと手巾がありますから……っ!」

 帯の間から手巾を取り出した右手を掴んで、押しとどめる。


「お前の喜びを、わたしにも味あわせてくれぬのか?」


「ふぇっ⁉」

 明珠が可愛らしい声を上げて戸惑う。


 かまわず龍翔は柔らかな頬に唇をわせた。


 乾晶でも明珠の嬉し涙にくちづけたが、さらに甘いように感じる。そう思うのは、明珠を喜ばせられたのは龍翔自身だという満足感のせいなのか。


 羞恥心しゅうちしんからか、薄紅色を通り越して真っ赤に染まった明珠の頬は、燃えるように熱い。

 ふれる唇に熱が伝わり、涙の甘さと相まって、思考が融けそうになる。


 ――己の腕の中にある蜜を、このまま飲み干してしまいたいと。


「り、龍翔様! も、もう大丈夫ですから……っ! 涙も引っ込みましたから……っ!」


 真っ赤な顔の明珠が、離れようと身じろぎする。掴まれたままの右手を引き抜こうとするが、もちろん、龍翔の力にはかなわない。


 龍翔さえ望めば、ずっと腕に中に閉じ込めておくことも可能だろう。

 だが、明珠に嫌われたり、破廉恥はれんちだと軽蔑されるのは、本意ではない。


 名残惜しさを胸の奥に押し込め、腕を緩めると、明珠はそそくさと窓際へ退いた。

 巣穴に逃げ込むうさぎのように、真っ赤な顔で距離を取る仕草が可愛らしくて、つい、もう一度引き寄せたくなるのを自制する。


「本当に、ありがとうございました」


 車輪の音に負けぬよう、しっかりとした声音で告げた明珠が、深々と頭を下げる。


「本当に、龍翔様のお心遣いには、なんとお礼を申し上げたらよいか……」


「そうかしこまるな。初めて奉公に出たのなら、実家に残した弟が心配になるのは、ごく自然なことだ。どうだ? 少しはお前の憂いを晴らせたか?」


「はいっ! 順雪も変わりなく元気そうで、安心しました!」


 ついさっきまで泣いていたのはどこへやら。明珠が花が咲くような笑顔を見せる。

 愛らしい笑顔を見るだけで、龍翔の心まで浮き立ってくる。


「あの……。この後は、宿に戻るんですか? 季白さん達を、お待たせしてしまってるんじゃ……?」

 心配そうに問う明珠に、笑って答える。


「今日は、季白達とは夕方まで別行動だ。夕刻に蚕家さんけで落ち合う約束をしているのでな。残念ながら、寄り道をしている暇はないのだが……」


 残念だと、小さく吐息する。

 まあ、あの季白が明珠のための寄り道をあっさり許しただけでも、僥倖ぎょうこうというべきだろう。


 季白の忠誠心を疑ったことなど、一度もないが、忠誠心が高いあまり、季白はどうにも明珠への風当たりがきつい気がする。


(あいつのことだ。今日のことを持ち出して、「龍翔様のご厚情にお応えするために、今よりももっと励みなさい!」と言い出しそうだな……。それとも、「解呪に努めたら、次は順雪と直接会わせてやってもよいですよ」か……)


 季白が龍翔を案ずる気持ちはわかるが、季白は極端から極端へ走りすぎる。

 だが、今日は季白は不在だ。


「毎日毎日、季白の講義ばかりでは疲れるだろう? 最近は、よく眠れぬ日が続いていたようだし……。今日くらい、のんびり過ごすとよい。順雪の話に、花を咲かせたりしたいだろう?」


 順雪の名前を出すと、明珠の顔がぱあっ、と輝いた。


「はいっ! 順雪の姿を見られて、本当に安心しました! 学問所に行くところだったんですけど、順雪はほんっと賢くって……っ」


 花が咲くように顔をほころばせて、愛しい弟のことを話し出す明珠に、口元が緩むのを感じながら、龍翔は愛らしい声に耳を傾けた。


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