6 一目だけでも、愛しいきみを その1


 「今日は、季白達と別で行動する」と龍翔に告げられた明珠は、張宇が御者台に座る馬車に乗せられた。いつもより小ぶりな、質素な馬車だ。


 明珠に続いて入ってきたのは、龍翔一人だけだ。


「あの? 別行動って……?」


 明珠達が乗ったとたん、馬車が動き出す。

 扉とは反対側、窓側に座らされた明珠は、隣に座る龍翔におずおずと尋ねた。


 先ほど、あんなやりとりがあったせいで、微妙に居心地が悪い。


 今日に限っては、季白の厳しい講義を渇望したいくらいだ。びしばしと季白にしごかれながら知識を詰め込んでいれば、余計なことを考える余裕などないだろうに。


 いつもより狭い馬車だというのに、隣に座る龍翔が微妙に距離を空けている気がするのは、龍翔も気まずいからだろうか。


 確かに、さっきのくちづけを思い出すだけで、恥ずかしさのあまり、「わ――っ!」と叫んでどこか遠くへ走り去りたい気持ちになる。


 心臓が騒ぎだし、明珠はあわてて別のことに意識を向けた。

 何の説明もなく馬車に乗せられたが、今日は何があるのだろう。急いでいるのか、張宇が走らせる馬車の速度が、いつもより速い気がする。


「龍翔様。今はどちらへ向かっているんですか?」

 尋ねると、龍翔が「うむ……」と歯切れ悪く頷いた。


「その、明順。心して聞いてほしいのだが……」


 緊張のにじむ表情と声に、明珠は思わず居住まいをただした。


「は、はい! 何でしょうかっ⁉」

 ぴんっ、と背筋を伸ばし、身体ごと龍翔を振り向く。


 むくむくと、心の中で不安が大きくなっていくのがわかる。


 いつになく固い表情の龍翔の面輪。

 とっさに脳裏に浮かんだ心当たりは、先ほど、うまくできなかった《気》のやりとりだ。


(こ、これはもしかして……っ⁉ 季白さんがいたら、絶対に口を出さずにはいられないだろうから、あえて季白さんを外した上での、みっちり膝詰めお説教……っ⁉)


 そう考えるだけで、二人っきりの馬車の中が、ひどく息苦しく感じる。

 いつもより手狭な馬車の上に、窓にかけられた幕がぴっちりと閉められているせいかもしれない。


 明珠が不安におののいていると。


「その、お前に順雪を――」

「順雪がなんですかっ⁉」


 最愛の弟の名前に、不安も忘れて思わず食いつく。


 明珠の勢いに、一瞬、目を見開いた龍翔が、次いで柔らかに微笑んだ。


「会わせてはやれぬが、お前に順雪を見せてやりたいと思ってな……」

「え……っ⁉」


 龍翔の言葉に頭の中に染み入る前に、馬車が止まる。御者台から張宇の声が聞こえた。


「着きました。ここで合っていると思うのですが……」


 龍翔が明珠の方へ乗り出して腕を伸ばし、馬車の窓にかかった幕をそっと開ける。


「前に、わたしや張宇に話してくれただろう? お前の家は街のはずれの方で、順雪は毎朝、町はずれの橋を通って、友達と一緒に学問所に行くのだと……」


 明珠の目に飛び込んできたのは、見慣れた街並みだ。


 華やかな乾晶けんしょうとは違う、質素な街並み。

 立ち並ぶ家々は、ほとんどが平屋建てだ。庭に小さな畑がある家も少なくない。明珠もよく、畑の手入れを手伝って日銭を稼いだものだ。


 張宇が馬車を止めたのは、空き家らしい一軒の家の前で、手入れされず雑草が伸びた小さな庭の向こうに、明珠が何千回と渡った小さな橋が見える。


「明順。お前が言っていた場所はここで合っているか? この町にかかる橋はあそこだけだと……」


 不安そうな龍翔の声は、明珠の耳に入らない。


 ちょうど、橋の向こう側に、くたびれた鞄を抱えた十歳過ぎの少年がやってくる。

 橋の手前までくると、少年は人待ち顔で立ち止まった。


「順雪……」

 洩らした呟きは、かすれて声にならない。


 明珠は、ほん少しでも最愛の弟に近づこうと、窓辺ににじり寄る。祈るように、無意識に胸元の守り袋を左手で握りしめて。


 明珠の記憶と寸分変わらぬ順雪の姿。


 奉公に出て明珠がいなくなっても、ちゃんと暮らしているらしい。

 血色もよいし、着ているものも、相変わらず質素だが、きちんと洗濯されているようだ。順雪が着ている萌黄色の着物は、去年、明珠が手ずから縫ったものだ。


 人待ち顔だった順雪が、急に笑顔になって、ぶんぶんと勢いよく手を振る。順雪に駆け寄ってくるのは、同じ学問所に通う、近所の友達だ。


 すぐそばまで来た二人は、お互いの手を打ち合わせ、何が楽しいのか、明るい顔で笑いあう。何か軽口を叩きあっているのかもしれない。


 愛らしい順雪の笑顔に、明珠の胸の奥が、きゅぅっと痛くなる。


 鼻の奥がつんとする。目から涙があふれだしそうになるのを、明珠は意志の力で押し込めた。

 涙で順雪の姿がよく見えないなんて、そんなもったいないこと、決してできない。


 瞬きする間も惜しく、じっ、と順雪を見つめ続ける。


 順雪と友人は、まるで子犬がじゃれあうように、明るく笑いながら、弾むような足取りで橋を渡っていく。


 元気そうな順雪の姿を見ているだけで、喜びで胸が熱くなってくる、


 明珠がそばにいなくても、順雪はちゃんとやっているのだと思うと、寂しさよりも先に、安堵が心を満たしていく。


 唇がわななき、嗚咽を洩らしそうになって、明珠は奥歯をかみしめた。

 一言でも洩らせば、涙腺が決壊する。そんな気がして。


 明珠のところにまで声は届かないが、耳の奥では、確かに順雪の笑い声がこだましていた。


 笑いあいながら橋を渡った順雪達の姿が角を曲がり、明珠の視界から消え。


 それでも明珠は、順雪の残像が見えるかのように、じっと橋を見つめ続けていた。


 大切でたいせつで、愛しい弟。

 まさか、本当に姿を見ることができるなんて、思ってもいなかった。


「……明順?」


 窓に取りすがったまま、微動だにしない明珠を心配したのだろう。龍翔が気づかわしげにそっと囁く。


 思いやりにあふれた、優しい声。


 昨日、部屋にいなかったのはきっと、明珠に順雪を見せるために、季白や張宇を説得してくれていたのだろう。

 一刻も早く王都へ戻ろうと、急ぐ旅路だ。張宇はともかく、きっと季白の説得には、骨が折れたに違いない。


 そんな労を負ってくれたのも、すべて。


(私が沈んでいたから、順雪を見せてくれようと……?)


 自惚うぬぼれかもしれない。だが、それ以外に理由が思いつかない。


 順雪を我が目で見た感動に加え、言いようのない感謝の気持ちがわきあがる。


 胸が熱くて、痛くて、苦しい。


 握りしめていた窓から右手を放し、ゆっくりと龍翔を振り返る。

 こちらを見つめる、包むような優しさに満ちたまなざしを目にした途端。


「ありがとうございます……っ!」


 明珠は胸にわきおこる衝動に突き動かされるまま、龍翔に抱きついた。


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