4 では、試してみるか? その4


「え?」

 聞き返した時には、龍翔の長い指先があごを掴んでいた。


 大写しになった秀麗な面輪に、明珠はあわてて固く目を閉じ、左手で胸元の守り袋を握りしめる。


 唇にふれる、あたたかく柔らかな熱。


 思わず引き結びかけた唇を、不意に、ふれる唇よりも熱く、しめったものが押し分ける。


「っ⁉」

 息を飲んだ瞬間、歯の間をこじ開けるようにして、龍翔の舌が侵入してきた。


 甘い蜜を味わうかのように、龍翔の舌が明珠の舌の上をすべる。

 背筋をで上げられたような感覚に襲われ、無意識に、身体が震える。


 反射的に首を振って逃げようとしたが、顎を掴んだ龍翔の手が許してくれない。


 どこか甘い、未知の感覚に大きく身体が波打つ。猫が毛を逆立てるように、全身が粟立あわだった。


「ぅん……っ」

 喉の奥から飛び出した悲鳴は、舌に阻まれてうまく声にならない。

 まるで声さえ奪うように、龍翔の舌が明珠のそれを絡めとろうとする。


 混ざりあったお互いの呼気が、熱くける。

 羞恥しゅうちと混乱に、思考が散って、何も考えられない。


 力が抜け落ち、くずおれそうになった体を、龍翔の力強い腕が支えようとする。


 体勢がくずれた拍子に唇が離れ、どこか名残惜しそうに龍翔の舌が引き抜かれた。


 が、そんなことにかまっていられない。

 明珠はずるりと床に座り込む。


「明珠⁉」


 明珠の身体に腕を回して支えたまま、床に片膝をついた龍翔があわてた声を上げる。が、答えるどころではない。


 溶けたろうのように、身体に力が入らない。甘さをはらんださざなみが全身を満たして、意味をなさない声がこぼれだしそうだ。


 明珠は両手で口元を覆い、下を向く。


「明珠、その……っ」

 ためらいがちな龍翔の声が降ってくる。


 いつのまにか、声から刺々とげとげしさが消えている。

 むしろ、不安に揺れる声は、叱られる寸前の子どものような頼りなさだ。


「すまん。怒りに任せて、お前の嫌がる――」


 龍翔の言葉に、やはり怒っていたのだと、明珠は両手を口元から離し、はじかれたように顔を上げる。


 気遣いに満ちた黒曜石の瞳を見たとたん、じわりと涙があふれた。

 にじむ視界の向こうに、この上なく狼狽うろたえる龍翔が見える。


「す、すま――」


「やっぱり、怒ってらっしゃったんですか……?」

 こらえようとしても、声が潤む。


「違う! 怒っていたのはお前にではない! その……っ」


 即座に否定した龍翔が、おずおずと、まるで何かにおびえているように、遠慮がちに口を開く。


「その……ふれても、よいか?」


「は、はい……」

 こくんと頷くと、そろそろと龍翔の手が伸びてきた。


 長い指先が髪にふれた途端、先ほどと同じさざなみが身体を駆け抜け、明珠は思わず小さく震える。


 火傷やけどしたように龍翔が手を引っ込めかけ――、ためらいを振り切るように、明珠の後頭部へ手を伸ばす。


 幼子をあやすように、優しい手のひらが髪を撫で。


「……すまぬ。お前に嫌な思いを……」

 ひどく重く、苦い声に、明珠はふるふると首を横に振る。


「い、嫌っていうか……。だ、だってその、く、くくくくち、口の中に……っ」


 思い出すだけで、羞恥で震えそうになる。

 また新たな涙がにじみそうになって、明珠は唇をかみしめた。


「す、すまん……」


 おろおろと謝った龍翔の手が、髪から背中へ移動し、ぽんぽんとなだめるように軽く叩く。


「その……。事前にお前に許可を取るべきだったな……。悪かった……」


「い、いえ……」

 明珠は戸惑いながら、否定した。


 もし、先に聞かれていても、きっと意味がわからなかったに違いない。

 懇切丁寧に説明されたとしたら、それはそれで、決して「はい」と答えられなかっただろう。


「す、すみません。私、そんな《気》のやりとりの方法があるなんて知らなくて……。やっぱり、術師としても半人前なんですね……」


 うつむきがちにびると、龍翔が困り果てたように吐息した。


「……術師云々というより……。いや、何でもない」

 きょと、と首をかしげると、龍翔があわてた様子で口をつぐむ。


 と、不安に満ちた黒曜石の瞳が、明珠の顔をのぞきこむ。


「お前を、傷つけはしなかったか……?」


「そ、そんなこと!」

 明珠はぶんぶんとかぶりを振って否定する。


「し、心臓が壊れるかと思いましたけど、今もちゃんと動いていますし……。それに、龍翔様が無体なことをなさるはずがありませんでしょう?」


 信頼をこめて見上げると、龍翔が困ったように眉を寄せた。

 口元が苦く歪む。唾液で濡れた唇が妙になまめかしくて、明珠は思わず視線を反らした。


「お前の信頼は嬉しいが……。そう純粋に信用してくれるな。お前の信頼を裏切る気はないが……わたしとて、我を忘れて惑わされそうになる時もある」


 痛みを孕んだ苦い声。


「す、すみませんっ。その……、ご負担でしたか……?」


 明珠にとって龍翔は、どこから見ても隙がなく、完璧な主人だ。


 だが、龍翔とて一人の人間だ。時には弱音をこぼしたくなったり、愚痴を吐き出したいと思う日だって、あるに違いない。

 だが、第二皇子という立場が、簡単に感情を表すことを龍翔に許さないのだろう。


 龍翔が背負う重責は、明珠などでは想像もつかない。


 けれど……自分の身の丈以上のことをこなさねばならない大変さは、早くに母を亡くした明珠にも、ほんの少しだけ、わかる。


「あのっ、私なんかじゃ、全然お役に立てないでしょうけれど……。でも、私で龍翔様のご負担が減らせることがあれば、何でもおっしゃってくださいね! 私、頑張りますから! だから……。お一人で、無理をなさらないでください!」


 祈るように告げると、龍翔が黒曜石の瞳を見開いて絶句した。


 と、不意に表情が柔らかに緩んだかと思うと、いきなり、ぎゅっと抱きしめられる。


「お前は、まったく……」


 耳元で呟かれた声は、呆れているようにも、喜んでいるようにも聞こえる。


「どこまでわたしを惑わせる? どうせ、他意もなく言っているのだろうが……」


「あ、あの……?」

 龍翔の急変ぶりに理解が追いつかない。


 戸惑った声を上げると、不意に額にくちづけられた。


「ひゃああっ⁉ な、なになさって……っ⁉」


「お前の意図とは外れているのだろうが」

 楽しげに喉を鳴らしながら、龍翔が耳に心地よい声を紡ぐ。


「お前の言葉を、大切に心に留めておこう」


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