4 では、試してみるか? その3


 不意に、ぱっ、と明珠にかかっていた圧が消えた。

 安理が明珠から手を放して飛びのいたかと思うと。


「明珠っ!」


 ひび割れた声。

 大きな手に左腕を取られ、思い切り、引き寄せられる。

 抱き寄せられたとたん、よく知る香の薫りが明珠を包む。


「明珠に何をしたっ⁉」


 問う声が放つ苛烈かれつな怒気に、明珠はびくりと身体を震わせる。


 きつく抱きしめられていて、龍翔の面輪は見えないが、声とまとう空気だけで、龍翔がとんでもなく怒っているのは知れた。怒り狂う龍翔まで、乾晶でのやりとりと同じだと思う余裕さえない。


 五月だというのに、氷室に叩き込まれたように部屋の空気が冷たい。

 緊張と恐怖に喉がひりつき、背筋が凍える。


「安理。答えろ」


 獣のうなり声を連想させる低い声。

「今、明珠に――」


 ぎゅっ、と苦しいほどに明珠の身体に回された腕に力がこもる。


「え~。誤解っスよ~」


 こんな時だというのに、安理の軽い口調はいつも通りで、明珠は感心を通り越して驚愕する。


「オレは明順チャンに相談されたから、それに応えようとしてただけで~。あ、相談内容については、オレじゃなくて、明順チャンに直接聞いてくださいっス♪ オレはもう、下がりますんで」


 にへら、と笑った安理が、龍翔が口を開くより早く、見事な逃げ足で隣室へ移動する。

 龍翔が乱暴に開け放ったままの内扉にするりと長身をすべり込ませ。


「あ。手を出されたってお怒りになるくらいなら、ちゃーんとご自分のモノになさっておいたらいーんじゃないっスか?」


 楽しげに謎の言葉を紡いだ安理が、返事も待たずにぱたりと内扉を閉める。


 急に静かになった部屋に、ぎりっ、と異音が響いた。


 それが何かと思う間もなく、息が詰まるほど強く、抱きしめられる。頬になめらかな絹が押しつけられ、明珠はあわてた。


「り、龍翔様⁉」


「安理に、何を相談したのだ?」


 頭の上から、相変わらず低いままの龍翔の声が降ってくる。


「そ、その……」

 何と説明すればよいかわからず、口ごもると。


「わたしには、言えぬことか?」


 冷気を纏った地をうような声に、ぞわりと背筋が凍りつく。


 明珠はぶんぶんと首を横に振ろうとした。が、龍翔の胸板に押しつけられていて、首すらうまく動かせない。代わりに、必死に声を上げる。


「ち、違います! 相談していたのは、龍翔様とのことで……っ! っていうかその、苦しいです……っ」


「わたしの?」


 いぶかしげな声を上げた龍翔の腕が、わずかに緩む。

 明珠が顔を上げると、じっ、とこちらを見つめる黒曜石の瞳にぶつかった。


「ならばなおさら、なぜ、わたしにではなく、安理に相談する?」


 不機嫌極まりない声。

 眼差しは鋭利な刃物のようだ。


 恥ずかしさよりも恐怖に突き動かされ、明珠はあわあわと言葉を紡いだ。


「だ、だってその……っ。龍翔様とその、長く、く、くくく……ができなくて悩んでいるなんて、誰にも相談できるわけ……っ」


「だが、安理には相談したのだろう?」

 龍翔の冷ややかな声が、明珠の言葉を途中で断ち切る。


「そ、それは……」


「――長いくちづけが苦手ならば、短く済ませる方法もあるぞ?」


 どこか挑むような口調で、龍翔が告げる。


「えっ⁉ そうなんですか⁉」

 驚いて見上げると、龍翔の形良い眉がひそめられた。


「だが、前に嫌だと言ったのはお前だろう?」


「え……?」

 明珠はきょと、と小首をかしげる。


 いったい何のことか、わからない。


「覚えていないのか……? まあ、非常事態だったからな」

 呟いた龍翔が、不意に笑う。


 どこか飢えた狼を連想させる眼差しで。


「では、試してみるか?」


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