2 甘いお菓子のおねだりですか? その3


「龍翔様! どうしてお放しくださらないんですかっ⁉」


「どうしてなど、決まっているだろう?」


 黒曜石の瞳が明珠を見下ろす。

 不機嫌そうな眼差まなざしに、明珠は思わず身をすくめた。


「わたしが言えた義理ではないが……。年頃の娘が、夜着で人前になど出るものではない」


「ええっ⁉ ちゃんと上衣を羽織りましたよ?」

「羽織っただけではないか! まったく、お前は無防備すぎる」


 黒曜石の瞳がすがめられる。


「……よいか? 菓子をやるなどという甘言に惑わされて、ほいほいとついていくのではないぞ?」


「小さい子どもじゃないんですから、そんなことしません!」


 あまりな子ども扱いに、明珠は頬をふくらませた。と、龍翔が苦く吐息する。


「……いっそのこと、幼子の方が、心配せずにすむのだがな……」


「ええっ⁉ それって、小さい子どもより頼りないってことですかっ⁉」


 自分ではしっかり者だと思っていたのに、奉公を始めてからというもの、覆されてばかりだ。


 しゅん、と肩を落としてしょげると、ようやく龍翔の腕が緩んだ。

 慰めるように、ぽふぽふと頭を撫でられる。


「いや、別に子ども扱いしているわけではないのだが……。とにかく。菓子が欲しければ、わたしがいくらでもやる。他の者からもらう必要などない」


「いえっ、別に龍翔様にお菓子をねだる気なんてありませんから……っ!」


 龍翔にわがままな従者だと思われたりしたくない。

 ぶんぶんとかぶりを振ると、龍翔が柔らかに微笑んだ。首を傾げた拍子に、絹のような黒髪がさらりと揺れる。


「お前にねだられているなどと、思ったことはないぞ? わたしが、お前にやりたいのだ。お前の喜ぶ顔を見られたら、わたしも嬉しい」


「っ!」


 大輪の花のような笑顔に、思わず息を飲む。

 龍翔の笑顔こそ、値千金だ。まぶしさに、目がちかちかしてくる。


「欲しければ、今からでも張宇にもらってきてやろう」


「いいですっ、結構です! もう、今日は寝るだけですし! そもそも、いただく理由だってありません!」


 今にも張宇を呼びそうな龍翔を、袖をつかんで引き留める。


「菓子をやるのに、理由などいるまい?」

 不思議そうに言う龍翔に、明珠はきっぱりと首を横に振った。


「いりますよっ! 実家だと、お菓子なんてお祭りの日にしか食べられないんですから!」


 贅沢ぜいたくを覚えると、ろくなことにならない。

 はっきりきっぱり断言すると、龍翔がわずかに考え込んだ。


「では、わたしの茶につきあうのは、理由になるか?」


「そ、そりゃあ、龍翔様のご要望でしたら、従いますけれど……。でも、そもそも、従者がご主人様と一緒にお茶なんてして、いいんでしょうか……?」


 明珠は龍翔のような身分の高い方にお仕えした経験などないので、高貴な方々のしきたりなどさっぱり知らないが、常識的に考えて、従者は後ろで控えているものではないだろうか。


 小首をかしげて問うと、龍翔の形良い眉が寄る。


「何を言う。食事は一緒に食べているではないか。茶も食事の延長だろう?」

「そう言われたら、そうかもしれませんけど……」


 蚕家の離邸にいた時も、乾晶への旅の間も、龍翔の言う通り、食事は季白達も含め、いつも同じ卓だった。


「それに」

 と、龍翔が言を継ぐ。


「一人で食べても、味気ないだろう?」


「あっ、それはわかります! 質素なご飯だって、順雪じゅんせつがおいしいおいしいって食べてくれたら、それだけで嬉し、く……」


 途中で語尾が不明瞭に消えてしまう。

 目が潤みそうになって顔をそむけると、気遣わしげな声が降ってきた。


「……やはり、順雪が気にかかるのか?」

「す、すみません……」


 遠く、どう頑張っても会えない距離にいるのなら、最初から「会いたい」なんて思わない。


 だが、今は実家の町がすぐ近くにある。それが、逆に会いたさを募らせる。会いに行くなどできないと、頭ではわかっているのに。


「明順、明日……」


 優しく明珠の頭を撫でながら、何やら言いかけた右手が、不意に小さくなる。

 同時に、目の前の長身が揺らめいたかと思うと、明珠より頭半分背の低い少年の姿に変じ、ずるりと肉付きの薄い肩から衣がずれ落ちた。


「……戻ってしまったか」

 少年姿に変わってしまった龍翔が、小さく吐息する。


「す、すみません。《気》が足りなかったですか?」


 あわてて問うと、ずり落ちた衣を肩へ引き上げながら、少年龍翔が首を横に振った。


「いや。今夜はもう、眠るだけだからな。今までもったのなら、十分だ」


 と、少年龍翔が、黒曜石の瞳に悪戯いたずらっぽい光をきらめかせ、明珠を見上げる。


「それほど弟が恋しいのなら、代わりに添い寝してやろうか?」

「っ⁉」


 とっさに脳裏をよぎったのは、一度だけ、思い切り酔っぱらってしまった青年龍翔が、明珠を抱きしめたまま、眠ってしまった夜のことだ。


 ぼんっ、と自分の顔が羞恥しゅうちで爆発した気がする。

 鏡で見ずとも、真っ赤になっているだろうとわかる。


「冗談だ」

 くすくすと楽しげに笑って、龍翔が告げる。


「もうっ! 龍翔様ったら、心臓に悪すぎます!」


「すまんすまん」

 まったく悪びれていない様子で笑った龍翔が、ふと視線をやわらげる。


「今日も季白の講義を受けて疲れただろう? さあ、今日はもう休むといい」


「は、はい。ありがとうございます」

 愛らしい笑顔で優しくうながされ、こくりと頷く。


 衝立ついたてで仕切られた自分の側の寝台に横たわり、布団にくるまったところで、ふと気づく。


 龍翔は悪戯好きだが、いつだって、明珠を気遣ってくれる優しさに満ちている。


(もしかして、私が順雪のことで思い悩まないように、わざとびっくりさせてくださったのかしら……?)


 確かにあの一瞬、完全に順雪のことが頭から吹き飛んでいた。


 龍翔に気づかれないよう、唇だけを緩めて笑い、明珠はそっとまぶたを閉じた。



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