3 富と権勢をもたらす花


 内扉を閉めて隣室に下がったとたん、周康の口から、無意識に大きな息がこぼれ出た。


 鼓動は、まだばくばくと騒ぎ立てている。冷静になって初めて、背中がじっとりと嫌な汗で濡れているのに気がついた。


「いや~っ、ご苦労さん! あー、でも、やっぱ周康サンじゃ、荷が重かったっスか~?」


 にへら、と笑いながらかけられた声に、思わず視線がきつくなる。


 声の主は安理だ。

 季白と張宇はまだ部屋に戻ってきていない。


 王城で何度か宮女達から名前を聞いたことはあるものの、会ったのは、十日前が初めてだ。

 安理については、会う前から警戒していた。なんせ、王城の女性陣や男性陣の多くからは、ちょっと軽いけれど面白い、という評価の一方、ごく一部の男性陣からは、顔色をなくして怯えられるか、蛇蝎だかつのごとく忌み嫌われていたからだ。


 相反する評価の理由は、会って早々に理解した。


 軽い口調と、ふざけた性格。人によっては、それを人当たりの良さととる者もいるだろう。


 しかし、心中では何を考えているのか読めない、食えない男。


 本能的に警戒心を覚えるのは、周康もまた、遼淵の高弟という立場以外に、何の後ろ盾も持たぬ平民出身で、術師としての実力と、世渡りのよさで出世してきたゆえだろうか。


 それにしても、龍翔を主とも思っていないような安理の言動を見聞きするたび、周康は他人事とは言え、胃が痛くなる。


 相手は第二皇子だというのに、歯に衣着せぬ安理の物言いは、正気の沙汰とは思えない。もし相手が遼淵だったら、にこやかに笑いながら、術の実験台にされているところだ。

 今後、共に龍翔に仕える者として、敵対する気など毛頭ないが。


「安理殿。もしや、わたしが龍翔殿下のご不興を買うと承知で、けしかけたのか?」


 にらみつける眼差まなざしに力をこめる。

 が、安理は「え~?」と、どこ吹く風で受け流した。


「やっだな~。けしかけたなんて、人聞きの悪い。オレはちょーっと背中を押してあげただけじゃないっスか♪ それに、周康サンだって、龍翔サマに確認した上で行動したんでしょ?」


 安理の指摘に、周康は思わず唇をかみしめる。

 指摘された通り、そそのかしたのは安理だが、最終的に決断したのは、周康自身だ。


「まあ、当てが外れて、怒りたくなる気持ちはわかるっスけどね~。ものっすごくコワかったでしょ? 龍翔サマ」


 きしし、と笑いながらかけられた言葉に、反射的に頷きそうになり、かろうじてこらえる。


 こんなところで言質を取られ、龍翔に注進されてはたまらない。


 周康の危惧を読んだかのように、安理が、

「そんなに警戒しなくったって大丈夫っスよ~」

 と軽く笑う。


「オレとしてはむしろ、周康サンの勇気を褒めたたえたいくらいなんスから~♪」


「……というか、どういうことだ? あのご様子は」


 周康が目にした相反する光景が、むくむくと疑問を膨らませる。


 今朝、明珠に寵を与えているのかという周康の問いかけを、龍翔は血相を変えて否定した。

 大切にしているとはいえ、明珠は単なる従者なのだと。


 だからこそ、周康は明珠に近づいたのだが。


 遼淵は明珠をたいそう気に入っている。嫡子ちゃくしだった清陣せいじんが龍翔を襲い、幽閉されている今、遼淵の血を引いている者は、明珠しかいない。


 自分の好奇心が第一の遼淵は、清陣に対して、親としての情など、ほとんど持っていない。お気に入りの明珠が、清陣に代わって蚕家の跡取りになる可能性は、大いにある。


 そうなれば、明珠の婿むこになる者が、実質的な蚕家の当主だ。


 周康は明珠の愛らしい面輪を思い浮かべる。

 まだ十日ほどのつきあいだが、人が好く純朴そうあの少女は、明らかに蚕家の当主には向いていない。


 解呪の特性という希少な能力はともかく、術師と名乗れるほどの腕前も持たぬ少女を、術師を統べる蚕家の当主として認める者は少ないだろう。


 むしろ遼淵の弟子の男達は、彼女の婿むことして蚕家の名を継ぎ、権勢をふるおうと考える者ばかりに違いない――周康のように。


 そう考えるのなら、世間ずれしていない無垢な少女は、かえって都合がよい。

 親身になってやり、甘い言葉を囁けば、手に入れるのは容易たやすいだろう。


 栄達を望む遼淵の高弟達にとって、明珠は身の内に、富と権勢へのしるべを秘めた宝だ。

 男の弟子達は、花に群がる蜂のように、なんとしても明珠を懐柔しようとするだろう。


 その宝のを、他の弟子達に先んじて得られたと思ったのだが。


(龍が番人をしているなどとは、ついぞ聞いていない……)


 思い返すだけで、周康の背中にじわりと冷や汗がにじむ。

 周康を睨みつけた龍翔の苛烈かれつな眼差しは、肝を冷やすに十分だった。


 明珠にちょうを与えていないと言っていたが、周康の手を払い、明珠を抱き寄せていた姿は……。


「まー、龍翔サマもイロイロと複雑みたいなんスよね~。そこが面白いんスけど♪」


 安理が、思わずこちらが不安になるような人の悪い顔で笑う。


「……つまり、わたしをいいように使った、と?」

 問う声が低く固くなる。


「えーっ、でも無駄な望みを抱くより、スパッと諦めがついた方が楽でしょ? あ、別に、無理に諦めることなんてないっスよ~? 周康サンが明珠チャンへの想いを貫くんなら、オレ、せいいっぱい応援しちゃう!」


 どこまで本気がわからぬ軽い調子で、安理がとんでもないことをそそのかす。

 周康は思わず眉間に深いしわが寄るのを感じた。


「誰が、龍が掌中しょうちゅうで大切に守る珠に手など出すものか。命知らずの愚か者になるのは、御免こうむる」

 冷ややかに吐き捨てる。


 周康が明珠を手に入れたいのは、蚕家の次期当主につくための手段だからだ。

 愛らしい顔立ちと性格の少女だとは思うが、何もかもを捨ててまで手に入れたいと思うような、絶世の美女というわけでもない。


 解呪のことがあるとしても、なぜ龍翔があれほど明珠を気に入っているのか、正直なところ、周康にはわからない。


(あの怒りようから推測するに、寵をたまわれているようではなさそうだが……)


 龍翔がどんな真意をその内に秘めているかまで、知りたいとは思わない。周康の栄達に直接関りがないのなら、そんなところまで踏み込む気など、まったくない。


 ただ、一つ確実なことといえば。


(いかに明珠お嬢様から富と権勢の香りがしようとも……。龍が掌中で大切に慈しむ珠には、手を出さぬのが賢明だ……)


 立場が弱いとはいえ、仮にも第二皇子と娘を争うなど、はなから勝負は見えている。


(まあ、婿むこを狙わずとも、龍翔殿下の不興を買わぬ程度で、明珠お嬢様に取り入ればよい……)


 周康の様子を見守っていた安理が、「は~っ」と大仰にため息をつく。


「やー、残念。やっぱり、周康サンじゃ、龍翔サマから明珠チャンを奪うには、役者不足かぁ~」


「おい」

 目の前で「役者不足」と言われ、思わず尖った声が出る。


 だが、それよりも。


「何を考えている?」

 安理の真意が読めず、低い声で問う。


 龍翔が大切にしている明珠に、他の男をけしかけるなど……。正気の沙汰とは思えない。

 従者としても、主の怒りを買う愚かさも。


 周康の問いに、安理は底の見えない顔で、にへら、と笑う。


「え~っ、オレはただ、オモシロイのがいいな~ってだけっスよぉ~♪」


 安理の言葉に、周康は空恐ろしい気持ちを味わう。


 周康は、安理を自分と同じ、他人を利用しても心が痛まない性格だと読んでいたが……。甘かった。

 安理は、もっと異質だ。


「いや~。でも周康サンが駄目だったら、オレがやるしかないのかな~♪」


 きしし、と笑いながらこぼされた不穏極まりない呟きを、周康は聞かなかったことにした。


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