2 甘いお菓子のおねだりですか? その2


「明順?」


 龍翔の声とともに、内扉が叩かれる。かと思うと、あわただしく扉が開けられた。


「何度も言っているだろう! ちゃんとかんぬきを掛けておけと――」


 焦った声で叱りつつ、部屋へ入ってきた龍翔の歩みが、先客を見とめて、止まる。

 同時に、周康がびくりと肩を震わせた。


 まるで、一瞬だけ動作を止めたのが幻だったかのように、優雅に明珠に歩み寄った龍翔が、ごく自然な所作で周康の手から、明珠の両手を引き抜く。


 かと思うと、ぐいっ、と手を引かれ、明珠はたたらを踏んだ。


 よろめいた身体が龍翔の胸板にぶつかる。龍翔が左手で明珠の両手を掴んだまま、右腕を明珠の身体に回す。


「あ、あの……っ」


 抱き寄せられるような格好になり、明珠はあわてて龍翔の面輪おもわを見上げた。だが、龍翔のまなざしは、明珠を通り越して周康を見据えたままだ。


 その周康は、龍翔が入ってきた瞬間、片膝をついてかしこまり、言葉を失ったように青い顔でうつむいている。


「わたしのいない間に、何やら楽しく話していたようだな?」


 深く響く耳に心地よい声。

 いつもと変わらぬ声のはずなのに、なぜか部屋の温度が下がったような気がする。


 見えないむちに打たれたかのように、周康の身体がびくりと震えた。うつむいているため、表情はよく見えないが、顔色が悪い気がする。


 周康を見据えたまま、にこやかに笑って龍翔が問う。


「いったい、どんな話をしていたのだ?」


「そ、その……」

 こわばる口を無理に動かしたかのように、周康の声が震えている。


 なぜだろう。表情は笑顔なのに、龍翔から妙な威圧感が発されている気がする。

 いつもは、第二皇子という身分が信じられぬほど、気さくで親しみやすい雰囲気を漂わせている龍翔が、いったいどうしたのだろう。


 龍翔の変化を不思議に思う暇もなく、明珠は周康の代わりに何か答えねばと、あわてて口を開く。


「あ、あのっ。周康さんも、私がここしばらく元気がないようだと心配してくださって……。それでえーと、話しているうちに、お菓子の話になってですね……」


「菓子?」


 小首をかしげた龍翔の視線が、周康から明珠に移動する。ふ、と固い空気が、ほどけるように霧散する。


「は、はい。母さんも甘いものが好きだったそうで……。それでええと、周康さんがお菓子をくださるって……」


「周康にもらわずとも」

 眉を寄せた龍翔が、次いで柔らかに微笑む。


「菓子が欲しいのなら、お前の好きな菓子を、いくらでも張宇からもらってやろう」


「えっ? いえ、張宇さんの大事なお菓子を奪う気なんて……」


 張宇は、武人らしい凛々しい容貌に反して、ものすごい甘味好きだ。荷物の中には、常に大量の甘味が忍ばされているらしい。


 今まで何度も張宇の菓子をわけてもらったことはあるし、おおらかで優しい張宇は、明珠が頼めば、いくらでもくれるだろうが……。


 と、龍翔が悪戯いたずらっぽく黒曜石の瞳をきらめかせる。


「ん? 張宇の持っている分だけでは足りぬか? 足りぬのなら、好きなだけ――」


 なぜか明珠の手を握って持ち上げた龍翔が、指先にくちづけようとする。


「わ――っ!」

 と叫んで、明珠は龍翔から逃れようと、必死で手を振った。


「なっ、何をなさるんですかっ⁉ そもそも、足りないとか欲しいとか、一言だって言っていませんっ! そもそも、甘味なんて贅沢品ぜいたくひんに慣れちゃだめだと思います! 贅沢は貧乏人の敵ですっ!」


 息を荒げながら、はっきりきっぱり言い切ると、龍翔が小さく吹き出した。


「無欲なのはお前の美徳の一つだが……。そうは言っても、好きだろう?」

「そ、そりゃあ、大好きですけど……っ」


 顔をのぞきこむようにして問われ、反射的に答えると、龍翔が小さく息を飲んだ。

 呆れられたかと、明珠はわたわたと言を継ぐ。


「で、でもあのっ、ねだるつもりじゃなくって、そのっ。た、たまーに! 数か月に一度くらい食べられたら、それだけでもう十分っていうか! 少ないお金をやりくりして買うからこそ、余計に甘く美味しく感じるっていうか! そ、そもそも、母さんもお菓子が好きで、周康さんに、母さんの昔のことを教えてもらうって話をしていて……っ」


「わかった。わかったから落ち着け」


 苦笑しながら、龍翔が明珠の身体に回した手で、とんとんとあやすように背中を軽く叩く。


 落ち着けというのなら、恥ずかしくてたまらないので、早く腕の中から解放してほしいのだが。


「お前の言いたいことはわかるぞ」

 うむうむと頷いた龍翔の視線が、明珠をとらえる。


「……少ししか味わえぬからこそ、大切にしたいと思う気持ちなど、特にな」


 どこか胸に迫る声音に、明珠はこくこくと頷く。


「ですよねっ。十個のお饅頭まんじゅうも素敵ですけど、一個だけだと、よけいに味わって食べなきゃって思いますよねっ!」


「……まあよい。それで、麗珠れいしゅ殿の話だったか」

 龍翔の視線が、片膝をつき、頭を垂れた周康に注がれる。


「麗珠殿の話なら、わたしも聞きたいと思っていた」


 龍翔の言葉が意外だったのか、周康がはじかれたように顔を上げる。龍翔は鷹揚おうように頷いてみせた。


「麗珠殿は、解呪の特性を持った優れた術師であったと聞く。明珠の解呪の特性は、麗珠殿から受け継いだに違いない。だが、麗珠殿は、明珠に《蟲招術ちゅうしょうじゅつ》の手ほどきをしたものの、解呪の特性については、何も教えていないようでな。……となれば、麗珠殿について知りたいと考えるのも、当然であろう?」


「左様でございますか。そういったご事情でしたら、納得いたしました。確かにそれは解せませぬ……」

 周康が眉をひそめる。


「どうした?」

 龍翔の問いかけに、周康は「いえ……」と小さくかぶりを振った。


「麗珠様は、面倒見の良い方でございました。後進の指導にも熱心な方で……。その、解呪の特性をお持ちの麗珠様についていける者は皆無でしたが……。そのような麗珠様が、同じ解呪の特性を持つ明珠お嬢様に、何も教えてらっしゃらないのは、不思議だと思いまして……」


「で、でも、母さんは《蟲語》や《蟲招術》のことは教えてくれましたよ? その……。私は術師には向かないから諦めなさいとも言われましたけれど……」


 顔をしかめ、考え考え告げた周康に、明珠は思わず反論する。


 憧れていた母に、「術師の才はない」と告げられた日の哀しみは、今も明珠の胸の奥に眠っている。だが。


 明珠にそう告げた母は、蟲語を始めとして、色々なことを明珠に教えてくれた。術師としての仕事ぶりを見せてくれたことも、一度や二度ではない。

 術師と名乗れぬ半端者とはいえ、今の明珠があるのは、すべて母のおかげだ。


「……周康。やはり、お前も不思議に思うか?」

「はい……」


 二人だけに通じるやりとりをした龍翔と周康に、明珠は「え?」と小首をかしげる。


「術師の才はないと告げた娘に、蟲語を教え、しかし肝心の解呪の特性については何も教えぬ……。麗珠殿は、いったい何を考えていたのだろうな?」


 龍翔が静かな声で問いを紡ぐ。

 その問いに答えられる者は、この場にはいない。


「殿下のお考えは承知いたしました。わたくしが麗珠様と関りがあったのは、まだ術師になる修行をし始めた子どもの頃でございますので、どこまでお役に立てるかはわかりませんが……」


 周康が申し訳なさそうに頭を下げる。


「なるほど。では、まずは遼淵りょうえんに確かめた方がよさそうだな」


「……やはり、蚕家さんけにお寄りになられますか?」

 周康の問いに、龍翔が形良い眉をわずかにしかめた。


「……寄らぬわけにもいくまい。遼淵がうるさいからな」


「左様でございますね。後々のことを考えますと、寄られた方が穏便かと……」


 龍翔と周康が、同じ苦労を知る者同士に通じ合う疲れた表情を交わす。

 が、それはほんの一瞬。


「では、遼淵への連絡はお前に任せる。今宵はもう、下がるがよい」


「かしこまりました」

 一礼した周康が面を上げる。

 整ったその顔が、龍翔の腕の中にいる明珠を見て、一瞬、しかめられた気がした。


 明珠は自分の頬がさらに熱くなったのを感じる。

 が、明珠だって好きでいるわけではない。さっきから、逃れようとぐいぐいと龍翔を押しているのだが、まるで鎖でがんじがらめにされたように、龍翔の腕はまったく緩まない。


 周康が最後に恭しく一礼して、隣室へ下がる。


 ぱたりと内扉が閉まった瞬間、明珠は抗議を込めて、あるじをにらみつけた。


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