1 鬼上司からの厳命です⁉ その2
「ち、違いますよっ!」
反射的にのけぞった途端、体勢を崩した。
ぼふり、と仰向けに倒れた
弟の順雪と変わらぬ、十歳すぎくらいの少年の姿なのに、まるで狼のあぎとに
ひくり、と喉が干上がって、うまく声が出ない。
「違う……? 何がだ?」
龍翔の低い囁きが頬を
距離が近すぎて、龍翔の
「や、辞める気なんて、これっぽちもありません!」
震えそうになる身体を
「やめるわけ、ないじゃないですか! ただそのっ、実家のある町に近づいてきたと思ったら、順雪のことが心配になって、無性に逢いたくて……っ。ええっ⁉ もしかして、あまりに講義の覚えが悪くて、季白さんからクビを言い渡されるんですか⁉」
「そんなわけないだろうが‼」
叩きつけるように叫んだ龍翔の身体から、不意に力が抜け落ちる。
とす、と明珠の上にかぶさるように痩せた身体が倒れてき、愛らしい横顔が、明珠の顔のすぐ横に下りてくる。
額を布団につけ、明珠におおいかぶさるような格好のまま、龍翔が心の底から嘆息する。
「まったく……。心臓に悪すぎる……」
苦しげな声。吐息に合わせて大きく上下する痩せた身体に、明珠は思わず腕を回した。
ぽふぽふと、あやすように肉づきの薄い背中を優しく撫でる。
「す、すみません。びっくりさせて……」
「いや。その、すまん」
龍翔が気まずそうにあわてて身を起こす。
動揺しているのか、うっすらと紅い顔で視線をさまよわせる龍翔を、明珠は真っ直ぐ見つめた。
「あのっ、辞めませんから!」
決意を込め、ぐっ、とおなかに力をこめる。
「クビを言い渡されるまで、私から辞めたりしませんから!」
強い声できっぱりと言い切ると、龍翔が目を見開いた。
と、愛らしい顔に柔らかな微笑みが浮かぶ。
「ああ、よろしく頼む」
龍翔の細い指先が、明珠の頭に伸びてくる。優しく髪を撫でた指先が、頬へとすべり――。
「龍翔様? そろそろ起きられる時刻ですが……?」
内扉の向こうから聞こえてきた、遠慮がちな
「もう、そんな時刻か。こちらは起きている、すぐにそちらへ着替えに行く。支度をしておけ」
「明珠。すまんが……」
「は、はい……」
身を起こそうとすると、「そのままでよい」と制された。
「
と促され、胸元の守り袋を握りしめて、ぎゅっ、と固く目を閉じる。
身を乗り出した龍翔が、明珠の顔の横に手をつく気配がした。手のひらにかかった重みに敷布団が沈む。
実家の
「どうした?」
「えっ?」
気が
声を上げた瞬間に、唇をふさがれる。呼気が入り交じり、明珠は思わず唇を引き結んだ。
「頼むから、息を止めてくれるな」
一度、唇を離した龍翔が、困ったように囁く。
《気》を得て青年姿に戻った龍翔の、耳に心地よい低い声。
あたたかな吐息が肌をくすぐって、反射的に身体に力が入る。
これではいけないと、頭ではわかっているのだが……。
(や、やっぱり無理~っ!)
くちづけに緊張するなと言いわれたって、明珠には到底不可能だ。
騒がずにできるようになっただけでも大進歩だと、自分では思うのだが……。
「
耳に心地よく響く声に柔らかに名前を呼ばれて、明珠はおずおずとまぶたを開けた。
目の前にあるのは、思わず
先ほどまでの痩せた少年の面影は、整った顔立ちにしか残っていない。
鍛えられたしなやかな体躯。見る者を魅了せずにはいられない秀麗な美貌。深く響く、耳に心地よい声――。
この青年姿こそが、本当の龍翔だ。
愛らしい少年の姿は、禁呪をかけられた
龍翔は、何の肩書も持たぬ明珠から見れば、雲の上の存在だ。
そんな龍翔に庶民である明珠が仕えられるのは、明珠が希少な解呪の特性を持っており、龍翔にかけられた禁呪を一時的にとはいえ、弱めることができるからだ。
そのためには、明珠が龍玉を握った上で、龍翔に《気》を渡さなければならないが、渡す方法がくちづけだなんて……。
生まれてこのかた、恋人はおろか、片想いの相手さえいたことのない明珠には、難易度が高い。高すぎる。
別に、くちづけではなく、涙でも血液でもいいのだが、涙なんて都合よく出るもではないし、血液については、龍翔が「《
それで結局、くちづけということになったのだが……。
明珠だって、ほんの少しは、慣れてきたと思う。といっても、明珠はただ、龍玉を握り、固く目を閉じているだけなのだが、
一度のくちづけで戻れるのは約二刻(約四時間)。龍翔にあてがわれた部屋を出て、用を済ませて戻ってくるには、十分な時間だったのだが。
乾晶を発ち、王都へ戻るにあたって、一つ、冷徹鬼上司の
「王城に戻れば、いったい何が起こるか、わかったものではありません! 行事や公務などが長引き、思うように動けないことも多いでしょう。ですから、王都へ戻るまでの間に、今まで以上に《気》のやりとりに慣れてもらいます! 具体的には、朝の《気》のやりとりで、夜まで青年の姿を保てるようにしなさい!」
明珠が仕えているのは龍翔だが、実際に給金を出している雇用主は
明珠が踏み倒してしまった、
つまり、明珠はどう
その季白に厳命されたからには、やるしかないのだが。
できるかどうかは、まだ別物で。
「明順?」
守り袋を握りしめ、黙りこくっている明珠に、龍翔が気遣わしげに形良い眉を寄せる。
「どうした? やはり、実家のことが気にかかって……」
「いえ、それも気にはなっているんですけれど、それより、その……」
明珠の上に乗り出したままの龍翔を見上げる。
起きている時は一つに束ねている髪をほどいているせいか、雰囲気が柔らかく感じる。
「どうした?」
龍翔が首をかしげるのに合わせて、絹のような長い黒髪が広い肩からすべり落ち、明珠の頬にかかる。
「その……。毎朝、ちゃんとできなくて……。すみません……」
恥ずかしくて、目を合わせられない。
視線をさまよわせながら告げると、視界の端で龍翔が柔らかく微笑むのが見えた。
「季白の言うことならば、気にせずともよい」
そっと長い指先が明珠の頬にふれ、落ちかかっていた髪を払う。
「一朝一夕に慣れるものでもないだろう? お前に無理などさせたくない」
龍翔が優しい声音で告げる。鬼上司の季白とは天と地ほども違う寛容さだ。
と、黒曜石の瞳に
「それに、わたしは初々しいお前を何度も見れて、楽しいぞ?」
「っ⁉」
ぼっ、と一瞬で頬が熱くなる。
龍翔は季白とは違う意味で、心臓に悪いこと、この上ない。
「あ、あの……っ」
言い返すより早く、龍翔の面輪が降りてくる。明珠はあわてて固く目を閉じた。
唇にふれる柔らかな熱。
心臓が早鐘のように鳴り続けている。
龍翔の熱が明珠に移り、思考が
もう、何回もくちづけているはずなのに、どうしても慣れる気がしない。
恥ずかしさと緊張に身を固くしていると。
「……すまん。お前には無理ばかりさせているな」
身を離した龍翔が、ぽふぽふと優しく明珠の頭を撫でる。
その声がうっすらと苦みを帯びている気がして。
だが、明珠を問うより早く、
「わたしは隣室で着替えてくる。お前も支度を整えるといい」
穏やかな声で告げた龍翔が背を向ける。
「は、はい!」
明珠は大きく頷くと、急いで寝台から飛び起きた。
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