※3-1
その日は。そう、その日もよく晴れていた。風もなく、穏やかな日だった。遅い朝食を済ませると、僕はジャック・パーセルを履いて練馬の自部屋から中野まで歩いた。目的も何もなく、ただひたすら歩いた。歩くのは金がかからないし、何より部屋にいたくなかった。中野駅に着くと、そこから電車に乗り、渋谷に行った。
もちろん、渋谷に用事があるわけではなかった。レコードや洋服を見る気にもなれなかった。わざわざ渋谷まで来たにも拘わらず、僕は渋谷から逃げたくなり、六本木方面へとさらに歩いた。
交差点で横断歩道を渡っていると、すれ違いざまに声を掛けられた。スーツ姿の背の高い男で、男は僕の名前を呼んだ。男の顔に見覚えはなかった。髪は短くカットされ、スーツは濃紺の仕立ての良いものだった。それだけに顎から頬にかけて伸びた無精髭がやけに目立った。
話を聞くと、男と僕の間には共通の知り合いがいるということが判った。
「ウーさん。ご存知でしょう?」と男は僕の顔を覗き込むようにして言った。
「ええ、知ってます」僕は戸惑いを隠せないまま、答えた。確かにウーの口からこの男のことを僕は聞いていた。
「一度、ゆっくりお話したいと思っていたんです」
僕には両手に余るほどの時間があったが、男は勤務中らしかった(平日の昼間だ。当然と言えば当然だ)。男は外務省に務めており、先日ヨルダンから帰ってきたばかりだと言う。
「今、中東は何かと大変です」
男は実感のこもった声で言った。
男の言葉から、僕は中東に対するステレオタイプなイメージをいくつか思い浮かべた。が、それだけだった。イメージの貧困。貧困なイメージ。
後日、改めて会うということで男と別れた。別れ際、男は僕に向けて笑顔を見せようとしたが上手く出来ないようだった。ある種の美男美女がそうであるように――男はハンサムだった――男の
次の日、僕はグリーンカレーを作って、食べた。その次の日、僕は残りのグリーンカレーをきれいに平らげた。さらに次の日、男から電話が掛かってきた。
「明日、日曜日はお暇ですか?」
「大丈夫ですよ」僕は簡潔に答えた。もはや、僕に選択肢はなかった。コースターはすでに動き出していた。動き出したものはしかるべきところに収まらなければならない。しかるべきところに。
「では、午後一時にお伺いします」
男も無駄な話はしなかった。伝えるべきことを伝えると、男は電話を切った。電話番号同様、もう僕の住所も調べてあるんだろう。
いつもより早く起きると、まず僕は切らした煙草を近くのコンビニエンスストアまで買いに行った。ついでにアボカドのサンドウィッチとビシソワーズを買った。外務省の男だろうと誰であろうと、これから他人がこの部屋に来るのだと思うと落ち着かなかった。ここに誰かを招き入れるなんていつ以来だろう?
掃除をすべきかどうか迷ったが、結局ほとんど何もしなかった。やり出すときりがないし、とりあえず便器だけは磨いておいた。
男は午後一時きっかりにやって来た。白いTシャツに色の落ちたブルージーンズを合わせ、ダーク・グレーのカーディガンを羽織っていた。まるで山の手に住むカート・コバーンのようだった。髭はきれいに剃られ、半ダースのエビスビールを右手に抱えていた。
「すみません。突然…というわけでもないか。わざわざ、日曜日にお時間を作っていただいて」と男は言った。
「いいえ、どうせ暇なんです」
僕は男が持参したエビスビールを冷蔵庫に入れ、替わりに冷えたハイネケンを二本取り出した。男をソファに座らせ、自分はデスクの椅子に腰を下ろした。
「ストレンジャー・ザン・パラダイスは良い映画でしたね」ビールを一口飲んで、男は言った。
「良い映画でした」僕もビールを飲んで、言った。壁には「ストレンジャー・ザン・パラダイス」のポスターが貼られていた。三人の男女。二人の男と一人の女。ジョン・ルーリー、リチャード・エドソン、エスター・バリント――。
「パーマネント・バケーション、ダウン・バイ・ロー、ミステリー・トレイン」と表情を欠いた声で男が言い、それを受けて、「ナイト・オン・ザ・プラネット、デッドマン、イヤー・オブ・ザ・ホース」と僕が続けた。
「……そして、ゴースト・ドッグか」
すべてを諦めたかのように男が呟くと、しばらく沈黙が続いた。男が言葉を飲み込んでいるのがわかった。僕は何も言わず立ち上がると、ブライアン・イーノの「ネロリ」をターンテーブルの上に載せた。
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