※3-2

男は一頻り「ネロリ」のジャケットを吟味すると、少し見せてもらってもいいですかと言って、レコード棚の物色を始めた。

 ストーン・ローゼズ、ハッピー・マンデーズ、プライマル・スクリーム、808ステイト、シャーラタンズ、インスパイラル・カーペッツ、ジ・オーブ、スープ・ドラゴンズ、ライド、マイ・ブラッディー・バレンタイン――。一枚一枚棚から取り出す度に男は大事故の犠牲者の名を読み上げるようにバンドの名を口にした。僕は黙ってそれを聞いていた。そして、例によってロバート・フリップが言うところの「恩寵の扉」について、考えざるを得なかった。およそ十年。僕は出口もないまま、それについてぐるぐると考え続けていた。いや、出口があったとしてそれは一体何だというのか。男も同じことを考えていたのだろう、「恩寵の扉…」と小さく呟いた。

「恩寵の扉」僕も彼の背中に向けて繰り返した。

 あの時、恩寵の扉は開いたのか? それとも、――。


「私はよく思うんです。ビートルズが出てきて、ローリング・ストーンズが出てきて、学生運動があって。もちろん、その前には戦争があって、復興があって。バブルがあって、九五年があった」

 男はそこで言葉を区切った。

「九五年はあった。たしかにありました」僕はそう言ってビールを一口飲み、「ベルリンの壁が崩れて、天皇も死んだ。『ライ麦畑』もビートニクもあった」と付け加えた。

「はい。ありました。もちろん。…いや、全然上手く言えないな」男は首を何度か振り、唇に右手の人差し指を当てた。「世界の中の自分。自分対世界。流れる時間。二十何年も人間をやっているとわかってくることもあるにはあるんですが」

「大抵のことはわからない」僕は言った。

「わかりません。世界も自分も」

「殊勝ですね」僕がそう言うと、彼は少し俯いた。たぶん、笑ったんだと思う。

 僕は立ち上がり、冷蔵庫から新しいハイネケンを二本取り出して、テーブルに置いた。

「実は一度、随分前にお会いしてるんですよ。覚えてませんか?」新しいビールを手にして、男は言った。

 まったく記憶になかった。

「いつだろう? もちろん、六本木でお会いするよりも前ということですよね?」

 僕は間抜けながらも訊いた。男は答えた。

「プライマル・スクリームの横浜公演。『スクリーマデリカ』発表後のライブです。何だかそわそわして落ち着かなくて、私は友人と開演の何時間も前に出掛けたんです。馬鹿みたいに。着いても当然、誰もいない。でも、会場の裏手に回ったら、私たちの前にあなたがいた」

「さらなる馬鹿がそこにいたわけだ」

 彼は特に笑うでもなく、続けた。

「あなたはじっと壁に耳を当てていました。彼らがリハーサルをしてたんです」

 ボビー・ギレスピーは朗々と、へなへなと「レット・イット・ビー」を歌い上げていた。僕は彼らの演奏を一音も聴き逃すまいと壁にしがみついていた。「レット・イット・ビー」の演奏が終わると、「ヘイ・ジュード」が始まり、そして「サティスファクション」と続いた。

 その日は、これ以上ないというほどの曇天だった。重量のある黒い雲が空一面を覆い、街はどこまでも灰色で、その中で掻き鳴らされた、おそらくは魂など微塵もこもってはいないロック・メドレーに僕たちは縋り、感電した。たかだか九年前の、それはそれは心温まる民話フォークロアだ。

 僕はそこへ高槻とウーと一緒に出掛けた。そうすると、男はあの時、僕だけでなくウーにも会っていることになる。どうして、僕はこんなことをすっかり忘れていたんだろう?

「私は感動すら覚えましたよ。彼らのリハーサルが聴けたことだけでなく、彼らの演奏に熱心に耳をすましているあなたに。それなのにあなた方はライブが始まる前に帰ってしまった」

 その日、僕たちはライブを聴きに来たわけではなかった。

「追加公演で川崎が出たんですよ。で、僕たちは川崎の方に行って、横浜のチケットは売ろう、ということになったんです。つまり、あの日はチケットを売りに会場に来たんです」

「なるほど。そうだったんですね」

「ダフ屋にこっぴどく買い叩かれましたけどね。でも、川崎を選んで正解でした。いや、二回とも行くのが正解なんでしょうけど。金がなかった」

 僕は新しい煙草に火を点けた。

「私は川崎の方には行ってないんです。確か、アレックス・パターソンが回したんですよね?」

「ええ。おっかない顔して回してましたよ。海賊の晩飯みたいだったな」

「行くべきだったと少し後悔してるんです。ロバート・フリップじゃないけれど、――」

「我々みたいなのより、首都高で暴走してる連中の方がしかるべき哲学を持っている可能性はありますね」

「大いにありますね」

 男は演技なのか、真剣に深く肯きながら、手を組んだ。僕はいささかためらいながらも、続けた。

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