※2

 四月の半ばにそれまで六年間勤めていた会社を辞めた。本当ならのいい三月に辞めたかったのだけれど、引き継ぎだ何だと退社は二週間ばかり後ろにずれ込んだ。会社は大手の出版社でうんざりさせられることも多かったし、気が遠くなるような残業もあったが、要領さえ掴めばこなせるものだった。給料も悪くなかった。辞める理由は適当なものを選んだ。理由などどうでも良かった。「なんだか思い詰めてるなと思ってたよ」などとしたり顔で言ってくる者もいた。同僚たちは送別会を開いてくれようとしたがそれは丁重に断った。

 会社を辞めて何をするというわけでもなかった。新宿で割引のチケットを買い、片っ端から映画を観て回った。ビル・エヴァンスを聴き、フォークナーを読んだ。ストリートファイターⅡに大量の硬貨を投入した。時間はたっぷりあった。そんな風にして一ヶ月が過ぎた。


 水曜日、僕は予約していた本を近所の図書館で受け取ると、その足で区営グラウンドに向かった。空は高く、どこまでも晴れ渡っていた。気温は正午を超えてじりじりと上昇し、歩いているだけで汗ばむほどだった。道行く人々は上着を脱ぎ、僕も厚手のスウェット・シャツを脱いだ。

 区営グラウンドに着くと、持参したレジャーシートを広げてそこに寝転んだ。学生たちが楽しそうにサッカーに興じている。不正確なサイド・キック。ぎこちないフェイント。力のないボレー・シュート。見守る女の子たちの甲高い声援。トップ・リーグのプレーを見慣れた目ではどうしても粗が目立つが、たぶんそこそこ上手い。本を読む気にもなれず(借りたのは知り合いの元週刊誌記者が書いたゴシップ本だ)、僕はそんな光景をぼんやりと眺めていた。

 過去。現在。未来。今日も下痢だった。昨日は何食べたんだっけ? 光陰矢の如し。二の矢を受けず。ビー・ヒア・ナウ。ビー・ヒア・ナウ。


 背後から声がした。「何してるの?」

 寝返りを打つようにして振り返ると体操服を着た小さな女の子が立っていた。

 僕はどうしたものかと思ったが、「何もしてないよ」と答えた。

「眠いの?」女の子は続けて言う。

「眠いわけじゃないよ」僕は答える。

 歳は五歳くらいだろうか。よく見ると右瞼が赤く腫れ、目からは膿が出ている。

「掻いちゃ駄目だよ」と僕は自分の目を指差しながら、言った。「お父さんかお母さんいないの?」

「いない」

 女の子はどこまでも無表情で、目は焦点が定まらず、見えない虫を追っているようだった。生まれつき目が悪いのかもしれない。首から紐付けされた定期入れをぶら下げていて、そこには住所と名前と電話番号、そして「見掛けた方は連絡を下さい」というメッセージ(僕宛だ)が書かれていた。

 すぐ近くに交番はあった。最悪の場合(というほどではないけれど)、女の子を連れて、そこへ駆け込むことになるなと僕は思った。交番で行われるであろう警察官との遣り取りを想像して、僕の沈んだ気分はさらに海底にのめり込んだ。

「なんて読むの?」

 女の子は僕の胸を示して、言った。

「サッカニー」僕はサッカニーのTシャツを着ていた。どういうわけか。

「なんて読むの?」

「これは、カールスバーグ」それはレジャーシートにびっしりと描かれていた。

 数秒の沈黙が降りた後、彼女は言った。

「もう、森は作れないよ」

「え?」

 女の子のそれまでとまったく違う声色に驚いた僕がレジャーシートの緑色のロゴから視線を上げると、彼女はすでに消えていた。

 

 僕は茫然としたまま、直に心臓を掴まれたように動けなくなった。。僕は心の中で呟いた。

 学生たちのサッカーはまだ続いていた。控えのゴールキーパーがコートの外でダッシュを繰り返している。審判役の学生が左手に嵌めた腕時計をちらりと見た。

 

 

 

 



 




 

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