※1

 夜中に一人、ビールを飲みながらテレビを観ていると、電話のベルが鳴った。鈍くゼリー状に固まった部屋の空気が一瞬揺れたように思えた。僕は一度大きく息を吐き出し、そしてテーブルに投げ出していた脚をそっと下ろした。

 何度となく、繰り返し観た映画のラスト・シーン。船上の麻薬王。必死の形相で追い掛けるジーン・ハックマン。轟く銃声。そこでテレビ画面は唐突に胃腸薬の広告に切り替わった。冴えないスーツ姿の男が下腹部を手で押さえながら、派手に顔を顰めている。

 ソファーに凭れていた身体を起こし、僕はゆっくりと視線をテレビ画面から鳴り続ける電話へと移動させた。棚の上に置かれた、少し時代遅れの白い電話が急かすようにボタンを赤く明滅させている。

 

 煙草に火を点け、十三回のコール音を遣り過ごし、受話器を取った。

「もしもし」と僕は言った。

 沈黙。応答はない。いつもそうするように、僕は受話器を強く耳に当てた。

 押し殺した息遣いが微かに聴こえてくる。指で紙を弾くような音がする。

 月の裏側。無機質で匿名的なホテルの一室。森の奥の湖の底。あるいは――。

「もしもし」僕はもう一度、言った。

 その問いが応えられることはない。僕はそれを知っている。僕の問いは不景気なアドバルーンのように部屋を漂うことになる。


 しばらくして、電話は切れた。誰かが僕に電話を掛け、その誰かは無言のうちに電話を切った。電話線を通して、僕は誰かと対峙している。誰か。沈黙。それは冷たいマグマのように僕の中にどろりと流れ込む。伝達。コミュニケーション。交換。エトセトラ。エトセトラ。

 無言電話の主について、まったく心当たりがないわけではなかった。それはほぼ毎日掛かってきた。午前三時を過ぎた頃にベルが鳴り、受話器を取るとおよそ二分ほどで通話は切れた。彼(彼女)は僕に何かを訴えようとしている。何か? 悪戯や悪意の類と受け取ることも可能だった。自然に考えればそうかもしれない。しかし、この無言電話をある種の福音と受け取ることもまた可能だった。

 僕は残りのビールを一息に飲むと、また新しい煙草に火を点けた。テレビでは虚ろな顔をした女たちがエアロビクスを始めた。「全米で話題の゙…」「全米で話題の…」場違いなナレーションが煽り立てる。右隅に掲示された十桁の数字は何かの暗号だろうか?


 


僕はひどく疲れていた。熱いシャワーを浴びても冷たいマグマは一向に拭い取れなかった。ベッドに入っても上手く眠れず、僕は早々に眠ることを諦めた。仕方なくビデオ・ラックを漁り、「グリーン・ホーネット」を観始めた(これを観るのも何度目だろう?)。

 頭の芯を抜かれたような気怠さがあった。閉じられたカーテンは光を孕んでいた。窓の外にはすでに朝が来ていた。走り回る新聞配達のカブが今日も変わらぬ日常であることを告げている。




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