惑星の頃の思い出

フランク大宰

第1話 Planet waves

 惑星の頃の思い出 


 僕はここがどこか知らない。気づいたらここにいたのだ。横にいる女性が僕の母親なのかどうかも知らない。たぶん違うのだろう。彼女の髪は黒く長く甘いにおいがする。白く透き通った肌からは僕と違って汗が流れることはない。彼女の黒い瞳に映るこの世界は、真実のこの世界以上に美しい。永遠に続くように見える緑色の草、二つの太陽が出ている間は絶対に晴れることのない白い空、欠けた月の出る寒い夜。


僕が初めて自分を認識したとき彼女はまだ子供だった。


僕にこの草原の世界のすべてを教えたのは彼女だ。


あのころは、ここが草原ということも知らなかった。彼女は古びた本の黄色く滲んだ頁一枚一枚を使って僕にすべてを教えてくれた。 


しかし、そんなことは生きることに必要がない。ここでは、彼女の言う、いわゆる知識は何の役にも立たない。というより、必要がないのだ。


「ここには全てがある」と彼女は言った。


その中で最も重要なのは愛だそうだ。僕にはこれがわからない。


「私たち二人の中だけに存在する」と彼女は言った。昔は外にある十字架にも存在したようだ。これは木でできていて、づいぶんと大きい。しかし、僕も彼女も手入れをしない。もうその必要はないのだと彼女は言うが、僕は時々軽く埃を手ではたく。


僕らはこの十字架の横にある白い小さな球体の中で暮らしている。中には小さな机と椅子、小さい台所、小さなトイレ、小さい窓がある。


眠るときは机の裏のボタンを押すと、僕らは自然に宙に浮かぶ。


「浮かぶことが重要なの」彼女は僕にそう言うけど、僕にはそれは当たり前のことで、深く考える気も起らない。やっぱ、彼女は僕の知らない何かを知っているのかもしれない。でもそれを聞くのは     僕にとっての終わりに感じて聞く気がしない。


昔、球体の家の窓から遠くにかすかに見える大きな顔について彼女に聞いたことがある。


「it  makes  no difference」彼女は十字架を指しながらそう言った。


此処にはいろんな本がある。アルファベットで書かれた本、キリル文字で書かれた本、ラテン語で書かれた本、そして彼女と僕とが話す言葉で書かれた本。しかし、この本に書かれている作者のそれぞれの喜びも悲しみも思想も僕には馬鹿らしく、あほらしく思える。


ここにそんなものはない。無いことは幸せなことなのだろう。なのに、この胸の中にはいつもシコリがあった。ある日、エンパイア・ステート・ビルの挿絵を見た。


僕は高いところに上ったことがない。


僕は感づいていた。これらが現実のことだと。


この間、僕が宙に浮いて寝ていたら急に床に落ちた。僕が驚いて目を覚ますと、彼女が、右側に床に手をついて座っていた。「静かにして」と言って、そっと僕の口をふさいだ。大きな声を出したところで、誰にも聞かれないのにね。そして彼女は僕を抱きしめた。


嗚呼、僕はこれが何なのか知っていた。何かの本に書いてあったのだ。いったいなぜこんなに本があるのだ、知識があるのだ。これでは面白味がないではないか。ふたつの太陽が天に上った時、彼女は頬を赤らめて「ごめんなさい」と言った。なにがごめんなのだ?


謝る必要なんてないじゃないか。そのあと彼女は髪を短く切った。挿絵で見たセシールカットというものらしい。


「にあってる?」


僕は「わからない」と答えた。


しかし、本当はそうだと思っていた。


 草原にはよく雨が降る。この雨のおかげで草原にある数少ない木が成長し実がなる。この実は赤かったりピンクだったり茶色だったりする。木の実を彼女は背伸びしてとる。最近は僕の背が高くなったのでより高いところにある実をとることができるようになった。高いところにあるほうが美味しいのだ。彼女はよく高いところにある実はあまりとってはいけないという。高いところにある実ばかりを食べていると低いところに生えている実を食べられなくなるからだ。僕達が食べることのなかった実は熟れて落ち、そしてその中の種がまた新しい木を創るのだ。草原にある草も木も本の中に書いてある植物とは見た目も違うし成長の過程も違う。僕たちは毎日この実を食べているけれど飽きはしない。いろんな味の実がある。一つ一つまるで味が違うから、いざ美味しい実があってもそれにはもう巡り会えないのだ。彼女は自分が美味しい実に巡り合うと、その半分を僕にくれる。前はそれが嬉しかったが、あれからは僕のほうからあげるようにしている。そのたび彼女は微笑む。 


小さな窓の外に見える大きな顔の近くに木が生えたのに気付いたのは昨日のことだ。僕は彼女にそのことを言うと、彼女は「駄目」と強く言ってから、涙を流した。僕はもう彼女を悲しませないと思った。この時初めて僕はあの本に書いてあった恋という厄介な病気にかかっていることに気が付いた。あいにく草原の様々な草や花を集めてもこの病気に効く薬はない。僕は今まで挿絵の中にいる女たちに好意を持ったことはあったが、苦しく感じることはなかった。まして、彼女とはずっと一緒に生きてきたのだ。なのに、今さら可笑しいじゃないか。その夜、僕は宙に浮かぶことなく彼女と一緒に寄り添いあって寝た。彼女の顔はいつも以上に穏やかだった。



翌日、僕はあの木の前に立っていた。


彼女と一緒に眠っていても、どうしてもこの木のことが忘れられなかったのだ。僕はこのあたりには来たことがなかった。行こう行こうとは常に思っていたが何か嫌なことが起こりそうでいつも近づかなかった。しかし驚いた。この木に実っているのは実ではない。ベルだ。 そしてこの大きな顔は触れたことのない黒くてかたい素材でできていて口は扉になっていた。その顔は僕の顔とも彼女の顔とも違い、昔挿絵で見た誰かに似ているような気がした。僕はその扉を開けようとしたが、ノブがない。僕は自然に何も考えることなくベルから垂れ下がる紐を掴んで振った。「チリン チリリン」甲高くベルが鳴るとともに鈍く低い音をたてて口(扉) が開いた。中は見たこともない光で満たされていて、とても明るかった。まぶしさに目が慣れると、奥のほうに何の模様も、少しの汚れもない鋭く緑色に輝く大きな箱があった。僕は実物の箱というものを初めて見た。僕の生活の中に何かをしまったり隠したりということはなかったのだ。僕は箱を少し開けた。流れ出す青い光と共に現れたのは何処か下へと続く階段だった。


「なんでそんなことするの?」後ろで彼女の声が聞こえた。


僕は振り向かなかった。


「馬鹿よ、馬鹿よ、その階段を降りても何もないわ」


「本当に?」僕は彼女に背を向けたまま言った。


「確かにあなたが本で読んだ世界や挿絵で見た風景がその中にはあるわ、でも、だからそれがなんだって言うの?意味のないことじゃない。この草原とは比べ物にならないくらい汚れていて、汚くて、臭い世界よ。私やあなたのように、綺麗なものはそこにはないの。それに美味しい実もない。醜い人間がお互いをののしりあっているだけ。もちろん、あなたが初めて私以外の人間を見たとき、その人たちに醜さは見出さないでしょう。しかしすぐに気付くわ。そっちの世界の人間には表と裏があるの。


あなただって本で読んだでしょ?


あなたはこの草原の本当の美しさを知っているでしょ?」


今まで彼女がこんなに早口で力強く喋ったことがあっただろうか?


僕らも言葉が必要な間柄になってしまったようだった。


「ああ、知っているよ。じゃ、このもやもやは何だい。割り切れない気持ちは何だい。僕は自分が怖いよ。なんで自らこの幸せと別れなきゃならないのか。ねぇ、教えてよ、どうして僕は君から離れようとしているんだい?」


僕は泣いていた今までにないほどに。後ろで彼女の泣き声が聞こえる。


「もうわかったわ、あなたは馬鹿よ!勝手にしなさい!」


「君もこないかい?」


「冗談でしょ、私はあなたより本を読まないけど、あなたよりも利口なの」


「もう、会えない?」


「私たちがお互い使命を果たしたと思ったら、また会えるかもね。でもあなたは私のことなんてきっと忘れるわよ」


「いや、忘れないよ。絶対に」


 僕は緑色の箱のふたを力いっぱい投げ捨てた。階段の幅は意外に狭い。箱の中は青色に輝いていた。僕は階段を降りて行った。僕は6段目で躓いた。いつもこうだ。


僕は落ちていった。体に少しずつ重さが染みこんでいく。僕は目をつぶった。しかし、瞼から涙が止まらなく流れてきた。僕の涙は僕の頭より上に流れてく。段々と速度を増し落ちていくのは気持ちがいい。まるで心地よい夢に飲み込まれるように。



ふと目を開けると眼下に、あの青い惑星が見えた。


もうしばらくすると地球だ。




 


目が覚めたとき僕はエンパイア・ステート・ビルの展望台でしゃがみ込んでいた。首を上げると外にはニューヨークの摩天楼の明かりがはるかに連なっていた。


白髪の老人が僕に何か言った。


初めて見る地球人だ。


僕はいろいろな言葉の本を読んでいたのに彼が何を言っているかわからなかった。


僕は警備員に見つかり腕を引っ張られ長いエレベーターを降り事務室でいろいろ聞かれた。


やっぱり、何を言っているかわからない。


僕は薄く微笑するだけだった。そのうちに僕はやってきた警官の車に乗せられ白い建物に連れていかれた。その中で僕は目にライトをあてられたり、尿をとられたりした。そのうちに警官は僕の着ていた上着の内ポケットにある財布に気が付いた。


僕はその時すべてを理解したように感じた。


警官は何処かに電話をかけているようだ。


僕は少し目をつぶった。だんだんと草原の景色も彼女の安らかな寝顔も薄れていく。


しばらくすると僕の父親らしき人物が来て泣きながら僕を強く抱きしめた。彼は僕の知っている言葉で「よかった よかった」といった。僕も涙がこぼれた。


僕は何とかこの白い建物から出られた。


出口まで見送りに来た警官が僕に言った。


「how do you like New York?」


僕は知っている言葉を使った。


「it makes no difference」


警官は驚いていた。


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惑星の頃の思い出 フランク大宰 @frankdazai1995

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