白藤の斎宮

じゅり a.k.a ネルソン提督

後編

 神護景雲四年も、明けて半年、山部三十二歳。

 夏も終わりに近い。

 はした女が、歌いながら庭を歩いていた。近頃都のあちこちで聞かれるというこの歌を山部は初めて耳にした。


 葛城の寺の前なるや 豊浦の寺の西なるや おしとんど おしとんど

 桜井に 白璧しずくや よき璧しずくや おしとんど おしとんど 

 しか為せば 国ぞ栄えむや 吾家ら栄えむや おしとんど おしとんど


「そんな歌を歌ってはなりません」

 百済王明信が駆け寄って諌めるのを、窓から山部は見た。

 幼いはした女は口を尖らせる。

「でも、思わず口から出ちゃいますよ。覚えやすくて歌いやすいんですもの」

「都の童はいざ知らず、この宮の者が歌っては絶対にいけないの」

 はした女が不服そうに去っていく。そのとき明信が山部の視線に気づいた。

「ご無沙汰致しております、山部さま」

「久しいな、明信。継縄殿はお元気か」

 二人はややぎこちなく挨拶を交わした。少年のようだった明信が、別人のような落ち着いた身ごなしで頷いた。

 浅黒かった額はお白粉で塗りこめられ、緑の花鈿が端正に打たれている。胸乳辺りも、腰も、豊かさを増し、代わりに昔の活発さを失った明信に、山部は二人の上を通りすぎた年月を思う。明信はとっくに山部とは別れ、今は藤原継縄の妻であった。

 山部は三十四歳になり、今は大学頭として朝廷に仕えている。

「そなたには、あの歌の意味が解るのか」

「御世が不穏なときにこのような童謡が流行るのは、史書を読んだものならば誰でも知っていること。白璧とは白壁王さまに通じ、桜の井戸とは井上内親王さまのこと。葛城とは白壁王さまの祖父君、近江天皇(天智天皇)のことでございましょう。

 近江の帝の皇孫にあたる白壁王さまと、飛鳥浄御原の帝(天武天皇)の血を引かれる井上内親王さま。お二人の間にお生れになった他戸王さまがお立ちになれば、今の乱れた世は……」

「ふん、大方その歌は左大臣永手が流したものだろうさ。あの男は父上や井上内親王と親しい。

 確かに、御世の流れは平らかではない。異例のことが多すぎる。もっともそれで私は初めて位を得たのだからな、悪いとばかりは云えぬのかも知れぬ」

「あのときはお祝いを述べにお伺いすることもできず、失礼致しました。もう、七年以上もたつのでございますね」

「ああ、大きな政変だった」

 聖武大上天皇死後、光明皇太后とその甥藤原仲麻呂は、専横を極めた。仲麻呂は女帝を退位させ、自らの女婿のような立場にあたる大炊王を即位させた。

 政治から遠ざけられていた上皇は孤独と失意から病に倒れたが、その看病に侍した僧道鏡により快癒した。二人が親しくなるのを見た仲麻呂は危険を感じ、新帝(淳仁天皇)に二人の関係を非難させた。

 上皇は怒り、新帝から権力を取り上げてしまう。遂に仲麻呂は謀反を決意するが、既に上皇の手が回っており、近江の湖上で捕らえられ、斬られた。

 新帝は淡路に流され、淡路廃帝と呼ばれるが、脱走を試みて失敗し、翌日亡くなった。 女帝は再び帝位についた。仲麻呂にとって代ったのは道鏡である。道鏡は大臣禅を命ぜられ、太政大臣禅師となり、さらに法王の位を得た。

 去年の話だが、遂に宇佐八幡が神託を出した。道鏡を天皇にすれば天下は泰平になろうというのだ。その真偽を確かめるため、和気清麻呂が宇佐へ派遣されたが、彼の奏上は前のものとは逆だった。

「日継は皇緒に限る」

 怒った女帝により、清麻呂は大隅国へと流された。もっともこの頃左中弁になっていた雄田麻呂が、こっそり清麻呂の生活を援助していると山部は聞いている。どちらの神託にせよ、ひどく不透明な話だ。

 そう云えば、井上内親王の同母妹、不破内親王の事件もある。

 仲麻呂の乱で夫塩焼王を失った不破内親王はこの状況を睨んでもう一勝負に出た。不破内親王の息子は皇位継承権から云えば他戸王とはほぼ同等である。その息子を帝位につけるべく。

 佐保川の川原に転がっていた髑髏の中に、ひそかに盗んだ女帝の髪の毛を入れて呪咀を行なったというのだ。

 事は発覚し、不破内親王と息子は都から追放された。

 もう、誰も女帝を止められない。一連の政変で皇族たちの殆どは失脚するかあるいは殺され、残っているめぼしい皇族は、酒に溺れた白壁王くらいなものか-。

「この世は狂っている」

 山部は云った。

「もう、何が起ころうとも驚かぬ。私は学んだ。私は知っている」

 何を……?

 それは山部が位を得て、昇殿を行なうようになって二日後、未だ初めて見る平城宮が何もかも新鮮に映った頃のことだった。

 その朝もまだ明けぬ頃おい、宮の中がひどく慌ただしい。訳も解らず山部は歩き回り、やがて父白壁王を見つけた。

「何があったのでしょう」

「高野の上皇(女帝)が帝(新帝)のおわす中宮院に兵を遣わし、取り囲んでおるのよ」「大師(仲麻呂)が斬られ、最早後見がおありにならない帝は……」

「うむ」

 白壁王は沈黙する。

 まもなく朝礼が始まった。山村王が緊張した表情で上皇の詔を読み上げる。

「口に出すのも恐れおおい先帝天の帝(聖武)のお言葉で、朕に仰せられたことには、

『天下は朕の子の汝に授ける、そのことは言ってみるならば、王を奴にしようとも、奴を王としようとも、汝のしたいようにし-』」

 そのとき山部の視界が、暗転した。

 山村王の代読は続いていた。だから後継者として選んだ帝がそれにふさわしくなければその位に置いていてはいけない。その言葉に従い帝を廃する。そのようなことを云っていたのだが、それを山部はうろ覚えにしか覚えていない。山部の頭の中ではただ先程の、

「王を奴にしようとも、奴を王としようとも」

という言葉のみが回っていた。

 時代は、変えることができるのだ。望みさえすれば。

 雲がかげった。

「おや、一雨来るのだろうか」

「君さま、お使者が」

 息急き切ってやって来た木賊色の服の男を一目見て山部は、それが雄田麻呂のところの家人であることに気づいた。

「申し上げます。左中弁様よりのお知らせでございます」

「何か」

「帝が、先程崩御されました。すぐに平城宮へお越しを」


 歴史は山部が馬を飛ばして宮へたどりつくまでの間に既に動いていた。

 殯の支度を横目に見ながら、重臣たちは帝の死を悼む暇もなくただちに会議を始めた。帝は道鏡を帝位につけることができなかった当て付けなのか、最後まで皇嗣を決める事がなかったからだ。

 候補に大して選択の余地はなかった。右大臣吉備真備は飛鳥浄御原の帝の孫に当たり、既に姓を賜り臣籍に下っていた文室浄三を推薦したが、彼は辞退した。真備は続いてその弟大市に打診しようとしたが、その間に雄田麻呂が動いた。

 老いた真備が再び口を開こうとしたとき、雄田麻呂が飛び込んできた。

「帝の詔勅が見つかりましてございます」

「馬鹿な」

 真備は思わず云った。しかし左大臣藤原永手が睨んだ。

「不敬なことを。見つかったというなら、見ねばならぬ」

 さらさらと雄田麻呂が開いた紙には、こう書いてあった。

「白壁王は諸王のうち最も年長で、先帝(天智のこと)の功績もある。よって白壁王を太子とする」

「馬鹿な」

 もう一度真備は云った。

 だが、永手は頷いた。

「いちいちもっとも。白壁王は平城宮御宇天皇の皇女を妃にしていることもあり、誠に以て帝にふさわしいであろう」

 真備は一歩前に出ようとした。それを押し止めたのは内大臣藤原良継。

 まもなく大広間に詰めていた臣たちの間に歓声が揚がった。

 雄田麻呂はすぐに軍隊を集め、平城宮と関所、そして白壁王のいる井上内親王の宮を護った。

 一連の動きの中で真備もすぐにこのからくりを悟る。筋書きを書いたのは藤原家の三人であり、全ては既に定まったことであったのだと。しかし力ある豪族の出身でもなくただ女帝の信頼のみを自身の権力としていた真備に最早打つ手はない。

 孤立した真備は職を辞し、新しい時代が始まった。


 山部は采女に手伝わせて、この前染め変えさせたばかりの深紫の衣服をまとった。着馴れぬ綾織りががさがさと固い。

 初めて付いた供の者を呼び、しとうずを履いた足を廊下に踏みだす。父の立太子、そして即位以来、左京二坊の地に新帝のための楊梅宮の建設が始まってはいるが、とうてい間に合う話でもなく、即位の礼以来平城宮が引き続き使われている。六十年もたつ古い宮だが、方々建て替えも行なわれており、磨きたてられた床からは、今以てほのかな桧の香が漂う。

 だが山部は苛立っていた。

 それと同時に内々に次の東宮についての沙汰が行なわれるであろう。

 それは、誰なのだ。

 白壁王には既に三人の妃が侍っている。他にも妻はいたが、殆どが召人と呼ばれる采女上がりである。即位後、永手の娘を娶るとも聞いていた。

 この度の即位により親王と呼ばれることになる皇子は、山部を入れて四人いた。

 山部自身、そして同母の弟の早良。

 尾張女王の子稗田。尾張女王は白壁王と祖父を同じくする皇族で、身分が高い。これも可能性としては考えられるが、もっと恐るべき存在は他にいた。

 井上内親王。その息子、他戸。

 廃れ皇子の白壁王が思いがけなく帝位などに付くことになったのは、井上内親王の夫だったからだ。功労者といってもいい井上内親王の子が、何も与えられぬなどということはありえない。また、永手が黙ってはいないだろう。

 そこまで考えて、山部は、他戸の顔を見た事がないことを思い出す。

 他戸が生まれたばかりの頃は、父に呼ばれても何かと用事を作って、井上内親王の宮に行くのを避けていた。己れの邪な想いがこの世に生み出した妄りがわしい肉の塊を目のあたりにするのが恐かった。

 そして、いつのまにか忘れていた。己れ自身いぶかるほど速やかに、あれほど求めた内親王の面影が、記憶の彼方へと消えていく。最早思い出してもそれは痛みではなく、山部は他戸のことを罪の子というより父のもっとも有力な後継者と見ている。

 宝亀元年、十月六日。


 大極殿に白壁王が現われた。

 重そうな冠には、長方形の冠頂板とその前後の玉の飾り。赤赤黄色の袍は大袖で日、月、龍、火、山などが刺繍されている。

(父上もあまり様になっていないな)

 昔から、美男ではなかった。顔が大きく、への字に結ばれた薄い唇と長い鼻が淋しげに見えた。切れ長の大きな目は犬のそれに似ている。詔を記した紙をもった手は骨張り、腰はかすかに曲がっていた。髪はすっかり白く、物腰は大儀そうである。山部は父を皇位に据えた永手たちの残酷な打算を見る思いがして、ちょっと目を伏せた。

「ち、朕は拙く、愚かな身でありながら、天皇の高い地位を受け継ぎ、恐れ多く進退をどうしたらよいか、わからないのであるが-」

 若い臣の中には、欠伸をしているものもいる。

「法のとおりに、口に出すのも恐れ多い春日宮においでになった皇子(白壁王の父志貴皇子のこと)を天皇と称し奉り、また、兄弟姉妹と諸皇子たちをすべて親王とし、冠位を上げ、しかるべく取り計らうこととする」

 天皇の子女では山部の他に、能登、弥努摩の両内親王に四品の位が授けられた。

 独り、三品を授けられたのは井上内親王の娘、他戸の姉にあたる酒人内親王であった。

 この場では他戸親王は名を呼ばれなかった。井上親子を大々的に後見している永手はその意味をいずれにも測りかねて首をひねっている。来ているのだろうかと山部は雄田麻呂に尋ねたが、首を振られた。

「成年に達した皇子は皆いらしている筈ですが……」

「まあ、いいが」

 他の、天皇所生の子女が皆位階を貰ってしまうと、天皇はやや姿勢を正した。

「さて」

 さっきまでのおどおどしたところが消えた。ひどく真面目な表情をしている。

「皇后に井上内親王を定めることにする。皆、異存はないな」

 太極殿内には特別な反応も見られなかった。永手が頷いただけだ。

 しかし山部は、全身を伝わる冷たい汗を感じた。自分でも訝しむほどであった。長い年月がたった。昔のこと。ようやくその名を聞いても焼け付くような痛みを覚えなくなっていたのに。

 それは、予感だった。

 井上内親王は、その場に姿を現したのだ。


 新皇后は、慎ましく天皇の傍に立った。金の冠から垂れ下る飾りが揺れ、かすかな、澄んだ音を立てた。

 群臣は、打って変わって鎮まりかえった。

「寧良宮御宇天皇に、似ておいでだ……」

 永手が涙をこぼした。山部は井上内親王の父の貌を知らない。ただ、永手をそこまで感動させたものが、ただ単に内親王が父に似ているというだけでないのはわかっていた。

 偉大な寧良宮御宇天皇の面影、その高貴なる徳。それは藤原氏の血を色濃く留めていた先帝にはなかったものだった。

 そして彼女はそれに加え、長年の斎宮生活よりの、真新しい桧の匂いのような、辺りを払う清澄な気を持っていた。今年五十三歳とはとても思えぬ若々しさ。真に天皇はふさわしい皇后を選んだ。白壁王が新帝に選ばれたのは正しい血を引いた内親王を妃に持っていたがゆえ、とさえ思わせるものだった。

 そして山部の眼は十三のときのそれになっていた。

 内親王の一挙一動が光り輝いて見える。山部の少年の瞳はむさぼるようにその動きを追い、鼻孔は藤の花の甘い薫りを憶え、手はあの日の感触を探る。

 眼を伏せていた井上内親王がふと、視線を上に上げた。

 山部と目が合った。

 美しい顔に、さっと恐怖が走った。


 中宮殿に通じる廊下の、大きな柱の影に山部は身をひそめている。

 いわゆる後宮は、この時代中宮殿のことである。先程帝と同席して大極殿にて大臣たちのとる政務を見守っていた皇后は、まもなくここを通る。

 まさか一人ではないであろう。しかし侍女たちと後宮に下がったのち、着替えなど済ませて、皆を下がらせくつろぐ一瞬があるはずだ。後をつければ、その隙をとらえることができるだろう。何しろ山部は、中宮殿の中がどうなっているかもわからないのだから。

 廊下のすぐ下を、庭園につながる小川が流れている。

 桜が終った後、辺りに咲き誇るのは藤の花。これから犯す罪も忘れ陶然となった山部はそのひと房をそっと摘む。

 香りに酔っていた。

 井上内親王の、あの時の表情を思い出す。山部を見て、さっと顔を強ばらせた。まぎれもなく、内親王もまた、あの夜を記憶していたのだ。

 問いたいことがある。願いたいこともある。三十三歳の山部の中に今もって住む十七の青年は、たくさんの伝えたいことを持っていた。

 視界の向こうに、虹のような色彩。

 笑いさざめく若い采女たちの中に、その人はいた。

「まあ、藤の花がおもしろく咲き誇っていること」

 内親王の顔が暗くなったように見えた。

「藤は好きではないわ。香りが重すぎて……」

「でも、桜はあんなに美しいのに匂いはないし、梅の花は姿がもうひとつ。ほら、流れの上にほろほろと散る風情をご覧なさいまし。歌ができそうではございませんか」

「そうね、まるで伊勢みたい……。おまえたち、ちょっと先に帰っていて。少し眺めていたいの」

 強い香の香りがして、采女たちが山部の前を通りすぎた。

 一人残された内親王は、柱の一本に手を添えて、しなやかな柳のように立ち尽くしていた。顔を少しうつむけていた。

 抱き締めたいような激情に駆られて、山部は飛び出していた。

 不意を取られ、内親王の領巾が翻る。

「あなたは-!」

「お願いでございます。なにとぞ、なにとぞ人をお呼びにならぬよう。皇后様にお聞きしたいことがございます」

 山部は内親王の前に取りすがらんばかりに膝まづいた。

「山部親王……」

「他戸親王は、私の子でございましょうか!」

 世界が静止し、その間を風がゆっくりと吹き抜けていった。

 内親王は、ふらふらと柱に背をもたせかけた。言葉を一言々々絞りだした。

「他戸も大きくなったわ。そうしたら、天皇はお気づきにならないけれど、声が、あなたに似ているの」

「ならば!」

 山部は地に手を突いた。

「あなた様の中に私はずっと生きていたのですね。他戸親王の中に、あなた様は私を見ていたのでございますね。それは、つまり-」

「違うわ!」

 井上内親王は両手で顔を覆った。その仕草に、初老の疲れが滲み出ていた。

「わたくしはあの夜以来私の胸の中に住んでいるあなたを殺めようとずっと努めていたのよ」

「私への愛だ」

「違います。わたくしはあなたの父君の妃。そして天皇の妃。どうして他の男君に心を移せましょう」

「ならば父を弑逆しても見せよう。天皇になっても見せよう」

「あなたにはお解りにならない……そういうことではないのよ」

 かすかな水音が、次第に大きく響いてきた。藤の花はちぎれるように散って、次々に流れていく。

 山部は続く言葉を失った。暗いたぎりは己れの内側にどす黒く沈んでいく。

 井上内親王が、山部に笑顔を向けた。それは山部に与えられた初めての表情だった。

「このような忌まわしい秘密を背負って生まれてきた他戸がわたくしはいとおしい。わたくしは、あの夜の過ちの思い出としてあの子を守っていきたい。だから……。

 あなたはお若い。過ぎたことは過ぎたこと。わたくしのことはどうぞ、お忘れになって」

 山部の頬に、一筋、涙が落ちていった。

 衣擦れの音。顔を上げると、井上内親王が裳をさばき去っていく姿が見えた。

 山部はしばらくそこにうずくまっていたが、やがて立ち上がった。ひどく惨めだった。ゆっくりと、自分の内で十七歳の青年が死んでいった。

 大極殿の方に戻ると、雄田麻呂が目ざとく山部を見つけた。

「雄田麻呂か」

「山部さま、私が百川と名を改めたのをお忘れでございますか。新たな世に私も新たな気分で……おや」

「どうかしたか」

「こんなところに白髪が。はて、私は毎日君さまを拝見しているのに」

「私は今の間に二十も年を取ったのさ」

「は?」

 そして-。

 翌年、正月辛巳。


 そろそろ皇太子を定めるべきだという声はあちこちで囁かれていた。天皇の決定は何事も遅い。無能ではないのだが、何事も口の中で納得行くまで咀嚼し、決断を下す。

 皇太子の候補には幾人もの皇子の名前が挙がり、消えていった。永手は勿論他戸親王を推したし、百川は山部を強力に推進したろう。稗田親王の名を挙げるものもあった。新田部親王や舍人親王など、天武系の親王の子孫たちも今上帝決定時の混乱を踏襲して、皇位継承権を主張できる立場にあった。

 政局は嵐をはらむ-。

 山部はその真っ只中でただ耳を塞いでいた。何も決定して欲しくはなく、何も聞きたくなかった。山部は母の胎内に潜りこむように妃たちを召し寄せ、狩りに溺れて過ごした。百川などが幾度となく足を運んだが、皆会わずに帰した。

 そして、ある日。

 久方ぶりの大規模な朝参で、山部は重い身体を大極殿へと運んだ。諸臣がかつてないほどに集合し、冬というのに室内はぽかぽかと暖かい。

 山部は百川の姿を探した。

 右大弁という要職にありながら、百川は大極殿の隅に、影のように立っていた。

「久しいな、百川」

 彼の顔の眼窩が落ち窪み、暗い広間の内で髑髏のように見えた。

「今日のこの日をついに迎えてしまった。君さまが、お動きになられぬから、私はいかに動いて良いのかわからなかった」

「どういうことか」

「ご存じなかったのですか」

 百川が、押し殺された悲鳴のような声を立てた。

「誰も彼もが知っていることを。他戸親王が皇太子に立たれることに決まったのです」

「…………」

 そのとき、

「天皇、皇后のおなりじゃ」

 先触れの声と共に二人が現れ、山部と百川は沈黙した。

 蔵人頭が代読する。

「法にしたがって皇后の子他戸親王を立てて皇太子とする。そこで、このことをよく知って、百官人たちは仕え申せと仰せになる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す」

 新鮮味はない。が、百年も前から懸案だった天智系と天武系の血の融合、表立って文句を云えるものは誰もいないだろう。それは正しい選択だ。

「新たな日継ぎの皇子には朕の統治を手助けしてもらうものとする」

 天皇が合図をすると、奥の帳から、皇太子の黄丹の上衣を着た上背のある華奢な体躯の少年が出てきた。

 その晴れやかな顔は、母井上内親王によく似ていた。十五歳の他戸親王は無邪気に周囲を見回すと、皇后の隣に着座した。それを天皇が顔をほころばせて眺めている。

 井上内親王が、息子に何か囁いた。親王は母と父にはにかむような笑顔を向けると、立ち上がった。

「ちょっとお待ちなさい」

 皇后が声をかける。他戸親王が立ち止まると、皇后は手を伸ばし、素早く息子の頭に載せられた漆の冠を直した。自然な動きだった。

 それが山部を傷つけた。

「否!」

 山部は全身で叫んでいた。

(そうかも知れない。しかし私は嫌だ!)

 他戸親王が東宮にふさわしい、穏やかな物腰で皆に何事かを語りかける。山部は聞いていなかった。

(このような情景が嫌だ!)

 目の前にあるのは山部と井上内親王の一夜の罪の共有がもたらした肉塊の筈だった。

 それが。

 他戸の貌の中に、それを思わせるものは何一つない。井上内親王が恐れていた声すらも似てはいない。

 そして、山部一人が暗い記憶のなかに封じこめられていく。

「私はあんな若造を天皇の地位につける気はない!」

 朝参の後、二人きりになったときに山部は百川に向かって叫んだ。

 百川はわざとか、素気ない返事をした。

「そのご意志、いかにして皆を納得させたものでしょう? お血筋から云えば他戸親王の方がずっと次の帝には相応しゅうございましょう」

「正邪など私が知るものか! 私はただ、そうしたいんだ!」

「それをお伺いできれば」

 百川は慇懃に頭を下げた。

「ただ、それは皇太子の没落を招きましょうが、それは構いませぬので?」

「構わぬ」

 山部は落ち着いて答えた。心の中で、なぜもっと早くこうしなかったのだろうと、思いながら。


 一月の後、藤原永手が死に、井上内親王親子は強力な後見を失った。

 山部はちょうど後宮に勤める典侍の地位に百済王明信を推しているところだった。またかつて高野天皇に仕えており、天皇死後は自邸に下がっていた百川の母久米連若女も、息子の推挽で再び後宮に戻っていた。

 七月始め、渤海からの使者が出羽の国に着いた報せが朝廷にもたらされた日。

 天皇の口から指示が始まったその時、明信が大極殿に走り込んできた。

「何か」

 明信の夫藤原継縄がたしなめる声を上げた。

 群臣の集う真っ只中に一人立つ形になった明信は、自分の領巾をつかんで身体を震わせていたが、継縄の腕の中に飛び込んだ。

「恐ろしゅうございます! 今度は庭園の庭石の下より、このようなものが」

 明信はかじかんで赤くなった指で、摘むようにして持っていた領巾をそっと開いた。百川が進み出てそれを受け取る。

「これは-」

 百川の表情がさっと変わった。

 それは古びた髑髏であった。ぽっかり黒く空いた眼窩に白髪が丸められて入っていた。「典侍、どこでこれを? 大極殿前の庭か?」

 山部の落ち着いた声に、明信は継縄の肩越しに射るような視線を投げた。

「後宮に、ございます」

 百川は継縄に何事か語りかけ、継縄は髑髏を持ち、妻を連れてその場を下がった。百川はその場を取り繕うべく声を張り上げた。

「軽々しくお騒ぎなされぬよう。呪咀といえば大罪、非常に事は重大なれど後宮のなかの出来事とあらば、我らが皇后の意向を無視して軽率に下手人を暴き立てるわけにもいきますまい」

「その通りだ」

 天皇が慌てて云った。

「このようなこと、前にもあったのか」

 山部は百川に問う。

「詳しいことは存じませぬが、左大臣没後よりぽつぽつとそのような噂が」

「どこで」

「後宮内に、ございます」

 沈黙が大極殿内を走る。幼い他戸親王が不安気に父帝を見た。天皇が口を開いた。

「このところこのような動きは治まっておったに、嘆かわしいことだ。しかしまだ何者が何のために誰を呪咀したのかも解らぬ。左大弁百川はこの件に対し十分に注意し、変わったことあらば朕か皇太子にすぐ報せるように」

 百川の眼がきらりと光った。

 夜も更けて山部が久しぶりに交野の母の館に戻ると、采女が明信の来訪を報せてきた。山部は自室の牀に横になって明信を待った。幾度も二人の愛の舞台となった牀の上で。

 やってきた明信は疲れ切って、頬に、血の気が無かった。牀の横に椅子を引き寄せ、腰を下ろした。

「全ておっしゃる通りに致しましたわ」

「それでいい。……そんなに震えるでない。何を恐れることがある、本当に呪咀があったわけでもあるまいに」

 明信は激しく身をよじった。

「本当にこれは必要なのですか、君さまが天皇になるためには皇后を陥れるほかはないのでございましょうか!」

「声が高い」

 山部は明信の肩に手を置いた。

「もともと父上が天皇に選ばれたのは、井上内親王を妃として他戸親王を儲けた故、それはそなたにも解ろうが。内親王には何の落ち度もない-それなら、作り出すまで。私のような卑母の親王が血筋正しい他戸に取って代るのは、楽ではないのだ」

「このようなことを申すことをお許しくださいまし。それにしても、こういうやり方をしなくても良かったような気が致します。東宮お一人を攻めれば済むことでは」

「昔から、そなたは一言多かったな」

 山部は明信の身体を牀の上に引き寄せた。彼女は抗わなかった。こうした場面に至ることを半ば予想していたようだった。

「君さまのおためと信じていればこそ……。でも、このようなことは嫌」

「泣くな」

 山部は女の唇を塞ぐ。


 続々と見つかる呪咀の髑髏。

 それはようやく平和が戻ったかに見える朝廷を恐怖と不安の暗黒に叩き落とす。病んだ空気は至る所に蔓延し、采女たちは怪しげなお守りを肌に付けて行き交う。

 夏が過ぎ、秋が過ぎ、年は明けて宝亀三年二月。

 大和に晩い雪がちらついた。かじかむ朝。倉から後宮へと至る渡り廊下で、百川の母久米連若女が采女たちを指揮して白絹の布に包まれた幾つもの白木の箱を運ばせていた。

「何をしている」

 山部は訊いた。

 昔不義をして下総に流されたというこの女は未だ往時の色香を失っていない。山部に気づいて後れ毛をかきあげた仕草がひどく官能的だった。

「伊勢からお祓いの道具を取り寄せたのでございます」

「誰が使うのだ? 皇后か?」

「その通りでございます。あいつぐ呪咀の騒ぎで皇后は天皇や皇太子のことをとても心配しておられまして、これから手づから祈祷をなさるところですわ」

 山部はしばらく箱をぎこちなく抱えて歩いていく采女たちの色彩を見つめていた。

「若女、あれと同じような白木の箱と白絹をこっそり調達できはしないか」

「何をお入れするのですか」

「髑髏」

 若女がはっとして身を震わせた。

「かしこまりました。急ぎ用意いたします。箱も、そして中に入れるものも」

「百済王明信に手伝わせろ。それと、急ぎ百川を呼んでくれ」

 山部は踵を帰し、百川を自分の管轄である宮内の文殿で待った。

 やがて緊張した面持ちの百川を従え、中宮殿の天皇の御座へと急いだ。

 天皇は口をすすぎ、朝の食事を摂っているところだった。茶碗を持ったまま、

「山部か。食事は済んだか? まだなら何か取らそうほどに」

「それよりもお人払いを」

 百川が、まず口を開いた。

「宮のあちこちから発見される髑髏が、どこを向いているのかを私は調べておりました。皆、大極殿の天皇の玉座の方向に、向けられております」

 天皇の手から、金属の匙が滑り落ちて鋭い音を立てた。

「それは-、朕に向けられたものというのか!」

「そう云えば眼のなかに決まって入っている髪の毛は、見事な銀髪でございましたな」

 山部が口を挟む。

「しかし、誰が朕を狙うというのだ」

「帝が早く崩じれば、得をする者」

「それは、誰なのだ」

「恐れながら」

 百川が厳粛な表情で告げる。

「ただ今の東宮と、その母后かと」

「それは浅はかな。朕は老い先短い身ではないか」

「しかし天皇の御髪を簡単に手に入れられるのはやはり父上のお気にいりのお妃である皇后ではございませぬか」

 山部は静かに云った。

「父上が長生きされましたら、その間に稗田親王も成人致します。万一今の東宮が若くして亡くなれば、権力の流れは皇后の手を外れましょう。それならば今のうちにと、皇后がお考えになってもさほど不自然ではない気が致しますが」

「うむ……」

 天皇は頭を抱えた。百川の言ではまだ半信半疑だったろう。しかし天皇は長子の山部を信頼していた。

「それに」

 山部はこの時のために準備されてきた決定的な一矢を放つ。

「呪咀のやり方にもいろいろございます。木の人形を使ったり、紙の人形を使ったり。その中であえて髑髏の眼に髪の毛を入れるという方法を取った。これは皇后の妹君のやり方そのままでございましょう」

 天皇は目を見開き、口をぱくぱくさせていたが、やっとの事で言葉を発した。

「こ、皇后を呼べ。申し開きを」

「私がお呼び致しましょう」

 百川が立ち上がり、廊下へ出て、歩いていた百済王明信を呼び止めた。明信は頷いて中宮殿北面の皇后の御座所の方に向かった。

 まもなく悲鳴が聞こえた。

「いかが致した!」

 山部と百川は悲鳴のした方向へと走った。

 明信がその場に立ちすくみ、傍で箱を抱えた若女が腰を抜かしていた。

「皇后のご祈祷用の箱ではないか。いかがした」

 若女が泣き声を上げて息子にすがりつく。

「見ておくれ、この箱の中を」

 後からよろめきながらやってきた天皇が、その箱を取り上げて中を見た。

 髑髏が詰まっていた。


 翌日、廃后の宣命が下った。

 二ヵ月後、廃太子の宣命がそれを追った。皇后はともかく、罪のない他戸親王までも連座させることを天皇は躊躇した。それをここぞとばかり詐術に近いやり方で決着をつけたのは百川だった。

「あのような大それたこと、女性一人の手におえることではございませぬ。東宮が事の経緯を後存じない筈がない。また、謀反を行なうような女性のお子でございます。このまま皇太子の位につけておけばまたぞろ同じようなことをお考えなされるでしょう」

 天皇は衝撃から床に就いたまま、百川の奏上を受けていた。百川の言をまともに聞いているのかいないのか、引っきりなしに寝苦しげに身を動かす。そのたびに湿気てくたびれた絹の病鉢巻がこすれて嫌な音を立てた。

 遠くで雷鳴が聞こえた。

「帝、勅旨を賜りませ」

「わかった……。位より斥けさせ、心を鎮めさせよ」

 百川はその場で紙に書いた。

「帝、判を」

「こ、これでよいか。-しばらくの間東宮を謹慎させるが良かろう」

 百川は無言でその場を下がる。

 翌日、百川はその詔を皆に示した。天皇は御気分御不快のため、御姿を見せず。

「-皇嗣と定め、儲君とした皇太子の位に謀反・大逆の人の子を決めておいたなら、公卿たち、百官人たちや天下の人民がどう思うか、恥ずかしく恐れ多い。

 -他戸王を、皇太子の位を停め斥ける、と仰せになる天皇のお言葉を、みな承れと申しわたす」

 永手生前ならば皇太子を擁護する意見も出たろうが、今では政局は良継・百川系の方に移ってしまっていることを頭のあるものならば誰もが承知している。ただ右大臣大中清麻呂が、

「斥けるとは、どれほどの期間のことか」

と訊いただけだ。

 百川は右大臣が縮みあがるほどの鋭い視線を飛ばした。

「決まっておりましょうが。永く斥けること」

 終わった後、山部は百川を追いかけた。

「私も几帳の蔭で父上のお言葉を聞いたが、そこまではおっしゃらなかったようだが。御快癒の後それを聞かれたらお怒りになろう」

 百川は鼻で笑っただけだった。

「山部親王ともあろうお方が何を子供じみたことを。帝とていかにして御自分が天皇の御位につかれたのかくらいご承知でございましょうよ」

結局山部と百川が心配する必要があったのは、天皇のみであった。まだ呪詛といったものが大きな効力を持つ時代であった。呪詛という事実は井上内親王の背後にある大きな力であった天武系皇親勢力をも即座に黙らせるほどの効力を持っていた。

 しかし藤原の後押しをもってしても、なお、山部親王が新たな東宮の位を得るまでには紆余曲折を要した。有力な候補である稗田親王が未だ若年であることを差し引いても、遠く、壬申の乱を招いたのが、元々は、天智帝が血筋正しい皇太弟を差し置いて、卑母の息子を帝位につけようとしたためであることは、今なお群臣の記憶に新しかったからである。結局天皇と群臣の間で合意を見たのは、山部親王が廃后の娘である酒人内親王を妃とする、という条件の下であった。

 宝亀四年正月。山部三十七歳にして、立太子の命が下る。

「明つ神として大八洲を統治する和根子天皇のお言葉として仰せられるお言葉を、親王・諸王・諸臣・百官人たち、天下の公民たちは、みな承れと申しわたす。

法に従って行なわるべき政務として、山部親王を立てて皇太子と定めた。それ

故にこの事情を理解して、百官人たちは仕えるように、と仰せになる天皇のお言葉を、みな承れと申し渡す。天下に大赦する。但し、謀議による殺人、故意による殺人、贋金づくり、強盗、窃盗など、通常の赦で免されない者は、いずれも赦免の範囲に入れない」

百川はこの詔を蔵人頭に任せることなく、自ら読んだ。山部は真新しい黄丹の衣服を身に纏い、初めて自分が主役になった詔勅を聞いていた。

予想していた勝利感はなかった。百川が時折喉を詰まらせるのを聞きながら、山部は己の淡白な反応ぶりをいぶかってさえいた。そこにあったのは、奇妙な空白のみ。

百川は井上内親王親子を更に追撃し、十月に天皇の姉の、年老いた難波内親王が亡くなったのを更なる呪詛のためと言い立てて、親子を吉野の山奥に幽閉することに成功した。その画策に責任がなかったわけではないが、山部は何等その決定に心の痛みを覚えなかった。皇太子となり、公私共に忙しい生活を送る中、既に内親王の記憶はいつの間にか鮮明さを欠いてきていたのである。

ある日、山部が春宮殿にて侍女に脚を揉ませているところに、百川が足音を忍ばせてやってきた。

「頃合もよろしいかと。もはや新たな体制が固まり、山奥に幽閉されている廃后と廃太子のことを思い出す者も少なくなりましたでしょう。帝がまた他戸王を復位させようなどとお考えにならぬ内に」

「うむ、そうだな。そなたに任せよう」

脚を揉ませながら、答えた。


井上内親王と他戸親王の短い栄華と哀れな死は、しかしさすがに世人の同情を引いた。両人が同じ日に死んだことは百川が否定してもなお根強い暗殺の噂を呼んだ。井上内親王が死して龍に変化したという流言を飛ばす者もいた。

様々な不思議な出来事も起こるようになった。

白い虹が天を貫いてかかった。

日食が起き、地は暗黒に覆われた。

瓦や石、土塊などが京のあちこちに降るという気味の悪いことも起こった。これは二十日余りも続いた。

山部は脅える天皇や群臣を励まして笑っていたが、宝亀八年末、その山部が病に倒れるに至って人々の恐怖は頂点に達した。天皇は塚の扱いを受けていた井上内親王の墓を改葬し、御墓と呼ばせることにした。宝亀八年、廃后没後二年目のことであった。

夏。

「格子を閉めてくれぬか」

床の上で、山部は枕許で氷を割っていた百済王明信に頼んだ。

「いかが致しました。寒うございますか」

「いや。寒くはないが風が通って藤の花の香りが流れ込んでくる。重苦しゅうてかなわぬのだ」

明信はかすかに微笑んだ。

「君さまは藤の花の香りがお好きと伺ったことがあるような気が致しますが」

「そうだったろうか。あまり覚えがない。はて。

ところで、酒人内親王を見なかったろうか。春宮殿に泊まり込んで看病してくれると聞いたに、一昨日あたりから姿が見えぬ」

明信はそれとわからぬほどに、視線を外した。

「さあ、わたくしも存じませぬ」

山部は明信を見つめた。若く美しい酒人内親王は山部鍾愛の妃であったが、明信が嫉妬から隠しているようにも見受けられなかった。

「別に、隠さずともよいぞ。内親王が、年寄りのこの私に満足できず次々と不倫の道に走っているらしいことは、既に耳には入っておる」

そのとき庭の方で明るい笑い声が響いた。

一人は若い、鈴を転がすような澄んだ女性の声で、もう一人は若い男の声。

明信は顔を伏せた。山部はそんな明信に声をかけた。

「庭を見たい。起こしてくれぬか」

「大丈夫でございましょうか」

明信は、老いて力を失った細い腕で山部を抱え起こし、廊下に出る手助けをした。半年以上も薄暗い室内になれた眼に、日差しが白くまぶしい。

「下がってよい。一人で歩ける」

笑い声はなおも軽快に響いていた。きゃしゃな体つきの酒人内親王が透き通った白絹の裳をなびかせて蝶のように庭石の間を舞っている。その後を若い男が少しの間を置いて追いかける。見ると藤原良継の庶子の誰かのようであった。

男がこちらを見て、動きを止めた。

「構わぬよ。だが私はそなたには用が無い。内親王を呼んでくれぬか」

山部の鋭い口調に男は縮み上がって逃げ去り、その場には酒人内親王だけが残った。

内親王は特に悪びれもしていなかった。藤の巨木に細い身をくねらせてもたれ掛かり、手にした白い藤の花を唇に当てていた。

「あら、ご調子は良くなられまして?」

「ご調子は良いがな、それよりも、少し謹んで頂きたいものだな。夫ある身で他の男と親しむのは世に聞こえの良いことではないぞ」

「男君では許されることが、どうして女の身では非難されるのでございましょう。私は亡き母上のような悲しみを味わいたくないだけ」

そのとき視界が、暗転した。

空は、暗く。黒い入道雲の縁が銀色に光り、山部はそれに打ちのめされそうになった。

「何と、申した」

内親王は藤の花を振りながら云った。

「私は母上をおとなしく貞淑な女人と思っておりましたの。しかし母上が吉野へ蟄居されることになった前の晩、私にお話しくださったことがございました。ただ一度、ただ一人、父上以外に心から愛した男君がいたと」

山部は身の内から起こる執拗な震えを必死で堪えた。やっとのことで口を開く。

「それは、誰か」

「存じませぬ。教えては頂けませんでしたわ。ただ。

母上は相手の御方に御心を御返しできなかったことを、生涯悔やんでおられましたの」

山部はその場に崩折れた。さすがに驚いた内親王が人を呼ぶのにも気付かず、自分が抱えあげられて床に運ばれるのも解らなかった。

山部の意識は空をさ迷う。

(あの方も、私を愛していた)

(私は、愚かだった)

(それならば愛を得られなかったが故に、あの方を滅ぼした私は)

全身の骨さえ砕け散るような嵐の中で、山部は、自分が己れの心の一部分を永遠に殺してしまったことを、理解していた。

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白藤の斎宮 じゅり a.k.a ネルソン提督 @Ada_Lovelace

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